419【17】『夢幻の中』
「ルーシュ様?」
私は鼻血をハンカチで吹きながら何とか立ち直って自分の足で立つ。
ルーシュ様から離れる瞬間、名残惜しさのようなものを感じたのはきっと気のせいだと思いたい。御主人様の腕の中が居心地良いなんて……。侍女なのに不遜というか。だって私達は御主人と召使い。主従の関係。
でも、待って?
主従の関係だからこそ、私の全ては御主人様の腕の中……なのだろうか?
存在とか言動とか心とか。
彼の腕の中が居心地が良いのは、謂わば立場上当たり前なのだろうか?
私はルーシュ様の胸の辺りをそっと見る。
そう言えば彼に初めて会った時も、私はこんな風に視界が彼の胸と赤いローブでいっぱいだったな。今はローブではないけれど、胸の温かさは同じだった。炎の魔術師の胸はいつでも温かい。職安で抱き留められても。シトリー領で抱き止められても。場所が変わっても変わらずに温かい。温かさが胸の奥に伝わってくるのだ。
「ルーシュ様、温かいです」
「炎の魔術師だから?」
「……多分、そうなんだと思います」
「ふーん」
私はハンカチを鼻に押し当てながら、コクコクと頷く。
血も大分温かいけども。
ルーシュ様の顔を見ても、鼻血が出なくなればいいな?
そうしたら長時間見放題ではないか?
私、いくらでも見ていられる気がするのだが……。
「ルーシュ様は私がエース家の侍女だから構ってくれるのですか?」
「……それ本気で言ってる?」
「割と」
本気で言ってますよ?
「俺がお前以外の侍女を構ったことある?」
「どうでしょうか? あまり深くは分かりませんが、構うところは割と密室なのではないでしょうか?」
「密室ね」
「違いますか?」
「違うだろ? お前も侍女だから分かるだろ? 貴族はあまり密室感がない」
「密室感は……作ろうと思えば作れるような? でも割合タイムスケジュールを管理されてますよね?」
「そうそう」
「……でも、作ろうと思えば作れますよね?」
「まあ、作ろうと思えば作りたい放題だな」
「です」
「ですとか言われても? 俺は作ってないだろ?」
「いえ。夜中は完全な密室です」
「…………そうだな」
「誰でも連れ込み放題です」
「おい」
「でも、屋敷の者が気付きますかね?」
「そうそう」
「でも、私はそういうことに疎いんですよ?」
「……それは知ってる」
「知っていましたか?」
「知ってるだろ? ロレッタはココ・ミドルトンと第二王子の関係にいつ気付いたんだ?」
「……それは当日。卒業記念のダンスパーティで」
「……随分な遅さだな?」
「確かに随分と遅いですね?」
自分でも驚きの遅さだ。
勘が鈍いの? そうなの? 学生時代色恋沙汰は皆無だったから。というか皆無で当たり前なのだが。婚約者がいたわけだし。逆にあったらおかしいよね? という立場。
勘が鈍いのもあるけれど、でも婚約者の女性関係にまるで興味がなかったというのも少しあるかもしれない。だって……――。
「私、ルーシュ様が誰かに懸想したら分かる気がします」
「それは侍女なのだから分かるだろ」
「でも……――」
考えるとなんだか脳内がモヤモヤモヤモヤモヤモヤと霧の中にいるみたい。
忠誠を使う御主人様への独占欲のような感情なのでしょうか?
本来は御主人様の幸せに繋がる方なので、侍女の私も大切に思う相手ですよね?
「私、まだまだまだまだ侍女としての修行が足りないのかもしれません」
「侍女としての修行はそんなに熱を入れなくていい」
「いや、でも」
そこ大切なのです。
「重要ですよね?」
「いや、そんなには」
「え?」
「いや、そうだろ。お前はアリスターのお菓子作りが最重要事項だとでも思っているのか?」
「彼の夢ですからね。割と重要です」
「本気か?」
「割と。本気? です」
「アレは趣味だ」
「え?」
「いや、趣味だろ」
「今、私の侍女が趣味だとか言いましたか?」
今、一瞬で媚薬のような熱が吹っ飛んだ。
「ルーシュ様、今一度確認していいですか?」
大切なことだ。侍女は趣味じゃないし。仕事だし。
「私の仕事は趣味ですか?」
「…………」
「人生を掛ける仕事です」
「……人生」
「そうです。人生です」
「……へー」
「百まで続けますからね」
「百」
「そうです。百です」
「長生きだね?」
「割と。聖女ですから」
「…………」
私の言葉にルーシュ様はどこか遠くを見た気がした。
ルーシュ様が何か口の中で小さな言葉を呟いている。
地獄耳の私には聞こえた。
『そこで聖女とか』
などとブツブツ言っていた。
聖女は病気を治せますから。普通よりは長生きしそうですよね?
そんな気がします。うん。