【040】『あの日との違い』
私は王城へエース家の馬車で向かっていた。ルーシュ様が事前に用意してくれていたものだ。それだけであの日とは違うのだと感じた。
あの日は、来る事の無いエスコートを待ち続けていた。そして慣れぬドレスを着て一人王城に向かったのだ。既に心細かったのを覚えている。周りの人は皆、馬車で来ていたし、ペアで来ていた。ドレスはとても歩きにくかったし、踵の高い靴はバランスを取るのが難しい。石畳を歩く時はグラついてしまう。
あの日、何故私は一人でダンスパーティーに行ったのだろう? 既に嫌な予感はひしひしとしていた。欠席すれば良かったのだ。体調が悪いですと一言伝えれば良かった。それが出来ないから敵の罠にまんまと嵌る。蜘蛛が糸を張るように、何日も前から用意されていた罠。まんまと捕らわれて、見せしめにされた。甚振られた。私は第二王子という自分の婚約者と、その事実上の恋人にわざと笑いものにされたのだ。彼らがお膳立てした罠の中で。
そこまで考えると、気持ちが暗く沈んで行く。人の悪意が怖いのだ。窓から外の景色を見る。ただただ視界が移ろい行く。悪意を向けられると足が竦んでしまう。またあの日が再現されたらどうすれば良いのだろうか?
「ロレッタ?」
黙り込んでしまった私に父が名前を呼ぶ。
「落ち込んでいるの?」
私は向かいに座っている父を見る。あまり表情に出ない人だから何を考えているか分からない。もしくは何も考えていないシンプルな人かも知れないが……。
「落ち込む必要はないよ? 今日は婚約破棄証に印を押してお終い。君が先日相手にしたのは第二王子だが、今日は王家が相手だ。そしてこの場を用意したのは第二王子ではない。それならば、あんなに立派な馬車が僕らを迎えに来る訳はないからね。だからーーきっと大丈夫。ささっと印を押してささっと退散しよう」
「お父様は、第二王子殿下との婚約破棄は残念ではないのですか?」
「ちっとも残念じゃないさ。結婚祝いがたんまり入って、領地は少しばかり潤ったかもしれないけれど、それで毎日娘が泣いていたんじゃ割に合わないよ? そもそもお父様は今でこそ貧乏伯爵だけどね、生まれてこの方お金に困ったことはないんだ」
いや……。今、正に困っているでしょうよ?
「大丈夫大丈夫。僕らが路頭に迷うことは未来永劫ないと思うよ? 仮令伯爵家が没落しても、僕らはきっと大丈夫」
凄い自信ですね? 大分根拠が無さそうですが……。
「兄上がついている。昔から怒ってばかりの兄上だけど、僕の事を見放す筈はないからね」
「……なんでそんなに自信満々なんですか?」
父は待ってましたとばかりニッコリと笑う。
「君は実の弟が路頭に迷ったらどうするの?」
「助けます」
「即答だね」
「もちろんです。可愛い弟ですから」
「そういう事だよ」
ロレッタは少し首を傾ける。
「お父様と伯父様は仲が良い兄弟でしたっけ?」
そんな風には見えないが。
「今回の婚約破棄については、一番に兄上から教えて頂いた。どこかでこっそり見ているんだろうね」
「そうなのですか?」
「そうだよ。兄は六大侯爵家の当主だよ? 君もエース家にお世話になっているなら知っていると思うけど、他の貴族とは権勢が違う」
確かに六大侯爵家は、他の貴族と一線を画するのは分かるが。
「それにしては、お父様のことを放置してませんか?」
「可愛い子には旅をさせよ。だよ」
「お父様は別に可愛くは……」
「君にとってはね。でも兄に取ってはいつまでも手の掛かる可愛い弟なんだろうね」
父はくすくすと笑っている。
「僕に魔法の手ほどきをしてくれたのは兄だよ? ずっと昔からダダ洩れなんだよね」
「何がですか?」
「俺の弟天才か!? なんて可愛くて賢い弟なんだ。きっと稀代の天才魔導師になるぞ。このシルバーブロンドの髪とアイスブルーの瞳を見ろ。これがその証だ。という心の声が」
「……期待を裏切ったんですか?」
「そんな事はない。期待に応えたんだよ」
「そうは見えませんよ?」
父は笑いながら胸のポケットから小さな木箱を取り出した。
「開けてごらん?」
ロレッタが蓋を開くと、冷気が漂った。中には氷漬けになった葡萄が三粒だけ入っていた。
「凍ってる?」
凄い。氷を維持しているんだ。この箱の中だけ零下。どういう仕組みだろう?
魔道具よね? もしくは魔力をずっと流しているか……。どちらにしろ現存しない概念だわ。
「食べてごらん」
ロレッタは一粒口に含んだ。甘い。そして冷たい。美味しい!
「元気が出た?」
葡萄の甘酸っぱさと、シャリシャリとした果肉が口の中に広がって行く。
「兄上はどれくらいお小遣いをくれるかな?」
そう言って父は目を細めて笑った。