348【032】『一万分の一』
二稿です。
自分の生涯で、訪れることの出来ない場所を――
詩に託して伝えてくれる。
吟遊詩人の調べを聴きながら、目を瞑ると、心は異国へ、見果てぬ土地へ――
残念ながら、街道から逸れているシトリー領に、吟遊詩人は立ち寄らなかった。
小さな村々を渡る人もいると聞いたことがあるが、私は会っていない……。
もしも会っていたならば、シトリー領の領民達の心の慰めになっただろうな。
そんな風に思う。
シトリー領は貧しい土地で。でも決して農民が楽をしている訳でも、領主が不当に搾取している訳でもない。あそこは――痩せた土地だから。実りの少ない土地だから。土地の特性は誰の所為でもない。朝起きて、農作業をして、太陽が高く上がる頃、少しの休憩と初めての食事。日が暮れるまで働いて、暗い中で夕食を食べて、体も拭かずに寝る生活。来る日も来る日も続く労働の中で、吟遊詩人の詩を聴く、そんな楽しみがあれば、少しだけ救われたのではないだろうか?
領主である父は、今は領地で引き継ぎ作業に追われている身。私はアシュリという闇の魔導師を思い起こす。彼はシトリー領を変えていくのだろうか? どう見ても父よりは優秀な領主代行になる予感がする。なにせ闇の魔術師は周到で頭脳派。緻密な仕事に向いているはずで、そして彼の頭の中には何万年もシミュレートしてきたイメージがあるのだ。あの貧しい人達を、泥沼の貧困から救ってくれるのだろうか……。私もあの土地を治める領主の娘として、十年間あの場所で育った人間として、お手伝いを。
「ねえ、ロレッタお姉ちゃん……」
「ん?」
字の綴り練習を繰り返していたミシェルが私に話しかけてくる。
「お姉ちゃんはこの国の第二聖女でしょ?」
「そうですよ? 腐っても第二聖女です」
「腐ってるの?」
「いえ、腐る寸前に立ち直ったつもりです」
うん。だって今、侍女だし。
職業を寸でのところで手に入れた。綱渡り聖女?
「……どうして僕を拾ったの?」
「…………」
「どうして? 警備兵に渡さずに引き取ったの? パン屋のおじちゃんに、子供だから反省させて下働きとして引き取ると言っていたでしょ? でも子供だからって引き取る? この国の聖女が。コソ泥なんて警備兵に突き出して終りなのに」
私はミシェルの言葉を聞きながら居住まいを正す。ちゃんと答えなきゃいけない場面だ。
私の気持ちをしっかり分かるまで伝えなければ。彼が納得するまで言葉を選んで。
「直感です」
言い切った。
「え?」
「直感です」
「直感?」
「そうです」
「…………」
「直感なんて信じられませんか? ミシェル」
「…………」
「私、ピンときたのです」
ミシェルは私をとても残念そうな顔で見ていた。
いや、顔に出しすぎでしょ?
「この子が私の側にいたら楽しそう。そう思いました。私からお金を盗んだ洞察力。つまり初見でこの人から盗んでも痛い目に遭わなそうと見抜いた訳です。実際、私はあなたに暴力など振るわない。そして一緒にいるルーシュ様もシリル様も。つまりあなたは人を見抜く力を持っている。持っている人には分からないかも知れませんが、悪人か善人かを見抜ける力のある人は多くはないんですよ? 多かったら詐欺師なんて横行しませんからね? 嘘が嘘と分かる人。悪意が悪意と分かる人。善い人が悪意の罠に嵌まるのは、正直見ていてとても悲しい。ただただ正直に生きていただけなのに。何も悪いことなんかしていないのに。でもあなたがいれば『この人悪人だよ?』と助言できますよね? そんな才能のある子が、この世から失われるのは嫌だったんです。あなたさえいれば、悪人に騙される善人が減りますから。そして盗むときに私に攻撃をしなかった。私はそこを高く評価しています。悪環境に育ちながら、善意を維持し続けたあなたという存在に」
私はミシェルの漆黒の瞳を見続ける。
私はうんと頷く。
私は過去に直感を無視して痛い目に合っている。
アクランド第二王子殿下と初めて会った時の話、直感は如実に語っていた……。
この人って? 良い人? えっと……と。
薄ら薄ら感じたのよ? 不遜波動。
でも、捻じ曲げたの。自分の心を。
この国の第二王子殿下だから?
責任感がある人だよね? と。
大嘘だったな………。
もともと断る目なんて用意されてなかったから。
自分に言い聞かせたのだろうね。
その結果があのざまだ。
王立学園卒業記念パーティーでの婚約破棄。
通じたかな?
ミシェルに。
直感に従わないと、じゅくじゅくと膿傷になることを。
「財布を盗まれた時。あなたを光の網で捉えた時。あなたは跳ねっ返りで私に文句を言ってきたよね? 『財布くらい見逃せよ』って。その台詞を聞いて私が何を思ったか分かりますか?」
「…………生意気な小僧」
私はニコリと笑う。
「半分当たり。私はこう思いました。『あれあれあれスラム街の子にしては可愛いな生意気だけど』と。つまり、あんな出会いだったけど、悪くないなと思ったんです。お財布を盗まれるという最悪の状況で、あなたの印象は最低じゃなかった。なかなかどうして不思議じゃないですか? ちなみにあなたのお姉様とお母様にはそんな気持ちは抱いていません。掃きだめに鶴というかさ? え? こんな石コロの中に宝石の原石が!? という奴です」
「………………」
あら? ミシェルが無表情無言になってしまいました。
「………僕の存在には一コインの価値もないって言ってたよね?」
あのスラム街のバラックで、ミシェルの実の姉が言った言葉だ。
『お金と汚い垢だらけの子なら、お金を選ぶわ』と弟本人の前で言っていた。
アレは嫌な言葉だったな。悪意というより無神経という種類の言葉だ。
普通の神経では言えない。
あの言葉を、ミシェルの中から取り除いてあげたいけれど。
負の言葉の持つ力は、善の言葉より強いから、頭にこびり付きやすい。
どうして悪意の方が強いのだろう?
言葉の呪い。
私の心の中にも、まだ第二王子殿下の罵倒が鮮明に残っている。
頭の中にも、胸の奥にも、そして、瞼にも、鮮明に焼き付いている。
記憶をコントロール出来たなら、人はもっと楽になれるのにな………。
「ミシェル?」
私は両手を伸ばして彼の頬を包む。
そのままぐりぐりむにむにと弄る。
柔らかい。可愛い。そのまま頬を挟んでむにゅーっと中央に向かって挟む。
「アレはお姉さんの思い違いでしょう。彼女の目は曇っていたのですね? 目の前の可愛い弟の姿が分からないなんて。この世には色々な人がいますからね。彼女は自分至上主義というやつです。そんな人もたまにいますよね」
本当だよ?
分かる?
わたしがこれから一万回言ってあげるね。
君自身の価値を。
量で勝作戦。
毎日言って、一年で千回。
十年で一万回。
二十歳になった頃には、実の姉の言葉など塗り潰されている。
一万分の一に一万分の九千九百九十九回は負けない。








