【268話】無限に続く者達。
木箱の中には夥しい数の蚕が眠っていた。
幾百幾千の蚕が整然と並んでいる。
アシュリは自分が放った筈の蚕が静かに眠る姿を見ていた。
――蚕。
エルズバーグ家に取っては切っても切れない存在。
彼らはもちろん通常の蚕ではない。
微量の魔力を背負った、魔蟲である。
その魔蟲を穏やかなものと穏やかなものを何代も掛け合わせて、初代賢者が確立した家畜である。もう魔物の世界では生きられない。人間と共に生きる宿命の蟲。忠誠心に篤く、儚くて、脆い蟲。人の手が入らないと一瞬で絶滅する生き物。
アシュリはもちろんこの蟲に特別な思いを抱いている。
時空から時空へ渡り、九年の歳月を紬ぎ、飛んで来た特別な蟲。
足に繋がる絹糸を見た時、奇跡以外のなにものでもないと思った。
蚕は完全変態を二ヶ月で行う。卵→幼虫→蛹→蛾。つまり寿命は二ヶ月。
とても短い。
エルズバーグの蚕は繭を割ってから紡ぐので、命は繋がるが、それでも成虫は一週間しか命が続かない。故に時の魔術師は時の中で時間を止めて蚕を飼い続ける。死なないように、永遠を生きられるように。
そうやって、大切に維持し続けた命を戦いに使うわけだ。
一回で何万と放つ。
全てに魔法陣が刻んである。
時の空間に入れる時に、一匹一匹に魔術印を刻印する。
遣わなくて済むならそれに越したことはないが、それでも――
時の魔術師というものは、使う時は躊躇わずに遣う。
空に広がる蚕の海は、何代も昔から網膜に焼き付いている。
「……随分綺麗に捕まえたんだな……」
アシュリはそんな言葉が口から漏れる。
また、自分の手元に帰ってくるとは思わなかった。
「傷つけずに捕まえたよ? この箱はマイナス三十度を維持している。一週間を待たずに元の場所に還してあげるといい。きっと生きて行ける」
アシュリは僅かに目を瞠る。
「この冷蔵ボックスにそんな使い方が?」
「内緒だけどね? 公にもしないけど。でも……研究肌の君の興味を刺激しちゃった?」
勿論大変な興味が湧いていた。
時と絡めて使えば、選択肢が倍になる。
でもどう絡める?
「ねえ、研究肌の君がさ、領政に興味があるとは思えないんだよね? どうしてシトリー領が欲しいの?」
思考の深い部分に入りかけていたアシュリは、目の前の現実に引き戻される。
「領政にはお前と一緒でそれ程興味はないのだが、無限の時の中で、七十二万年という笑いが止まらない時間の中で俺が何を考えていたかというと、『善良な人しかいない国を存在させられるか?』という謂わばタブーシミュレートをしていた訳だ」
「……確かにそのテーマは若干タブーだね」
「何万回もシミュレートしたからな、そろそろ実行してみたい。人が少なく、出入りもなく、街道にも面していなくて、エルズバーグの手が届かない場所で、好き勝手出来るのがシトリー領だなと思っただけさ」
「セイヤーズの間接領地内でやりたいと?」
「そうともいう」
「ふーん。走りだけ聞かせて? 例えば百人いれば、その中の二パーセントつまり二人の割合で悪人が存在する場合、その二パーセントを取り除いた集団は善を維持し続けるのか、その残りの九十八人の中の二パーセントが悪に変化するのか知りたいんだけど?」
「……それは実験してみる」
「……へー」
「人の善悪だからな、まあ当然二パーセントというのは実際に罪を犯した人間の割合で、犯していないが悪い考えを持つ者は九十八人の中に残るからな? 変化の可能性は当然あるだろう」
「恐ろしく胆力のいる試みだね?」
「胆力はいるが、試みる価値はある」
「レポート的なものを月一で提出する?」
「月一で結果なんて出ないだろ? 年一だな」
「ミリアリアも興味があるの?」
「……もちろん」
「………そう? あの子、他人なんか興味ないというか、興味あるのはアシュリ・エルズバーグだけだよ? そういう子でしょ? 八年以上も頭の中はアシュリだけだったんだよ? 多分、今もアシュリのことと、あとアリスターのこと、後は僕ら兄弟が頭の隅に転がっている程度じゃない?」
「…………」
転がっている程度って………。
あんなに兄ラブなのに?
ミリアリアに八年振りに再会した時、彼女は泣きそうな顔でアシュリに抱き付いた。
一頻り泣いた後、再会の言葉の後に耳元に寄せられた第二声は、『私は脳内で王妃を三千回殺したのよ?』という物騒な言葉だった……。久し振りに会ってそれ? という。三千回って? 毎日くらいの計算だよね?
「……まあ、彼女は……セイヤーズの姫だからな。間接領地内にいるのがいいだろ? 安心というか」
「安心というなら、セイヤーズの領城が一番だけど、シトリー領も悪くはないかな……」
王都は逆の意味で危なっかしい。
行動力がありすぎて、王妃にちょっかいを出しそうだ。
エルズバーグ家で俺を苛め抜いた義理の家族。
俺を時空間ロストさせた王妃。
それ以外にも悪と呼ばれる輩はいる。
けど――
その反対の世界も見て見たいじゃないか?
人を故意に傷つける人がいない。
暴力のない場所。
悪意のない場所。
出来るかもしれないし、
出来ないかもしれない。
でも――
そんな世界を見て見たい。
時の中で、何度も切望した。
ユートピアは存在するのか?
知力を尽くして、探してみたい。
俺の七十二万年を賭けて。
そうじゃなければ、こんな馬鹿みたいな数字、
浮かばれないだろ?
「ユリシーズ? 決断出来たか?」
答えを聞かせて貰おう。








