第四十七話 儚い虫の夢3
弟三の家の窓、その隙間からお蚕様は中に入っていく。
この場所に、今日だけで二度も来る事になるとは思わなかった。
スラムの饐えた匂い。
密集した人の匂い。
清潔ではない場所。
そんな場所に絹のような滑らかなお蚕様の成虫が飛んでいった。
流石に、二度目の不法侵入は躊躇われる。
どうしようか考えつつ、窓の外から様子を窺う。
弟三の姉。
まだ寝ていない。
宵っ張りなのだろう。
けれどスラム街は、明かりなどないから、夜は寝るくらいしかないのだ。
月明かりを入れるために、窓というか襤褸切れが開けられていたのかも知れない。
弟三の姉は、簡易椅子に座り、何かをぼそぼそ呟いている。
月の光で僅かに見えたそれは、異様な光景。
コインを一枚一枚数えていた。
私のお財布に入ったものを。
まさか今日一日、そのお金を数えて過ごしたんじゃないよね?
と一抹の不安を感じた時、白く神々しいお蚕様が彼女の後頭部に止まる。
見るともなしに見ていたそれは、魔法領域を広げた。
あ、魔法展開っ!?
そう思った時は遅く、既に彼女の後頭部で闇の魔法陣が広がっていた。
どうする?
今から捕まえる?
まだ魔法干渉は始まっていない?
あれは刻印の魔術だと思うのだが、内容は――
私は右手に持った光の網を広げようとするが、その手首をルーシュ様に掴まれた。
「今は干渉するな、魔法陣を壊して魔法展開を消すと、生活記憶の欠損を生む」
?
生活記憶の欠損?
記憶に干渉している闇魔法ということ……?
それはもう、思い付くもので一つしかない。
とても有名な魔術。
――人格矯正印
人格矯正の魔術が発動しているというの!?
私は展開された魔法陣を食い入るように見ていた。
以前私が、盗賊と相対した時、彼らが震えながら人格矯正印だけは執行してくれるなと泣き叫んでいたあの魔術だ。
屈強な盗賊ですら恐れる人格矯正印が今執行されている。
それは緻密な魔法陣で、一朝一夕に作られたものではない。
あれはそう。建国王の片腕。
闇の侯爵家エルズバーグ家初代当主。
闇の賢者が開発した最高傑作にして最悪の印だと言われている。
これで悪人は従順な奴隷とまではいかないが、労働者に早変わり。
建国の裏に、人格矯正印ありとまで謳われた、最強の印だ。
アクランド王国は魔法大国。
戦いの全ては魔術を用いる。
攻撃魔法ももちろん使うのだが、メインで使われるのは工作魔法。
戦わず、一兵士も失わずに勝つことこそ至上。
その工作魔法の中でも、人格矯正印の力は計り知れない。
そもそも敵兵の大将の人格を矯正してしまえばよいのだから。
敵国に尤も恐れられたといわれる闇の魔術だ。
それが目の前で展開している。
月明かりと。
蚕の鱗粉がキラキラして。
真珠みたいな光。
やがて、闇の魔法陣が揺らぎながら明滅し、彼女の中に吸い込まれると、弟三の姉は小さな悲鳴を上げて、ゆっくりと椅子から崩れ落ちた。
そして――
お蚕様もコトリと床に落ち、やがてそのふわふわとした足の先から、真珠色の砂に代わっていく。
私は静かに窓から家に入ると、お蚕様のサラサラの砂を手にとる。
闇でも分かる真っ白な砂。
翅も跡形もなく消えてしまった。
優しく儚い虫のはずなのに――
悪夢の術を運んでいた。
ルーシュ様が少女の様子を窺い、そっと寝かせている。
弟をこれでもかと苛め抜いた少女の末路。
彼女の人格は、今日――
永遠に失われた。
たとえ、印が解除されようとも、
失った記憶は返らない。
永久に。
それはこの世から消失したのだから。








