第二十一話 スラム街の夜明け5
ロレッタは瞳の奥で強い怒りを感じながらも、自分が取るべき行動について考えていた。
そもそも――
一般的な人間の反応としては、謝罪をし、財布を返し、もうしませんと宣言するものだ。
八割方、人の反応というのはそう言った類のもだと予測される。
もちろん腹の中は千差万別なのだろうと思うが……。
表面的には丸く収めるための行動規範。
所謂常識の範囲内の想定行動。
目の前の少女の言動は予測範囲外。少数陣営の考え方だ。
マニュアル的な対応が存在しない。
なので、冷静になって、最善の対応をする必要がある。
少女ではなく、少年にとっての。
母親は論外である。
親として完全な機能不全。
姉を諫める訳でも、弟に食事を与える訳でもないのだから。
百歩譲って、姉は兎も角、何故母親もふくよかなのかということだ。
本来、自分の食事を分けてあげる存在であるべきなのだ。
子への愛情より、食欲が勝ったのか?
もしくは端から愛情なんてないのかも知れないが。
母も姉も想定内の反応であれば、こちらも一般的な対応を示せる。
言い方は悪いが目を瞑るというか、なかったことにするというか……。
二度目はないから気をつけるようにという流れだ。
しかし、その目はなくなった。
いやな例だが、家族をなんとも思っていない、それこそ自分のことしか考えていないような輩でも、有限のお金である財布よりも、無限のお金を生む弟を取るもの。
彼のスリでこの家は賄われているのだろうし……。
損得勘定が正常ならそうなると思うのだが……。
それが分からない?
刹那の時を生きている?
それとも、財布の金がなくなるまでに貴族の妾になると、未来が脳内決定している?
もしくは確定未来としてシリル様の妾に居座った?
ロレッタはシリル様をチラリと見たが、凪のように静かだった。
どう反応するかは分からないが、今のところ無表情を貫いている。
視界の端で捉えた少年の瞳は、まだ姉と母からの愛情というか優しさというかそういった種類の感情を諦めていない表情だったと思う。
とっくに諦めているのなら、財布なんて渡さないか、半分くらい使ってしまうかなど、家から追い出されない程度に適当に遇うものだ。
でも。
彼は痩せている。
だから中身をちょろまかしてはいない。
つまり、自分の食欲より、家族から認められる方を優先しているのだ。
ロレッタはその感情を尊いものだと思った。
食は命へ直結するものだから。
彼は生よりも、優しさを渇望しているのだ。
でも――
それはきっと手に入らない。
絶対じゃないけど、ロレッタが相対している少女。
自分の為にしか動かない。弟なんてどうなってもいい。愛情の欠片もない。
弟より財布が欲しいと平気な顔をして言った。
思いやりのない言葉を平気で言う無神経さ。
人間というのは心の善悪の振り幅が大きな生き物だから。
悪い人間はとことん悪い。
善悪両方を内包している人間もいるし、善性に振り切った人間もいるが、悪しか内包していない人間だって存在する。
そういう人間とは、接触しないのが吉なのだが……。
そうは言っても、家族の場合はどうする?
家族というだけで血の強制力が働く。
第三者によって引き離されるか、成人するまで待って、自分の力で離れるか。
でも、成人した頃にはそんなパワーは残ってるのかな?
絞りかすのような心の残滓が残るばかりかもしれない。
この少年もまた、生死の境にいるのだから。
先程話した感じでは、姉は悪に振り切った人間だと思う。
たとえ弟が魔法士に返り討ちにあっても、たとえ役人に連れて行かれても、彼女の心はなんとも思わない。涙一滴流さない。痛みすら感じない。彼女の心に弟の存在はないのだ。
利用して利用して利用して見殺しにする、見殺しに出来る存在。
少年はそういった姉の心は理解していない。
尽くせばいつか振り向いてくれると信じている。
子供らしい感情といえばそうなのだが。
ロレッタが少年に「家を出る? それとも家族の元に残る?」と選択を迫れば、「家族といたい。残る」と言うのだろう。つまり本人に選択を委ねる訳にはいかない。
家族と無理矢理切り離して連れて行く。
それとも早晩死ぬと分かっていながら置いて行く。
二択になるが、後者を選択することはできないから、無理矢理連れて行く事になるのだろうな。
家族と子供を無理に引き離すのは。
辛いは辛い。
聖女だからしょうがない。
聖女ってそんなもの。
命の為に家族の縁を切らせる……。
残酷だけど、私のお財布を盗んだのが縁だと諦めてもらう?
そんな風に人の心は割り切れる?
私は割り切れる?
子供にとっては、嫌な家族でも家族だから一緒にいたい?
たとえその先に待つのが死だとしても?
ロレッタは自分の心の底に、微かな揺らぎを見る。
財布はその場で取り返して、深入りするべきではなかった?
今からでも、そうする?
どちらが幸せ?
暫しの思考の後、首を振る。
いや……。
進まなければ。
迷いを越えて助けなければ。
もう見てしまったのだから。
私はこの少女と似た思考回路を持った人と相対したことがある。
私の婚約者を平気な顔をして奪った人。
私の気持ちなんて、全く考えない人。
あの自己中心的な強欲な生き方に、目の前の少女は似ている。
私は私の力では這い上がれなかった。
逃げるという思考も麻痺していて気付かなかった。
私を救ってくれたのは、私じゃない。
私は私を救えなかった。
自分の力だけではどうにもならないこともある。
ルーシュ様とシリル様が助けてくれたのだ。
だから――
きっかけくらいは作りたい。
だから進む。
最善の形というのは、少年の心の傷を最小限に収めて、後々、因縁を付けられない事。
私はその道を選んで進む。
書類でも作ろうか……。
字は読めないだろうけど、財布を盾にして押し切る?
「では、あなたの弟は窃盗の罪に問われます。私と共に中央に連れて行きます。成人していないようなので、一応子供として判決を下し、罪を償わせます。あなたは保護者としてサインと捺印を。勿論そこにいる母親でも構いません。字が書けないようなら、拇印だけでも結構です。証明になりますから」
罪人を連行するのに家族の捺印が必要な訳はないのだが、矛盾に気付かずにいてくれると嬉しい。
もし聡く気付くようであるなら、別の手を考えないと。
出来るだけ高圧的に、おかしな所など悟らせぬよう、役人ぽく演じきる。
ロレッタがルーシュ様とシリル様を見ると、シリル様が懐から紙を出し、壁を机にして文書を書き出した。
あ、あの紙。
王家の印入りだ。
公式文書にするんだ。
もちろん正式な逮捕状とかは出ないので、というか走り書きで出たら吃驚だ。
逮捕をする訳じゃない。逮捕を装って家族から引き取り、商会の下働きにするのだ。
ハニーハンターの養成と同時に文字でも教えようか? そうすれば最悪、脱走しても職につけるだろう。引き取る以上最低限の保障を付けたい。
シリル様が文書を作成している姿を横目で見ながら、この場に闇の魔導師がいない事が悔やまれた。闇の魔術を紙に流して魔術契約にしたかった。そうすれば、この少女と母親が子供を取り返すことは基本出来ない。契約不履行には闇魔法が発動するのだ。アリスターを連れてくるべきだったかもとそんな風に思う。でも、彼の専門は一応刻印の魔術ではなく、時空の魔導なのだとは思うが……。
「ロレッタ、一瞬だけ、もしくは一部だけ光のシールドを緩められる? 影に書類を完成させる」
「………」
ロレッタは内心で「なぬ??」と思った。
影の一人は闇の魔術師なのですね?
それは喉から手が出るほど欲しい。
しかし――
光シールドを一部だけ???
それは張るよりも数倍の難易度です! シリル様!








