第十話 引く程の値段です。
これは別荘三軒分くらいかな?
ロレッタの鼻腔奥の粘膜が強い衝撃を受ける。朝は物理的な衝撃だったが、今は精神的な刺激というジャンルに属するものだと思う。
なんという高さ!
絶句。
想像を絶する高さだ。
別荘三軒分とか!?!
衝撃のお値段。庶民の稼ぎで一生分以上。どんだけ!?
巷の人間は一生手が届かない値段、という事になる。
おじ、伯父様??
王子相手にどんだけ吹っ掛けた??
王子だよ? しかも次期国王を約束された王太子。
どちらかというと献上してなんぼみたいな身分の人ですよ?
更に言えば自分の部下でもあり、ロレッタにとっては二度も大変な危機を救ってくれた命の恩人という特別枠にいる大切な人だ。足を向けては寝られない。そもそも王子なので足を向けては寝ないが……。
ヤバーぃ。
木箱が………。
魔道具で魔石も付いているから高価な物ではあるが……。
それにしたって、原価は何処まで行っても箱以外の何ものでもない。
彫ったり塗ったりしてあるが、それにしたって高いだろう? という話。
もう一度言います。
木箱です。
問題は魔石の値段。これが一番高い筈。
純度とか硬度とそういうもので値段は変わって来るのだが。
どれくらいの質の魔石が使われているのだろう………。
別荘より高い? なんて事はナイトオモウヨ。
父の事だからそんなに高い魔石ではなくとも、属性さえ合っていれば焼き付けられると思う……。
永久如雨露や永久水差しだって魔道具な訳だが、つまりは氷の魔導師が魔力を込めた所が付加価値の高さなのかも知れない。水の魔導師は沢山とまでは言わないまでも、一定数いるのだし。
朝のように盛大に鼻血を噴いたりはしなかったが、鼻の奥が熱くなり、トプトプと流れる。
それを見て驚いたシリル様が、箱を置き鼻血を拭いてくれようとする。
高貴な人なのに、こういう所が気さくというか、飾らない人だと思う。だかしかし、王太子殿下に鼻血を拭かせるなんてあってはいけない事だ。
「シリル様、尊い御身が穢れてしまいます。血は重篤な感染症への感染の可能性があります。触ってはいけません」
そういうと、シリル様は少しむっとした表情をした。
「感染しても構わないと言った筈だが」
いや……それが不味いだろって話だ。
「こちらが構います」
「構わなくて良い」
そう言って手持ちのハンカチで丁寧に拭いてくれた。
ロレッタは手に力が入らずに抵抗できない。
これは妹とか弟扱いなのかな?
そんな風に思いながらなすがままになっていた。
「……少し、諫言に耳を傾けて下さい。私は今動けないので、シリル様にリフレッシュをかけられないのです。それがどれほど辛い事か……。魔導師のあなたなら分かる筈です」
「動けない者を労るのが、動けるものの役目だ。なんの問題も無い」
「……裁きの庭での事も言っています。感染する恐れのある行動は控えて下さい」
この人は王太子であるのに、今際の際でロレッタを抱きしめたのだ。正直アレは参った。死に損なったというか……死にそうなのに覚醒したというか、驚きで末期の力が奮起したというか……。
つまりはあんな事を言われては死ねない。死ぬ選択肢が自動的に削除されたという事だ。違う意味で怖かった。大切な人を感染させて終わりなんて、死んでも死にきれない。しかも相手は王太子。洒落にならないじゃないか?
「嫌だった?」
「嫌というよりも、怖かったという感じでしょうか?」
「……そうなんだ」
「そうです。二度とあのような軽率な行動はしないで下さいね」
「…………」
シリル様は、ロレッタを見ながら微笑んだ。
「無理」
「え?」
「……自分がどんな風に噂をされているかは知っている。そして自分の立場も理解しているつもりだ。けれど……あんな土壇場で出た台詞に覚悟がない訳がない。君が感染したからと言って、君から離れたりは出来ない。そんなことをしては、人生が無駄になる。生きる意味を見失う。諫言には耳を傾けるが、最終判断は自分で下す。僕という人間は、僕の心にしか従事しない」
「………」
きっぱり過ぎる程きっぱりと言い切った。
従事しないって。
つまり俺に命令出来るのは俺だけだ。みたいな? そういうアレ?
じゃあ、この人は王太子でありながら、何度でも危ない橋を渡るということ??
それって臣下としては甚だ迷惑という………。
ロレッタは微笑むシリル様を呆然と見つめる。
あの台詞がどれだけ怖かったか。
まあ、その所為で生還したともいうが……。
「ロレッタ? 膨らんでるよ?」
シリル様がロレッタの頬をツンツンと指で突っついた。
それは故意に膨らんでいるのですよ?
あなたの所為で。あなたの所為で。あなたの所為で。
「君が、移るから寄るなと言っても僕は君に寄る。君が前に出るなと言っても僕は出る。君が危ない事をするなと言っても僕はする。君が鼻血を拭くなと言っても僕は拭く。僕が拭きたいと思ったから拭く。この木箱が欲しいと思ったから買った。これに君が好きな生き血を沢山入れて、持って来てあげられるから」
「…………」
「鮮度が良いでしょ?」
「………確かにセンドハイイデスネ」
シリル様は木箱の中から硝子の器を取り出した。
冷気で硝子がやや曇る。
青の切子硝子。綺麗な器。
その中に赤い物がこんもりと盛られている。
生き血のシャーベット?????
「あの、シリル様? それはいったい何の生き血のシャーベットなのですか?」
「これはね?」
スプーンに一匙掬うとロレッタの口元に持ってくる。
「美味しいものだよ」
「………」
美味しいものって?
これは答えになっている?
「先ずはシリル様から食べて下さい!」
ロレッタが怖ず怖ずと提案すると、シリル様が満面の笑みを見せる。
「生き血が怖い?」
「……怖いというか……?? 正体が分からないと怖いというか?」
血には細菌が沢山繁殖しているのだ。
つまり動物はアウト。
生は危ない。
しかし――
採取して直ぐ凍らせたとなると、雑菌の類は心配しなくてよいかも知れない。
だがしかし、鼠なんかの生き血だった場合、口腔内等の傷から一発感染で死が待っている。
やはり――
生き血は爬虫類。
その中でも最高なのはドラゴン。
更に言うと聖魔法のドラゴンとか最高。
病気は持ってないし、魔力は恐ろしいくらい高いし、ついでにロレッタは聖魔導師なので相性抜群。
迷っているとシリル様が一口召し上がりになった。
マジか。
食べちゃったよ王太子殿下。
どうしよう? 成り行きで毒味をさせてしまった。
「はい、ロレッタあーんして」
ロレッタは覚悟を決めて口を開ける。
王太子殿下が食べて、エース家の侍女? が食べない訳にはいかない。
唇にスプーンの冷たさが伝わった。
冷たい。
そして華やかな匂いがする。
「トマト………」








