確かにここは魔の森ですが、私は魔女ではありません。
さらりとは読めません。悪しからず。
それは一際赤く色づいた野苺を、ぷつんと摘みとった直後のこと。
少女は悪寒を覚えた。
その直後、思わず目を覆いたくなるような強い風が通り過ぎたと思ったら、目の前に見知らぬ御仁――正確には、翼竜に騎乗した一人の男――が立っていたのである。
困惑がてら、無言にもなる。
「……」
内心をそのまま表せば「誰だこいつ……」といったところか。
少女は獣に遭った時と同じくゆっくりと一歩後ずさり、沈黙を保ったまま観察した。
その双眸は、凪いだ海の色。
肩までの長髪は所々に銀の入り混じる、灰白色。
美男である。それも極上の部類に入るであろう美男である。その上精悍さもあり、見るからに騎士然とした男であった。
騎乗しているのは目も覚めるような真紅の鱗を持つ見事な飛竜で、今までに見てきた中でも優美で巨体だ。
これら二つを観察して、導き出される答えは一つ。
この緑深い魔の森の奥地に、降って湧いたように現れた竜騎士というわけである。
警戒するなという方が無理な話で、視線を巡らせついでに出自の分かりそうな品も一緒に探っておく。直前まで気配を感じさせなかった点から、転移の術式で移動してきたのではという疑念も少なからずあった。
これらは長年の経験則によるものである。
「……どちら様でしょう?」
先んじて声を掛けたのは、牽制と時間稼ぎの為だ。決して好き好んでの発語ではない。断じてない。
しかし襲い掛かってくるわけでもなく、ゆったりとした動作で飛竜から降りて膝を折る男のお蔭で肝心なところは見定めることが出来た。
……どうやら『帝国』関連ではなさそうだ、と。
それを確信した時点で、少女――エリゼはひとまずの安堵を覚える。
「創竜の国、竜騎士団第七隊副長のカイエ・シーゼルと申します。魔の森の魔女殿とお見受けした。創竜の国を救うべくそのお力をお貸し願いたい」
それは想像よりも柔らかで、甘い声。そこらの生娘であれば忽ちのうちに腰砕けになりそうな美声であった。
しかし若草色のスカートを靡かせ、エリゼはその言葉に目を瞠るのみ。
当たり前だ。そもそも生娘と呼べるような年齢ではないのだから。
しっとりと長い睫をシパシパと瞬かせ、やや間をおいて薄桃色の唇が紡いだ返答はこれ以上無いほど的確に、男の希望を打ち砕く。
「確かにここは魔の森ですが、私は魔女ではありません」
その直後、まるで図った様に男は崩れ落ちることとなる。
***
東の皇国ミルト、南西の王国グラスフィールドと境界を接し、周囲から不可侵の森として周知される広大な樹海。
――通称、魔の森。
そこが古き魔女の住処だといつからか噂されるようになって数百年が経った。
古き魔女は偏屈であり、その姿は絶世の美女とも、醜悪な老婆とも、はたまた魔獣の主ともされているが、真実の姿は誰も知らない。
とは言え、真実と実しやかに囁かれる事柄が一つ。
『魔女は大いなる代償を差し出す者に対してのみ、その願いを叶えることがある』と。
密やかに、けれども脈々と語られるその言い伝えは、国の境も関係なく多くの者の知るところ……なのだとか。
唐突に森を訪れ、あろうことか目の前で気絶した男はそんなようなことを滔々と語った。
現在は仕方なく窓辺の寝台を貸し出しているものの、気力と体力を回復してもらい次第、可及的速やかにお引き取りを願うつもりだ。
ちなみに飛竜はと言えば、横の厩でとぐろを巻いている。男を仕方なく寝台に寝かせた後、起きるまでの間にと水を桶に注いで持っていったらそうしていた。
やはり知能は高いらしく、飼い主――男がその場で気絶するなり、不安げに鼻面を押し当てていたものの、担いで歩き出すと黙ってついて来た。
賢い生き物は好きだ。その点から言わせてもらえば、正直騎士よりも飛竜に対する好感度の方が高い。
そもそもの話、この森に魔女などと呼ばれる存在はいないのである。
そんな噂を真に受けてこの森を訪れる馬鹿が存在していることですら、エリゼは初めて知った。
世の中には夢見がちな大衆の多いこと。いやはや、まったくもって呆れ話だ。
やれやれ、と溜息を隠すことなく薬湯を煎じてもっていけば「やはり魔女なのでは?!」とか何とか訳の分からない事をのたまう男に、内心で「傍迷惑な……」と呟くエリゼ。
真顔で首を横に振れば、憔悴しきった横顔の男はそのまま寝台へと沈んだものである。これで二度目。迷惑極まりない。
精神面の弱い男は苦手だ。本来ならば、関わり合いになることすら勘弁願いたい。
しかし、いくら見も知らぬ人間とはいえ、森のど真ん中に放置してくるわけにもいかない。
魔獣に丸々平らげてもらう分には問題はないが、万一食べかすを残されたら後味が悪いことこの上ないからだ。
その上、誰がそれを片付けるんだという話。見捨てても、拾い上げても、どちらにしてもこちらが払う労力に大差はないのである。
ならばこその、消去法。渋々ながらも回収しつつの帰宅であった。
人よりもだいぶ残酷な思考をしているのは自覚しているが、この森で暮らす上では必要なことである。
「とにかく、いないものはいないのです。分かったら早々にこの森を出て行ってください」
「……そんな馬鹿な」
「そうは言っても、事実です」
「いや、早々に諦める訳にはいかない。それに、もうここ以外に頼るところが無いのです。私は王の為に何としても魔女と取引を交わさなければならない……」
どうやら面倒な男を拾ってしまったらしい。
エリゼはげんなりした。
そして何度目になるか分からない溜息を(内心で)零しつつ、諦めて事情を聴くことにする。
こうした場合、こちらが早々に放り出すような対応をすれば、余計な恨みや面倒事を引き摺ることになる可能性も高い。
ならばどうするか。
ひとまず話を聞けるだけ聞き、表面上は同情と共感を示し、最後は平穏にお引き取り頂く。これが最善もしくは次善の策である。
エリゼはガタガタと音を立てながら椅子を運び、よっこらせと寝台の横へ頬杖をついて座った。
「他に頼るところが無いというのは、どういう意味です?」
「王が一月前に謎の奇病で倒れられて以来、城の侍医はもちろん国中の名医を招聘して病状を回復させるべく手を尽くしました。ところが、病状は良くなるどころか悪くなる一方。まさか他国に助力を求める訳にもいかず、かくなる上はと国のしがらみのない流浪の医術師、呪い師、祈祷師、ありとあらゆる手を尽くしたものの……」
「病状は回復しなかったと」
「その通りです」
なるほど。なかなかの強敵である。
改めてその辺りを理解し、エリゼは密かに遠い目をした。
存在する限りの根気と辛抱強さを発揮し、夜通し話を聞いたところで解消される見込みのない危機的状況。
そもそも国の大事をこんな簡単に明かして良いのだろうか。
憔悴しきったふりをして、実はこの後背中からバッサリとか無いだろうな……?
「そもそも奇病と言いますが、どんな症状の病なのです?」
「病の初めは食事が喉を通らなくなったそうです。徐々に体力を失い憔悴されてゆき、今では寝台から起き上がることすら儘ならないと」
「その他には?」
「いえ、聞き及んでいるのはその程度。正直なところ、私は国でそこまで高い地位についている訳でもないのです。今回のことも、ほぼ独断で動いているに等しい」
エリゼは表面上は「そうなのですね……」とか呟きつつ、内心で「馬鹿なのかこいつ」と素で思った。
食欲不振。衰弱。たったそれだけの情報を与えられて、どうしたら病の予測が付けられようか。
これでまさかの『恋煩い』とかだったら、非常に笑える話だ。
それこそ、まさかまさかだ。
「何か、病のきっかけになったような出来事に心当たりは?」
「……そうですね、丁度隣国の王族を招いて晩餐会を開いていたことくらいでしょうか。ただ、万一にも毒を盛られるといった騒ぎもなく終始穏便な様子で終わりました。おそらく関係はないかと」
「ちなみに王様はお幾つでしょうか?」
「成人を迎えられて数年を過ごされていますが、それが病と何か関係していると?」
「伴侶は既に迎えられましたか?」
「いえ、まだですね。ただ、心に決めておられる方がいるらしいとは風の噂で」
質問を重ねる度、色濃くなっていく『恋煩い』疑惑。
いやいや、まさか。
「具体的にそれがどなたか、公言はされていますか?」
「いや、それは……正直私には分からない。けれども、噂で伝え聞くところによると『叶わぬ恋』なのでは、と」
「……まんまかよ」
「は?」
いえいえ、なんでもありませんよー。と微笑みの仮面を被り直しつつ、エリゼの心中は既に見切りをつけている。
誤解を恐れずに、あるがままの発言を許されるならまずはこう言いたい。
「阿呆か」と。
国のトップが『叶わぬ恋』とか、笑い話にすらならない。いや、全くもって笑えない。
根本的なお話。貴族なんて所詮、その血筋を保ってなんぼの世界だ。それらを束ねる国の要、王族に至っては当人本意の恋愛など夢のまた夢。下手をすれば、国が傾く。
傾いて真っ先に割を食うのは、いつだって弱者だ。
色恋沙汰なんてものは、己が出自の許容範囲で治めてこそ許されるのである。
「騎士様。改めて申し上げますが、この森に噂の魔女はおりません。存在していないものに縋ったところで、貴方の主は命を無駄に削るだけの結果に終わるでしょう。その事実を飲み込めましたら、すぐにこの森を出立するべきなのでは? 私は間違ったことを言っていますか?」
「それはっ! ……いや、確かに貴女の言っていることが正しいのだろう……」
よし、思っていたよりか物分かりが良いようだ。
エリゼは安堵に胸を撫で下ろし、呆れを内心に押し込めつつも最大限の優しさで対応する。
「今夜はそのまま寝台をお貸しします。私は隣室で休みますので」
「だが、それではあまりにも……」
「いいのです」
「……申し訳ない、改めて礼を言わせてほしい。エリゼ殿」
「では、お休みください」
「ああ」
さても、整った顔はそれ一つで凶器だ。
「全快したらさっさと出てってくれ」と危うく声に出しかかるも、そこは年の功。ものの見事に表層を繕ったエリゼ。
実は、至極冷静に観察を継続していた。
どうやら当人は自覚していないらしいが、エリゼは今迄もしくは今後泣かされる乙女たちのことを思って心中で両手を合わせる。いわゆる思春期に出会えば、最悪なタイプだ。間違いない。
色々と目が曇りがちな乙女特有の繊細な心をして、時にトラウマの元となりかねないその美貌。
「下手な腹黒よりド天然のほうが余程始末が悪い」とは幼馴染の格言だが、どうやら事実らしい。
「まぁ、でも明日までの辛抱だしな」
ポツリと、扉の向こう側に聴こえない程度に落とした本音。
しかし、つらつらと毒にも薬にもならないようなことを考えながら、エリゼは実のところ見誤っていたのである。
そう――実際は『面倒な男』どころか、『最上級に面倒な男』を拾ったということを。
*
エリゼの朝は早い。
普段通りに小鳥の囀りと共に起床し、黙々と井戸の水を汲んでいるところへ落ちかかったのは巨大な影である。
無言で見上げた先には、予想通りというか何というか、ぐるぐると喉を鳴らす飛竜が一頭。
言葉は通じなくとも、その目は雄弁に語っていた。
「ほれ、水だ。存分に飲め」
「……ググゥー」
嬉しそうに首肯し、桶に顔を突っ込む飛竜に僅かながら頬も緩む。
人は総じて面倒だが、獣は無用な嘘偽りをつくことはない。対面するなら余程に気も楽だ。
「それにしても見事な鱗だなぁ。体も大きいし、お前はどうやら良い飼い主に恵まれたらしい」
「ググゥー!」
艶のある鱗、体格の良さ。
いずれも良い食料を常日頃から与えられている証だろう。それに加えて主従関係も良好とくれば、それなりの判断材料にはなる。
少なくとも性根の悪い人間ではないことは、連れている飛竜を見れば一目瞭然だ。
「さて、ぼちぼち朝食を作るか」
エリゼが片手に下げた籠の中には、食材が無造作に詰め込まれている。
裏庭の畑から引き抜いてきた獲れ立ての野菜と、山鳥の卵が四つ。ほどほどに実った青リンゴ。乾燥させておいたハーブも一株。
普段よりも少し多めに用意した理由は、改めて言うまでもない。
「せめて薪だけでも割って帰ってもらうかな……」
思わず零れ出た、本音。
そして束の間、気を緩めていたのが災いしたのだろう。
クスクスと背後から楽し気な声がした。
「ええ、そのくらいは喜んで」
くるりと振り返れば案の定、爽やかな笑顔で庭先に立つ男を見つけた。
爽やかな朝に似つかわしい小鳥の囀りと、飛竜が背後で喉を鳴らす音。
丸々一拍分の沈黙ののち。
エリゼはほんの僅かだけ逡巡したものの、結局は諦めて苦笑を返した。
*
「エリゼ殿、そちらが素なのですね」
「……まぁな。元より野育ちだ。一応の体裁は繕っておこうと思ったが、やっぱり無理があったな」
「そちらの方が、自然で……何と言うか、お似合いです」
「それで褒めているつもりか?」
開き直って、本来の口調に戻すエリゼ。
朝食の準備をしがてら、溜息混じりに「無駄な労力だった」とぼそりと零せば、傍らから前置きもなくにゅっと伸びた両手が手元のボールを攫っていく。
無言で見上げれば、男は笑った。
「こう見えても、料理は得意な方でして」
そう言ってはにかむ男に、やや胡乱気な眼差しを送るエリゼ。
しかし今更取り返すのも面倒で、そのまま放って焼き立てのパンと作り置きのジャムを準備に回る。
暫くして「どうぞ、味見を」と差し出されたボールの中身は、想像より遥かに美味しそうな出来に仕上がっていた。
唖然としながらも、一口。
想定外の事態に、おもわずボールと男の顔を交互に見比べてしまう。
「……騎士というのは、皆これくらい出来るものか?」
「美味しいですか?」
「悔しいが、美味い」
「それは良かった」
無駄に敗北感を味わったエリゼは、やや疲れた様な面持ちで食卓についた。
向かいには男が座り、何故か甲斐甲斐しくコップへ淹れ立てのハーブティーを注いでいる。
光景自体は違和感の塊だが、その動作には少しの違和感も見出せない。単純な話、慣れているのだろう。
全くもって妙な男である。
騎士とは……と、改めて視線を遠くにやりつつも、エリゼは黙々とサラダを口に運ぶことに専念した。
「エリゼ殿、食事が済んだら話がしたい。少しだけでも時間を貰えないだろうか?」
「……貧乏暇なしという言葉を知っているか? あいにくと、昼前には出掛ける用事もある。すまないが、食事をとったら飛竜共々ここを発ってもらいたい。これ以上の面倒事は御免だ」
少しの逡巡もなく切り捨てたエリゼの言葉に、男は笑う。
「やはり、本当の貴女はなかなか辛らつだ」と独り言なのか、はたまた当てつけなのかよく分からない一言を零しつつ、それでも機嫌を悪くする素振りも、まして不快そうな様子も見せない。
エリゼはふと、背筋が寒くなる。確信も何もなかったが、何となく嫌な予感を覚えたからだ。
その予感は、一かけらも間違ってなどいなかった。
「エリゼ殿、実のところ私は仲間内から『騎士団一、諦めの悪い男』と言われていまして」
「……だから?」
「そんな私の勘は、貴女が鍵だと言うのです」
「はぁ?」
唐突に何を言い出すんだこいつは、と。至極真っ当に混乱の色を隠さないエリゼ。
浮かべた表情はまさに不審者を見るのと同じだったろうに、男は笑顔を崩さなかった。
それどころか、まるで追い打ちをかけるようにこう言い募る。
「エリゼ殿、改めて貴女に依頼したい。私と共に国主を救うべくその手をお貸し願えないだろうか」
「御免被る」
「そこをなんとか」
「……馬鹿なのか? 知人でもない奴の依頼を受ける理なんて、元よりこちらには無いよ」
要するに、縁もゆかりもない誰かの為に協力する気などさらさら無い。エリゼはそう言いたかったのだ。
だが、エリゼはここで最大の過ちを犯した。
そしてその結果は、男が次に発した言葉で明らかとなる。
「ではまず、私は貴女の知人になろう。すべてはそこからという訳だ。違うかな?」
絶句したエリゼに向けて、それは美しく微笑んで見せた男。
創竜の国、竜騎士団第七隊副長のカイエ・シーゼル。彼を知る者は、往々にして彼自身をこう称する。
――微笑の策士、と。
国でも屈指の高位貴族家が嫡男にして。
国主と並び立つ美貌の持ち主。
有する剣技は大陸における十指に名をあげられる程。
表向きは柔らかさを纏いながらも、その内面は時に苛烈にして冷酷と名高い。
そんな『彼』に目を付けられた少女は、誰がどう見ても「やっちまったな……お前」と言われそうな状況にあった。
とは言え、エリゼもまた普通の少女ではない。
元より見た目で判断すれば、相手は間違いなく痛い目を見るのは必至。
どうして彼女が魔の森で暮らすようになったのか。それを知る者は彼女自身を含めても、ほんの僅かなのである。
そしてその理由こそ、エリゼの秘密そのもの。
花びらさえ恥じらいそうな薄紅の唇から零れ落ちるのは、大仰な溜息一つ。
「……あなた、面倒臭いな」
「褒め言葉として受けておくよ」
にこにこと微笑みを深める一方の男を見遣り、エリゼは心底嫌そうに眉をひそめた。
*
男の「知人になります」宣言より数えること幾月。
「もう関わるな」宣言を幾度となく躱されつつ、エリゼは半ば諦めの境地にあった。
彼女の頭痛の種は、ここ暫く変わっていない。見目こそ極上ではあるものの、ひたすらに面倒な彼の御仁である。
もちろん、すでに居候の身ではない。
しかし『転移』の術式を多用して朝夕と現れては、珍しい食材の差し入れ、森の採集の手伝い、裏の畑の農作業、その他にもこまごまとした雑事(薪割りを含む)を笑顔で引き受けていく。
「仕事はどうした」と呆れつつ問えば、いつでも返るのは「問題ないよ」の一辺倒。
全くもって、エリゼの理解の範疇を超えている。
楡の月、七日。
この日も、エリゼは呆れ切った眼差しを横に向けて溜息をついた。
この頃は秋も深まり、少しずつだが木の葉も色づき始めている。
サラサラと足元を流れていく小川の反射と、森のささやかな木漏れ日。ここまでは良い。自然の癒しそのものだ。
ただ、輝かんばかりの美貌が並んで座り、釣りを共にしているという現状を再認識すれば印象も真逆に変わる。
釣りくらい、穏やかな気持ちでさせてもらいたいんだが……。
しかも後から来た癖に、すでに釣った数は倍を数えるという救いのない現実。これを目の前に、どうして平静を保てよう。
実のところ、エリゼの矜持は大いに傷付いていた。
「今日は大漁だね」
「……そうだな」
「二人では食べきれそうにないけど、エリゼは何か保存の仕方を知ってる?」
「酢漬け。残りはもれなく燻製にして貯蓄」
「それは良いねぇ」
何がどうして、いつの間にやら呼び捨てが定着していた。いちいち反応して「許可なく呼ぶな」と言い包めることすら面倒で放置していたら、この有様だ。救いなどない。
一見したところのほほんとしているが、この男は意外に油断ならないのだ。
「偶には晩酌も良いと思ってね。今日はとっておきを持ってきたよ。エリゼも飲む?」
「良い酒ならな」
「エリゼは容姿からは想像もできないけど蟒蛇だよね。でも昼間から酒瓶片手に釣りをするのは危ないから、止めようね?」
「……」
保護者か、己は。
そんな意味合いを込めて見据えた先には、予想外に真摯な色があって思わず閉口した。
これだよ。何だか最近、事あるごとに見せるようになったこの色が苦手になりつつある……。やれやれ。
「分かった。分かったから、そんなに見るな。気が散って仕方がない」
「君なら、そう言ってくれると思ったよ」
灰白色の髪を靡かせ、天使のように男は微笑む。
これ一つで百人くらいの女性陣は落ちそうなものだが、至極残念なことにこの場にいるのは自分のみ。これぞまさに笑顔の無駄遣いである。
無駄だろうと察しつつも、エリゼは苦言を呈した。
「そもそも数月の付き合いだというのに、色々と口出しが多すぎる。細かい男はモテないぞ」
「……エリゼ、いい加減に俺の名前を呼んでくれないか?」
もう一つ。ヒトの話を聞かない男はもっとモテない。
余計に付け足してやろうかと思ったが、これ以上問答を続けるのも面倒で舌打ち一つで誤魔化した。
「こら、舌打ちも程々にね」とすかさず指導が入るものの、断固無視である。実に面倒臭い。
「名を呼び合うことは、互いを認めた証だろう? だから俺は君に名を呼んでほしいんだ」
「……強制するようなものでもないだろう。名を呼ぶかどうかくらい、自分で判断させてもらう」
「頑固だなぁ」
「それは此方の台詞だ」
つい、と竿の先が揺れるのに意識を向けていたエリゼは、結果的に僅かばかり反応が遅れる。
ふいに落ちかかった影と、全身を包み込む腕の感触。
束の間呆然とし、それから徐々に覚醒したところで冷めた眼差しを送る。
「エリゼ、お願いだ」
「……阿呆。こういう手はそこらの生娘を懐柔する時に使うもんだろう」
グッ、と持ち上げた竿の先。
勢いよく釣り上げられた大物の川魚が、狙い澄ましたように男の横顔を殴打する。
「……ぐふっ、よ……容赦ないね、エリゼ?」
「許しもなく触るからだ、馬鹿」
「えーと、つまりは許しを得れば……」
「そんな日は永遠に来ないぞ、馬鹿者が」
釣り上げた魚の大きさを満足げに確かめた後は、ほんの少し溜飲も下がったのか、微かに鼻歌を歌い始めるエリゼ。
その膝の上には、男が土産に持参したマーリエの花束が大切そうに乗せられている。
なんだかんだ言いつつも、エリゼは贈り物を無碍にすることはない。これは送り主が誰であれ、モノそれ自体に罪はないという信念に基づくものだ。
ここ数月の間でそれを知る男――カイエは薄らと微笑み、何事もなかったかのように彼女の傍らに座って釣りを再開した。
チチチ、と小鳥が囀り、雛罌粟の花が川辺に揺れ、ゆるゆると穏やかな時が過ぎていく。
彼らから少し離れたところで、飛竜はひときわ大きな欠伸を零していた。
見仰ぐ空は、どこまでも青く。
思えば、その時はまだ、猶予はあると思っていた。
穏やかな時が、続くものだと信じていたのだ。お互いに。
*
椿の月、二十日。
その日、エリゼは裏庭で冬越しの準備をしていた。
亜麻色の長い髪を麻糸で無造作に縛り、雲行きの怪しい空を時折見上げながら作業していた彼女の視界に突然現れた、緋色。
それはここ数ヶ月で、とても見慣れた色になった。
優美な巨体をくねらせ、着地した一頭の飛竜。そこに騎乗していた男が無言で舞い降りてくる。
「……今日は転移をしなかったのか?」
その様子を訝し気に見ながら、エリゼが問うた一言。
返る言葉に、普段の柔らかさはない。
「王が、危篤だ」
「……」
「エリゼ、これが最後になる」
「……そうか」
じっ、と見下ろされているのは分かっていた。
その凪いだ海の色に、懇願の色が滲んでいるのも分かっていた。
それでもエリゼは、選べない。
この森を離れることは、出来ないからだ。
「お願いだ。共に、来てほしい」
「できない」
「……エリゼ」
「共には、行けない」
「…………分かった。無理を言って、すまない」
その双眸に宿っているだろう、失望の色。
いつからか、直視することを恐れるようになった。どうしてそれを恐れるのかも、エリゼは十分すぎるほどに知っている。
エリゼは見上げなければならなかった。顔を背けるなど許されない。後悔すると分かっていれば、尚更に。
けれども、エリゼはじっと地面を見下ろしたまま、ぐっと唇を噛み締める。
以前の彼女なら、呆れて自分自身を軽蔑したはずの態度をとってまで、視線を逸らし続ける。
そうしなければ、自分を誤魔化し遂せる自信がなかったからだ。
「さようなら、エリゼ。俺は君と過ごせた日々をこれから先もずっと、忘れない」
「……いや、忘れてくれ」
「忘れないよ。俺は、絶対に忘れたりしない」
「……」
ふわり、と頬を撫でるように舞い上がった二つの大きな翼。
視界の端に、離れていく緋色を感じながら、それでも一歩も動けずにいたエリゼは。
『彼』が遠く離れた後に、ただポツリと呟いた。
「許してくれ、カイエ」
*
エリザレーヌ・ファレータ。
それは齢十七にして帝国の才女として名を馳せ、生まれつきの高い魔力特性をして将来を嘱望させていた少女の名だ。
ファレータ家はかつての戦績から侯爵の位を賜っている家柄であり、その領地は広大でこそ無かったが、海辺の要地としてそれなりの名を馳せていた。
それなりの平和を保ち、活気に満ちた北東の海街。その地で両親に愛され、変わり者と名高い四人の兄弟に囲まれて育った少女。
侯爵家の令嬢と呼ぶには少し奔放で、のびのびとした成長を遂げた少女もまた社交界においては『変わり種』として噂の的となっていたが、兄弟と共に彼女はまるで気にも留めていなかった。
少なくとも齢十七の初めての夜会を迎えるまで、彼女は幸福だったといえよう。
彼女なりに真っ当に、平穏な日々を甘受していた。
運命と呼ぶべき『その日』があったとするならば。
それは王城にて開かれた、舞踏会の夜。
初めて帝国の王都アマーリエを訪れたエリゼは、一番上の兄にエスコートされて社交界への第一歩を踏み出していた。
煌びやかな王城の広間を見渡し、精緻な術式で守られた天蓋を眺め、色彩鮮やかなドレスと酒気に溺れそうになりながらも、必至に兄の手を掴んで広間の端から端までを移動して歩きながら――
そして、ようやく訪れた一時。
「色と匂いに酔いそう」と弱音を零したエリゼを気遣い、兄が妹を連れて行ったのは中庭を見渡せるバルコニーだった。
知り合いに挨拶をしてくると言い置き、再び夜会の喧騒に戻っていった兄を見送った後。
エリゼは完全に油断していた。
そもそも正式な夜会自体が初めてで、何がどうして身の回りに一から十まで気を配れただろう。
ざわり、と遠くで喧騒を聞いたような気がしたものの、彼女は疲れから手摺に体を預けたまま夜空を仰いでいた。
ふわり、と香ったのは宵を思わせる『月下美人』。
嗅ぎなれないそれに咄嗟に身を翻そうとしたものの、僅かに遅く。
低く、甘やかに、耳元で囁かれた声。
それに理由もなく本能からの怖気を覚え、一瞬にして背筋を冷たいものが駆け上がる。
「悪くない。気に入った」
左手を攫われた勢いのまま、避けるゆとりもなく緋色の双眸は目の前にあった。
煌びやかな夜会の明りに照らし出された、悪魔的な美貌。
エリゼはそれが誰かを知っていた。いや、正確には先ほどまで遠目に『眺めていた』はずの人物だった。
しかし、疑問は解消されない。
そう、一番の『どうして、ここに』が。その躊躇にも似た動揺が、全てを手遅れにした。
眇められた双眸に愉悦の光が灯ったのを知って身を捩るも、虚しい努力だ。
――まるで見定めた獲物に喰らい付くように。
まさにその表現にふさわしく、性急に貪られる感覚に怖気が走る。
深く、一欠けらの慈悲もなく、幾度も重ねられた容赦のない口付け。
周囲からあがる悲鳴にも似た叫びによって一気に現実へと引き戻されるも、後悔は先に立たない。
散らされた以上、元に戻ることはもう叶わなかった。
それが貴族の戒律であり、抗うことのできない制約であったが為に。
両親ですら何も手出しができず、涙を呑んで一人娘の婚約を願い出る他なく。何よりも、相手が悪すぎた。
帝国が王家、その直系に当たる継承権第二位エルロード・ロゼ・フランネル。
エンデラ側妃の長子にして、長い帝国の歴史においても類を見ない美貌をもって生まれ落ちた王子。
神々に愛されし相貌との呼び声こそ、風の便りに聞き及んではいたものの、実際に遠目で眺めたエリゼは内心で「綺麗云々という以前に、悪魔的だな」とひっそり思うばかりだったのだが。
結局のところ、自分に関わり合うこともないだろうと達観していられたのは僅かな間に過ぎなかった。
風花が空に舞い始めた頃から数えること、幾月。
現実はどこまでも残酷で、残された月日すらも容赦なく削り取られていった。
仮にも貴族の結婚となれば本来、式の準備まで半年ほどは掛かる。それが何を思ってか三月ほどにまで短縮され、絶望に打ち震えていたあの日々。
打ち合わせと称して城へ呼び出される度、あの金色の悪魔は執拗に迫ってきた。
全身全霊で抗うも一蹴され、貞操を奪われかけた記憶は忘れることの出来ない悪夢そのものだ。
「なぜ」と問うたびに、悪魔のようなあの男は耳元で囁いた。
「冷めた目で見ていただろう? だからお前を選ぶことにした」
意味不明である。
そも、普通の心理状態であれば『冷めた目』へ不快を覚えこそしても、好意など抱く筈もない。
詰まるところ、この男はどうしようもないほど歪んでいる。
その結論に至った時、改めて思った。
何が何でも、この男のものになるのは嫌だと。こんな変質的な目を向けてくる相手をどうして真っ当に愛せようか、と。
それからのエリゼの行動は、迅速かつ慎重なものだった。決して誰にも悟られてはいけないし、家族にすら相談は出来ない。
孤独に、それでいて必死に『逃亡』の為の準備を整えた。
それは、式の当日に実行され――エリゼは半死半生の状態で、緑深い森の中に転移を果たすこととなる。
血の臭いに釣られて魔獣が続々と集まる気配を感じながら「……やっぱり無茶すぎたなぁ」と諦め半分、絶望半分で己が命を諦めかけたエリゼ。
それでも、彼女は欠片も後悔はしていなかった。
あの悪魔に慰み者にされるくらいなら、と。薄らいでいく意識の中でも、はっきりとそう思ったのだ。
「あれれ、なんか珍しいのが落ちてる……」
そして唐突に耳に響く声。
緊張感の欠片もないそれが、結果的にエリゼの運命を再び変えることとなった。
放浪の魔術師、レイブンドール。
偶然にも森に居合わせた彼のお蔭で、エリゼはその命を繋ぐことが叶った。
しかしながら鳥の巣のような黒髪をフードに包み、呪いを受けた者特有の赤紫の片目を鈍く光らせた、不吉を体現するようなその姿。
命の恩人に失礼極まりないとは思うが、正直「お迎えが来た」と真面目に思ったものである。とは言え、すぐにそれが誤解だということは分かった訳で。
魔獣を退け、応急手当をしてくれた彼は「おーい、生きてる?」と耳元で叫びながら夜通しで看病に当たってくれるほどの善人だった。
そしてパッチリ目を覚ました翌朝、当然のことながら事情を聴かれ、細部を暈しながら説明した時には以下のような文言を貰うこととなる。
「うわぁ、素人さんが『転移』なんて恐ろしい術式によくもまぁ……」
これには流石に何も言い返せず、閉口したエリゼ。
事実、無謀だということは術式に手を出した自分自身が一番身をもって知った。四肢を引きちぎられるような激痛と、全身を幾度も岩に打ち付けられるようなあの感覚。
おそらく生きている限りは忘れることは出来ないだろう。
「まぁ、何だ。それだけ君が……命を懸けるほどの決死の思いで逃亡を成し遂げたことに、僕は感嘆の思いを抱く他ないね」
「……ただ、必至でした」
ポンポン、と唯一傷を受けずに済んだ頭を軽く撫でられて、思わず涙が出そうになったのを今も覚えている。
誰にも打ち明けられない気持ちを、ようやく少しだけ吐き出せた安堵。
目前まで迫っていた悪魔との結婚から、仮初かも知れなくとも逃げ出せたことへの幸福感。
全てが入り混じり、嗚咽を堪えるので精一杯だった。
それから半月ほどに渡り、レイブンドールは森に滞在してくれた。
手当は済んだと言っても、最初の数日間はエリゼの全身の自由はほぼ利かないと言って過言ではなかった。
その様子を見て察した彼は、「別に急ぐ旅でもないから」と躊躇いも見せず、当面の治療に当たることを快諾したのである。
こちらがいっそ呆れるほど、彼は根っからの善人だった。
初夏を少し過ぎ、むっとするほどの緑臭さと精気に満ちた樹海の奥。
森の中に打ち捨てられたようにあった猟師小屋を魔術で修繕し、レイブンドールと共に暮らした日々はあっという間に過ぎていった。
まるで親鳥が雛鳥を守るように、彼は驚くほど親身にエリゼを労わり続けた。
身体中の傷を癒すだけでなく、栄養のある食事を用意し、時に道化じみた動きをして彼女を笑わせる。
そうして数日、数週と経った頃。
エリゼが遠回しに魔術師になった経緯を問うた時にはこんな答えが返ってきた。
はじめは国を離れる気など少しもなかったのだ、と。
かつてはどこぞの国の高位貴族だったというレイブンドール。
そんな彼は、家格を捨て、行く当てのない旅に出た理由を苦笑しながら語った。
恨みの所為で、生まれつきの色彩を喪ったこと。友人は次々に離れてゆき、家族には疎まれ、恋人には婚約を破棄され、築いていたもの全てが崩れていくような感覚を味わったこと。苦しみ、足掻いた末に自死を選びかけ、そこでふと自分の奥底に眠る魔力に気付いたこと。
それがあまり暖かくて、思わず泣いてしまったこと。
腹違いの兄に呪いを掛けられたことを切っ掛けに、彼は様々な感情を味わい、そして考えたそうだ。
これからどうすれば自分は生きて行けるのか。
生まれ故郷を捨て、自分が生きてゆく術はあるのかどうか。
そうして考え抜いた末、彼は血反吐を刷くような思いで放浪の旅へ出た。旅の半ばで幸運にも師となってくれる人物に出会い、そこでようやく自活の道を得る。
どうせ真っ当に生きられないのなら、生まれつきの魔力を生かして最後まで独りで生きて行こう。
そう決意出来たのもここ数年のことなのだ、と。そう言って笑った彼の笑顔は真昼のように暖かく、エリゼは転移した直後には我慢できた涙が頬を伝うのを、黙ってじっと噛み締めていた。
「向かい合う勇気を人はこぞって褒めるけど、逃げるが勝ちって言葉もあるよね? 僕は後者を選んで、今ここにいる。故郷を追われて、行く先もない旅だけど……まぁ、何というか辛さも嬉しさも半分だけど、でもこれだけは言える」
――僕は今、後悔してない。
レイブンドールのその言葉に、エリゼは黙って頷いた。それは自分と同じだったから。
これ程の痛みを味わっても尚、転移せずに用意されていた筈の未来を甘受することの方がエリゼにとっては苦痛だと断言出来た。
緋色の目に射すくめられ、意志など関係なく所有印を散らされ、冷え切った声で絶望的な未来を言い含められた記憶の断片。
それが死の恐怖を上回ることを実感した時、エリゼはようやく今ある幸福を全身全霊で受け入れることが出来たのかもしれない。
失うほかなかった全部を嘆き、ようやく溢れ出した人間らしい感情に体を折り曲げて慟哭した。
なぜ。
どうして私が。
憎い。悔しい。悲しい。苦しい――!!
大地に爪を立て、血塗れになりながら嗚咽を零す姿は狂人の一歩手前といった風情すらあったはずだ。
けれども傍らで、何も言わずにレイブンドールは見守ってくれた。
その無言が、優しく。
ただとても、嬉しかった。
「……君はまだ若い。この先についても考える余力はいくらもあるさ」
夕明かりを浴び、ようやく枯れた涙。ゆるゆると上向いて深呼吸したエリゼの下へ足音も静かに歩み寄った彼は膝を付き、薄らと笑ってそう言った。
エリゼはその言葉に深く一礼し、鼻を啜りながらこう返した。
「ありがとう、レイブンドール。貴方のお蔭で私は、今ここで生きていられる」
「はは、違いないね」
それから五日後、レイブンドールは森を発った。
森を離れるにあたり、彼は森で暮らすための最低限の知恵と必要な物品、そして身を守るための呪い符を残していってくれた。
お蔭でそれからの数年、エリゼは試行錯誤を繰り返しながらも森で生き抜くことに成功したのである。
*
――そう、あれから幾年過ぎたことだろう。
エリゼはいつからか、過ぎ行く年月を数えるのを止めていた。森の中で暮らしていく分には不要であったし、境目のこの土地にあって、どの国の暦を覚えたらいいのかと頭を悩ませるのが馬鹿馬鹿しく思えたからでもある。
術式の反動か、エリゼの身体は代謝が異常に鈍い。
従って、姿見で時々確認する姿は逃亡してきた頃からほとんど代わっていない。
精神はとっくに相応の年齢に達しているにもかかわらず、その身体だけが置き去りのまま。
いつしか思考すら、引きずられるようにして停滞していた。
凍り付いたように、ただ毎日を生きることにのみ意識を傾けていた。それだけだったはずの日常のかたち。
そこに色が付き始めたのは、恐らくあの日、手の中の瑞々しい果実を摘んだあの瞬間から。
陽光を浴びて、透き通るような灰白色の髪。
快活な笑い声と、青い海を思わせる両の目。
やたらと見目麗しい外見をしている割には、案外気さくでそれでいて狡猾な一面もしっかり持ち合わせているところが人間臭くもあり。
戸惑いから呆れへ、呆れから諦念へ。諦念から、情へと。
ほんの少しずつ『彼』へ向ける自分の思いが変化していくのを、為す術もなく実感させられる日々の中で。
「一緒に食卓を囲むと、一層美味しく感じられるのは何でだろうねぇ?」と笑う声にいつしか慣れて。
「今日の差し入れはとっておきです」と飛竜の背中一杯にイガイガの果実を1ダース(つまり12個)乗せて訪問してきたカイエの得意げな笑みに、呆れを覚えて。
「力仕事は任せてくださいね」とやんわり言い差しつつ、2箱分の山盛りの芋を持ち上げる手が若干震えていることに気づかない振りをするのに、苦労して。
この上なく面倒な男。その認識は今の今も変わらない。
けれど、エリゼはいつしか本当に笑っていた。
無意識で次はいつ頃訪れるだろうかと指を折ってしまっていた。
一人分で済むはずの収穫を、余分に用意することに違和感を覚えなくなっていた。
思えば、案外自分はちょろい。生娘なんてとても呼べた齢ではないのに、色々と抜けている。
つまるところは、そういうこと。今となっては言葉にするのも馬鹿馬鹿しい。
エリゼは、とうに自覚していた。
「……あー、もう。今更過ぎる」
寒空の下、エリゼはポツリとそう零して。
そして密やかに、ひとつの決断をする。
きっと自分はこの選択を後悔しない。そう言い切れるからこそ、今まで築き上げてきた森での平穏に別れを告げる覚悟もできてしまう。
人の恋情をして、幸福も地獄も紙一重。
それでもカイエと『共に行く』ことに頷けなかった自分の身重さを思えば、泣けてくる。
儘ならないなぁ、としみじみしてしまう。
この身体に巻き付いた鎖は、今も尚消えてはいないことを知るがゆえに。
少なくとも、帝国の王が死ぬまでは。
帝国において繰り広げられた血で血を洗う闘争のはじまりは、今を遡る事11年前のこと。
先王が病に倒れ、第一継承者であった王太子が消息を絶ったことに端を発している。
長きに渡ったそれもようやく終結したのが、4年前。その後、正式に即位したのが現王だ。
派手に粛清を繰り返したせいで、辺境の地――具体的に言えば東の皇国ミルトの農村までにも、その風聞は惜しげもなく届いた。
彼の王名を、民衆は『黄昏の威王』と呼んだ。
王の名は、今もまだ忘れ得ぬ悪夢と同じであった。
なればこそ、正式な書面に残る形で森を離れることなど到底出来る筈もない。
「これはもう、森に永住し続ける他なくなったな……」と。他人事のように淡々と考えながらの数年後だ。
まさに、降って湧いたように森に現れた闖入者。
知人昇格を目的に足しげく通うその姿に、いつの間にやらほだされた今時分。
全くもって笑えない。いや、真面目に。それでも辛うじて理性を残せたことを、何よりも褒めたい。
正式な国の騎士の同伴ともなれば、最悪即日で『あれ』自身に居場所を嗅ぎつけられるだろう。
誰が選ぶんだ、そんな高い代償。
流石に世俗を離れて長いとはいえ、そこまで耄碌してなかった自分に心底ほっとした。
正直、愚かな王の生き死についての関心はまるで無い。皆無と言っていい。見捨てる気満々である。
けれども、最後の最後くらいは自分が愛した男の役に立ちたいと願うのは……まぁ、なんだ。とても人間らしい望みだと思ったのだ。
それくらいは、願ってもいいだろう――と。
*
「……さてと、ここから先が本当の意味での正念場だ」
その昔、レイブンドールからもらった呪い符は全部で10枚。
そして今、最後に手元に残していた3枚の内の1枚を使い切った。『知覚阻害』のそれを身に着け、もう2度と紡がないであろうと思っていた『転移』の術式を行った結果は――
まぁ、なんだ。思ったよりかは無事である。
前回の満身創痍に比べれば、片腕が使い物にならなくなった程度でむしろ驚いた。何がどうして、上達している。
初めて訪れた創竜の国を、エリゼは深く被った外套越しに見渡し、口許に笑みを浮かべた。
こうして森以外の景色を見ることは、何年振りだろうか。
カイエから口伝えで聞いていた街の様子を実際に見て、エリゼ自身単純だとは思ったが嬉しい気持ちを隠し切れない。
同じ場所に立つことは望めなくても、同じ風景を見ている。
その実感すら、エリゼにとってはささやかな喜びに繋がった。
賑やかな街道を抜け、路地を足早に歩き、巡回している騎士たちの目に極力触れないようにしながら、王城の全景を見渡せる時計塔まで辿り着く頃には、すっかり日は沈んでいた。
「カイエ、貴方の育った国は美しいところだな……」
仰いだ先、浮かぶ月はどこまでも透き通って青い。
ぽつりと零した言葉に微かに籠るのは、憧憬にも似た何か。
月の影に身を忍ばせるようにして、エリゼはひっそりと王城の地下水路に向かって歩み出した。
*
半月に一度の蒼月が空へ溶け、真昼の太陽が創竜の国を照らす頃。
王城は喧騒に包まれ、中枢の者たちは皆一様に『その報せ』に驚嘆するばかりとなった。
何しろ、城の侍医たちがこぞって「持ってもあと数日」と宣告した国主が、幾月か振りにその姿を階の上へ現したからである。
顔色こそ未だに蒼褪めこそしていたが、その両足はしっかりと地を踏みしめ、意志の籠った眼差しを臣下へ送る国の主。
十七代竜王フラウド・エーダリア・オルグムートは真白き両翼を地に伏し、長きにわたって臣下たちに心配を掛けたことを詫びた。それと同時に己の甘さが病の全ての起因であるとし、臣民の命を預かる身として覚悟が足りなかったことを訥々と語る。
最後に若き竜王は、以下のような誓いを述べたという。
――私はもう二度と、己の弱さに身を預けたりはしない。この身に流れる血の定めと共に生き、そしてこの国とこの地に住まうすべての民、私が大切に想う者たちを守り抜いていくことを誓う。
示されたその意思を受け、居並ぶ臣下は皆一様に涙を流したという。
「――今、この場に居並ぶ忠実な騎士たちへ問う。古の森の『魔女殿』より伝言を預かっている。誰か、思い当たる者がいれば、進み出よ」
銀と黄金、二色の鈴が鳴り響く城の大広間。
その端から端まで響き渡る様な澄んだ王の声に、ざわりと揺れる白亜の鎧の中から進み出る影が一つ。
言うまでもない。竜騎士団第七隊副長のカイエ・シーゼルだった。
「所属を述べよ」
「はっ、竜騎士団第七隊副長カイエ・シーゼルと申します」
「……なるほど、特徴は一致している」
「は?」
思わず己が国主に対し、呆けた声をあげて固まるカイエに周りの騎士たちから鋭い視線が飛ぶ。
慌てて居住まいを正した彼を、よいよいと手を上げて許す国主は微笑みを隠さない。
「そなたのお蔭で、私はこうして命を繋げることが叶った。改めて礼を言う」
「……竜王陛下。お言葉ですが、私にはそのような言葉をかけて頂く様な心当たりは……」
「ふむ、心当たりはないか」
やや首を傾げ、苦笑ともとれる表情を浮かべた階上の王。
ちょいちょいと手招きをすると同時に、周囲を取り巻く護衛たちへ人払いを命じた。
一気に閑散とした大広間で、向かい合う王と配下。
通常ではあり得ない措置に、カイエは内心で混乱の極みにあった。
「これから話す内容は、この王城においても私以外に極僅かな者しか知らぬ。しかしカイエ、そなたは知るべきだろう。……実は伝言というのは真っ赤な嘘だ。あくまでも私の独断に過ぎない」
「それは一体……」
「実は昨晩、私の寝所にある侵入者があってな。暗殺者だと思った自分はてっきりナイフか暗器が落ちてくるかと予想したのだが、実際はかなり強烈な平手打ちだった」
「……あの、それは、もしや」
「外套を捲り、その侵入者はまず第一声に何と言ったと思う?」
――この大馬鹿者が!! 国を預かる身としてその体たらく。いっそ殺意すら覚えるよ。
カイエは本格的に頭を抱えてしまった。
言う。自分の知る彼女ならば、例え相手が国のトップだとしても、それ位は言うだろう。
それはもはや確信だった。
「それから私は寝台の上で懇々と説教をされ、気付けば明け方近くになっていた。ふふ、色々と情けない胸の内も聞いてもらったよ。お蔭でなんだかスッキリした」
「……あの、何と言ってお詫びを申し上げればいいのか……」
「うん? その必要がどこにある?」
「……は?」
静かに微笑む国主を見上げ、言葉を失くすカイエ。
若き竜王がそれから訥々と語り始めたのは、今まで知ることのなかった『彼女』の過去だった。
森でひっそりと隠れるように暮らしてきたエリゼ。
彼女がそうせざるを得なかった事情を知るにつれ、青い双眸の中に隠し切れない憎悪と憤怒が滲み出す。
階上の王は、それをじっと見つめていた。まるで、何かを見定めるようにして。
すべてを語り終え、残ったのは静寂。
束の間の瞑目の後、王は階下の騎士に告げる。
「カイエ・シーゼル。国の忠実な騎士よ。この場をもって、そなたの任を解く」
厳かにそう宣告された刹那、カイエの双眸に過った驚愕の色。
けれども、見上げた先の国主が無言の内に伝える『本意』を悟り、彼は音もなくその場に跪く。
「承知いたしました。我が君」
「もはや、そなたは自由だ。これから先をどう生きるかはそなた自身の選択に任せよう」
白き翼を靡かせ、大広間を去った王。
それから暫く跪いたままの姿勢でいたカイエは、実のところ思い返していた。
森へ降り立ったあの日、エリゼを見つけた時から今に至るまで。
絶望から始まった、ありきたりで大切な『恋』の記憶を。
国主が病に伏せって以後、暗い雲が立ち込めるようになった創竜の国。
隣国からの小規模な侵攻が頻発し、親交国間における交易にも影が差すようになり、いつしか国元に不穏な空気が蔓延し始めていた。
とは言え、一介の騎士でしかない自分に出来ることなどたかが知れている。それを承知の上で国を飛び出したきっかけは、不思議な巡り合わせと衝動に突き動かされた末の行動だった。
――魔の森には、願いを叶える魔女が棲んでいる。
――魔女は気まぐれに、ひとつだけ願いを叶える。
遠縁に占術士として名高い二人の大叔母がおり、幼少の頃に一度会ったきりの彼女たちから急に呼び出されたかと思えば、そんな御伽語りのような文言を言い聞かされた。
数日は馬鹿馬鹿しいと放置していたのだが、日を追うごとにまるで呪いを掛けられたように脳裏に蘇ってくるのだから堪らない。
その上、国主の病状は良くなるどころか悪化の一途を辿っていく。
これは賭けだ。
そう思い切り、相棒と共に国を出たことが運命の分岐点だったのだろう。
不眠不休で国から森まで飛んできた上、ようやく見つけた少女に「魔女ではありません」と否定された衝撃で生まれて初めて意識が飛んだ。
目覚めれば、見知らぬ家の中。表面上は穏やかな口調で話を聞いてくれたものの、明らかに「とっとと森から出て行け」オーラを発していた少女に内心で納得こそすれ、不快などまるで覚えなかった。
翌朝、早々に被っていた猫がばれたことで開き直ったのか、ようやく素で話してくれるようになった少女。けれどもこれが案外可愛らしく、自分でもうまく説明できないが、ここで繋がりを絶ってはいけないと強く思った。
その上での苦肉の策が、知人になります宣言。もう少し何とかならなかったかと再三考えてみるも、その時その場において自分の出せる最上の言い訳だったとしか思えないのだ。
そう、エリゼは出会った時から不思議な少女で。
明らかにその容貌は自分よりも年下だと思えるそれなのに、事あるごとに「自分をそこらの生娘と同列に扱うな」と言っては不機嫌そうな様子を隠さなかった。
まるで、慣れないネコに接しているような空気感から始まったエリゼとの関係性。
ただ幾月か経るとそれも少しづつ変化してゆき、時折エリゼの表情に緩んだような色が混じるようになってきた。
これが正直に言って、かなりの破壊力を秘めていた。自分としては珍しいことに事あるごとにボロを出しまくるほどの(要するに動揺していた)威力だった。
いつからか、当初の目的など頭からするりと抜けていた。
畑仕事を手伝いながら、ふと傍らに彼女の姿があるだけで何故だか和むようになり。
珍しい果物や野菜を市場で見つけ、箱単位で買い付けることに躊躇いを覚えなくなり。
食卓を囲みながら、何となく団欒ってこんな感じなんだろうなぁ……と思いながら話題を振ったら、思いがけず、鳩が豆鉄砲を食ったようなエリゼの表情に素で吹き出しそうになったこともあった。
森での採集がてら、並んで散歩をしたり。
川釣りの合間、何てことのない話題を振りつつ、至って平穏な時間を過ごしたり。
いつしか、エリゼの下へ通う日々を心待ちにしている自分に気付いた。
かけがえのない存在としてエリゼのことを思慕するまでには、さほど掛からなかった。
こうして振り返ってみれば、存外自分もちょろかったな……としみじみと思い返しつつ。
密かな想いを抱えながら静かな森で過ごしている内に、あっという間に月日は過ぎていく。
このまま、もう少し。
叶うならば、この先も、ずっと。
けれどもそんなカイエの内心の願いを嘲笑うかのように、その日は訪れる。
凍り付く様な初冬の風に、胸騒ぎを覚えた翌日の早朝。
王城から『緊急招集』が発布され、国中の騎士へ内密に通達されたのは――国主危篤の報せ。
恐れていたことが現実となり、カイエは身体を左右から引き裂かれそうな気持を内面に押し込めて、ひたすらに空を駆けた。
行く先は言うまでもない。
裏の畑で作業をしていたらしいエリゼが駆け寄ってくる姿。
それが愛しくて、そのまま有無を言わさずに空へと攫ってしまいたくなる。
いつしか焼けるような想いを手向けるようになった少女。けれどもそれをしたら、きっと彼女は二度と自分とは口をきいてくれなくなるだろう。
その予感は、きっと正しい。
せめてこの姿を脳裏に焼き付けようと一身に見詰めることくらいしか思いつかないまま、重い口を開いた。
既に一度断られた願いを。
口にこそしたものの、案の定と言えばいいのか、返る答えは「行けない」の一言で。
それでも「行かない」と言われないだけ進歩したなぁ……と自分で自分を慰めながら、残していく彼女が浮かべていたであろう表情に気付きもしなかった自分は本当にどうかしている。
正真正銘の愚か者だ。
過去を知らなかったとはいえ、未だに癒えぬ傷に苦しみ続ける彼女の内心に気付く努力もしなかった。
たとえ拒絶されようと、真正面からこの想いを捧げる勇気を持たなかった。
冷淡なようでいて、どこまでも優しく情に厚いエリゼ。
そんな彼女が自らの安全を冒してまで、国主の下へ訪ねて来てくれたその心を思った時。
それがきっと他ならぬ自分へ手向けた彼女の想いそのものなのだと。
ようやく気付いた、今この時。
我ながら遅すぎるにも程がある。
「馬鹿者!」の一言と共に、横っ面を箒でぶん殴られても仕方がないほどに。
「エリゼ、きっと君に今の俺では相応しくない」
そう、名前すらまだ呼んでもらっていない今。到底釣り合わないことは重々承知している。合わせる顔がないというのは、つまりこういう事なのだと。
けれども実際に経験してこそ、余計に想いは募る。
それでも逢いたいのだと。
今、自分はどうしようもなく彼女――エリゼの顔が見たくて仕方がないのだと気付けば、早まる足で厩舎へと駆けこんでいた。
そこには長年の相棒、紅の鱗をもつグーテランテが一体全体何事かと言いたげに、切れ長の目をシパシパと瞬かせている。
「グーテ、彼女に会いたいんだ。どうしても、もう一度会って……」
話がしたい。
傍にいたい。
謝りたい。
ありがとうと伝えたい。
そして何より、赦されるなら……抱きしめたい。
この腕に抱き、愛していると伝えたいのだ。
主の声に応えて目の前で開かれていく緋色の翼を仰ぎ、涙の滲む目を擦ったカイエは決意と共に飛翔する。
見渡す限り、身を切るほどの冷たさと透明な青に満ちた上空。
竜の背に乗り、国を捨てた騎士が往く。
ただ一人愛するひとの為に蒼穹を駆け、深緑の森、その奥へと。
*
「……やれやれ。やはり帝国の魔術師はそう甘くもなかったか」
エリゼは旅支度を整え、庭先へ出てきたところで諦観と共にそう呟いた。
いつの間にか小屋の周りを包囲していたらしい十数人の魔術師が身に着ける意匠は見慣れたもので、その背後に居並ぶ騎士の鎧に刻印された紋章は紛れもなく帝国のもの。
冷めた眼差しでそれらを確認し、改めて認識する。
あの男――帝国の王の執着が、今も尚薄れていない事実を。
「抵抗せずにお戻りを、エリザレーヌ・ファレータ嬢」
「たかが娘一人、これほどの人数を割いてまで連れ戻そうとするあの男の王としての器に、お前たちは疑念を抱いたりはしないのか?」
「王命の下、我らは行動するのみ」
「……絶対王政、か。どこまでもあれらしい」
悪魔の双眸が脳裏を過り、思わず震えそうになる身体を意思一つで押さえつける。
消えることのない悪夢の断片は今もまだ、心の奥底に沈殿したまま消えることはない。けれども、今はもうそれだけではないから。
上に降り積もった優しい記憶が、自分を支えてくれる。
エリゼはその温かさを頼りに、辛うじて微笑みさえ浮かべてみせた。
「私は行かない。これ以上あれに狂わされる生涯は御免だ」
散々奪われつくし、残ったのはこの身一つ。
意思という最後の自由を放棄してまで、生き延びようとは思わない。
けれども、それすらも否定される時が来たなら、潔くこの身を散らそうと。
それくらいの覚悟は、かつてあの逃亡を成し遂げた瞬間から決めていた。
「ならば我らは王命の下、この場をもって貴女の捕縛に掛からせて頂く。覚悟されよ」
「……」
――そう。
覚悟など、とうに出来ている。
エリゼは余程にそう返そうかと思ったが、それが今の自分に背く言葉だとも知っていた。
だからこそ選ぶ、沈黙。
本当は、もう少しだけでもいい……希望に縋っていたかった。それもまた本心。
白昼夢のように穏やかで、ほんの少しだけ騒がしい日々のなかで生きていたかった。
けれど、現実はいつだって残酷で儚いものだ。
周囲を二重に包囲され、足を結界で固定されたエリゼは、為す術もなく全身を地面へ縛り付けられて身動き一つとれない。
抵抗しようと身を捩れば、手足に食い込んだ魔力の反動で全身を切り裂かれる。
その上傷口から、遅効性の麻痺毒を緩慢に流されていることに気付いて、エリゼは横たわったまま苦笑してしまう。
本当に、どこまで鬼畜なのだろう。
獣を捉えるように、用意周到に罠にかけたこの連中も、それを命じたかの王も。
どちらが獣か、分かったものではない。
辛うじて残された力で、見上げた空は見渡す限りの鉛色。
雲は厚く、一筋の光も見えない。
これが自分の見るこの世の最後の風景かと思えば、自然と頬を涙が伝う。
『最後まで、自分の思う通りに生きる。それ以上の幸せはきっとないよね?』
その通りだね、レイブンドール。
薄らぐ意識の中でもエリゼはそれに頷き、忍ばせておいた最後の呪い符に指先を触れる。
発動条件は、すでに満たした。
あとはただ、魔力を込めて指先を滑らせればいい。
術者の命と引き換えに、周囲一帯を焼き尽くす効力を持つ最後の一枚。レイブンドールが最後まで渡すことを渋った、曰く付き。
「……今更だけど、名前を呼んでおけば良かったな」
ポツリ、と零れ落ちた本音に、一人笑う。
そしてエリゼは辛うじて力の残った指先を、そっと横へ滑らせて――――
ふっ、と視界に映り込んだ緋色の飛影に、眦から涙を零した。
「……カイエ」
少女の一言が、果たして上空の『彼』に届いたか。
それは恐らく、彼ら同士にしか分からない。
一時の、静寂。
確かに見合った、二色の双眸。
次の瞬間には樹海の一部が業火に包まれ、吹き荒れた暴風によってそれはより一層勢いを増して木々を飲み込んでいった。
同時に、その場にいた魔術師や騎士たちの中で『転移』が間に合わなかった者たちが炎の餌食となった。
呑み込み、呑み込まれ、阿鼻叫喚の地獄と化した魔の森はそれから数日間に渡って燃え続け、広大な森の七割近くを燃やし尽くしてようやく鎮火したという。
*
「……それで魔女は死んじゃったの? 助けに来た竜騎士は?」
「リーナはどう思う?」
「やだ。そんな可哀そうな終わり方は絶対駄目!!」
膝の上に小さな拳を叩きつけ、頬をリスのように膨らませて憤慨する幼い娘。
語り聞かせていた『彼女』はそんな愛娘の頭を優しく撫でながら、微かに笑み零す。
辺境の地に身を隠し、数えきれないほどの都市を飛び回って『渡り騎士』をする夫を傍らに、お世辞にも平穏とは呼べない日々を過ごすこと数年の後。
授かった尊い命を守り抜いて、ようやく落ち着いた今は紛れもなく幸福だと胸を張って言える。
そう。かつて森で暮らしていた頃よりも多分、ずっと。
「泣かないで、リーナ。よく考えてみて。さすらいの魔術師は根っからの善人だと話したでしょう? そんな彼が『命と引き換えにして周りを燃やし尽くす』呪い符なんて、そもそも持ち歩いていたと思う?」
「……っ、分かった! 魔女は死なずに済んだんだね? ね、そうでしょ母様?!」
「ふふ、正解よ。流石はリーナ。私の賢い娘」
「えへへ」
父親譲りの灰白色の髪を嬉しそうに揺らしながら、にっこりと笑うリーナ。
そんな彼女を膝の上に抱え上げ、その重さで成長を実感する日々が愛おしくて仕方がない。
頬を合わせてグリグリすれば、くすぐったそうに笑う。
実のところ、まだ脅威は健在のまま。
それでも、この日々を守り抜くための決意は既に済ませて久しい。
「炎を超えて、とある魔女は……一人の騎士と共に生きることを決めました。彼と手に手を取り合い、森での暮らしを後にした魔女は様々な地を巡りながら、辛い思いも困難も沢山乗り越えて、そうして一人の可愛らしい娘にも恵まれて、今は穏やかに、幸福に暮らしているそうよ」
「母様と似てるね! だって、母様にはリーナが生まれて父様とも大体仲良くて、幸せ! ね?」
「父様はさておき、リーナがいてくれるから私はとても幸せね」
「リーナも、母様が一緒にいてくれたらそれで幸せ!」
ギュッ、としがみ付いてくるリーナの温もりに頬を緩め、ふと窓の外に視線を送ったところで見慣れた『緋色』が空から舞い降りてくる。
普段よりも、幾らか早いお帰りである。
「リーナ、父様が帰ったみたい。迎えに行ってあげてくれる?」
「うん! ……あれ、でも母様は?」
「まだ夕食の支度が途中だったから、先に済ませてから行くわ」
「分かった! じゃあ、先にお迎えに行くね」
そう言うなり、待ちきれないとばかりに扉を開けて庭へと飛び出していく娘を見送って苦笑する。
かつて『策士』云々と呼ばれた男の娘とは思えないほどに、素直に育ったその背中を。
「この家で暮らせるのも、もってあと数か月……か」
「ググゥー」
「あら、グーテ。おかえりなさい、お腹が空いてるの?」
夫よりも先に、玄関から顔を覗かせる緋色の飛竜。
よしよしと鱗の手触りを楽しみつつ撫でれば、機嫌良さげに尻尾をバタバタと振る。
「数日振りに帰った夫を真っ先に出迎えない薄情な奥さん、最愛の夫を忘れてませんか?」
「あははー。父様はね、夕食の準備よりも後回しなんだってー」
愛しい娘を肩車しながら、扉を潜って帰宅した最愛の夫。
出会ったころから変わらないその美貌を、苦笑と共に出迎える。
かつて帝国の王に平穏な未来を奪われ、緑深い魔の森で『魔女』と呼ばれた少女はもういない。
「おかえり、カイエ」
鮮やかに、幸福そうに。
彼女はその名を呼び、笑った。
ここまでお読み頂いた皆様に、最上級の感謝を込めて。