一夜目(ひとよめ)
† 戻り世の橋
「戻るな、戻ったら橋が落ちる! ○○、行っちゃだめだっ」
名前が呼ばれた。 向こう岸で男の人が叫んでいる。
都会風の出で立ちで、橋を渡りきった向こう岸で一所懸命に叫んでいる。
『あぁ、駄目だ。 渡れない……』
橋の途中まで来ているのに、後ろが気になって渡れない。
あれ? 今悩んでいる私は、一体誰だっただろう?
そして―、橋は落ちた。
一夜目
「おいおい、本当にこんなとこに受取人いるのかよ」
「仕方ないでしょう。 どうでもよけりゃほっといたでしょうが、本当だから来たんですよ」
若い学生風のシャツに羽織袴の青年と、三十路ほどの落ち着いた着物姿にお釜帽を被った男が険しい山道を歩いている。
「しかし孝太郎、この橋を渡りたくないぞ? なんか、今にも落ちそうだ」
学生の方が橋の下に目を向けて、やる気のそがれた顔をした。
不服を言ってもしょうがないが、眼前は深い谷。 そしてかかっているのは蔓を編んだ頼りない橋だ。
「藤次郎さん、文句言わないでください。 先に渡ってますから、後からきてくださいね」
そう言うと孝太郎は先に橋を渡る。 ぎしぎしと軋みあげ、揺れる橋は踏み板の木端が落ちるたびに不安定になった。
「……ふぅ。 渡り切りましたよ、藤次郎さんも早く渡ってくださーい」
まだぶつぶつと文句を繰り返す藤次郎に、孝太郎は大手を振った。
肩を落として覚悟を決めた藤次郎も、慎重に蔓橋を渡る。
渡りきった後で強風が吹いて、橋を支える蔓の片側がふつっと切れた。
「ああああ、あっぶねー。 この高さから落ちたら即死だぞ」
洒落にならないと、背中に冷たい汗がつたった。
「と、とにかく行きましょう。 帰るにしろ橋を直してもらわないといけませんから」
仕切り直した孝太郎も、まだ顔が青いままだ。
道のない、林を抜けてようやく人里についた。
家はぽつぽつとしかなく、田畑もそれほど開けていない。
「ずいぶんと鄙びた村だな」
お世辞にも満足な暮らしができうる場所ではなさそうだった。
「村人にそんなこと言ったら、頭叩きますよ」
間髪に入れず毒舌を吐いた孝太郎に、藤次郎は渋面になる。
孝太郎は世間体が良い、しかし身内には容赦がない。
最寄りの民家の玄関先で声を掛けると、奥から人が出てきた。
「すいません。 小野田徳治さんの家に用があって来たんですが、家がわからなくて。
どの家か教えていただけませんか」
すると家人は値踏みするように、顔を険しくする。
「あんたらよその人か。 しかも洋装なんて珍しいな。
都会では今時分流行なのか?
よそ者なら知らんだろうが、徳治はこの村にはおらんよ。 はやく、帰りな」
とりつく島もなく家を追い出されてしまった。
「参りましたね」
「『参りましたね』じゃねえよ。 どうすんだよ、やっぱり妙な話だったんだよ」
藤次郎はまた文句を言いながら、先に歩いて行く孝太郎を追った。
ことの発端は一年ほど前、小野田孝義という男が二等地に立つ探偵事務所に訪れた。
孝義は年齢の割にやせ細り、顔色も土気色に近かった。
「実は弟に財産を残したい。 目録は作ったし、遺言状も預けてある」
はて、ではいったい何をしに来たのか。 そう二人が思っていると。
「遺言状の内容が開示されるとき、そのままではまず弟に財産が相続されんだろう。 だから、俺が死んで後一年以内に、遺言の条件を弟が充たせるか、あんたらに手伝いと見届けをしてほしい」
弁護士の先生がするのではないか、と聞いたが、はぐらかして答えなかった。
そして遺言状の開示がされたのがつい三日ほど前。
相続人はほかにも父親やら、腹違いの兄弟やらがいたが、その条件が世にも奇妙だった。
その内容は、
『しかし、以下の条件を除いて全ての財産は小野田孝義の父、異母兄弟たちに相続する権利があるとする。
1、 小野田徳治が一年以内に小野田孝義の配偶者とその姉の躯を見つけた場合。 (留意事項 :見届け人並びに、鑑定人として人物を指定する。)
2、 一年を待たずして、小野田徳治の生命になにかあった場合。 すべての金額を孤児院に寄付する。 』
「それにしたっておかしな話だろう? 戸籍に記載はあれど、誰も奥さんの氷時さんの顔を知らないってさ」
藤次郎は納得いかないと、また不平を言い始めた。
おそらく遺言状の開示に居合わせた時の、他の相続人たちからの罵声を思い出しているのだ。
孝義の配偶者がどういう来歴の人物で、いつであって結婚したのか。
それさえもわからない。
「身内だからって、あまりに酷すぎやしない? あーあ、幻滅するよなあ」
妾ではないのか、弟は本当にいるのか、鑑定人は信頼できるのか。
なんでも黒と言いかねない家族に、孝太郎も関わりたくないと思ったほどだ。
結局、村の中に小野田の家はなかった。
「それにしたっておかしくありませんか? 一つの家が跡形もなく消えるなんて」
皆、徳治のことは知っていた。 しかし誰も詳しく話そうとしなかった。
「本当にまだ生きてんだよな?」
「ええ、死亡届はだされていませんでした。 それに生きていれば今、十ほどの子供です。
どこかに養子にだされたんでしょうか?」
孝義と徳治は前妻の間に生まれた子。 随分歳が離れているが、徳治が生まれる前まで、二人の父親は随分と派手な暮らしをしていたらしい。
おかげで事業には成功したが、前妻とはうまくいかず離縁する間もなく前妻は亡くなった。
「さて、では村の周辺でも探してみますか。 もしかすると、ばったり出くわすという可能性も残っていますからね」
来た道を戻りながら、林に分け入っていく。
日が傾きだして、カラスが不吉に鳴く。
深くなる陰と、緋色に染まる空がより不安を掻きたてて、鳥の羽音がして、近くで小枝の割れる音がした。
後ろのツツジの木陰から子供が出てくる。
ボーっとした印象の、日焼けした子が柴を担いで目を丸くしていた。
「もしかして、君。 徳治君?」
「あんたたち、誰?」
驚いた顔で言った少年は、自分の住んでいる村の外れに連れて行ってくれた。
簡素な家だった。 細い木で三角の櫓を組み、藁をかぶせて雨風をやっとしのげるような。
「ごめんよ、俺の家族は村八分にされてて、村人とはほとんど交流がないんだ」
申し訳なさそうに言う少年の方が大変だろうに、二人はそう同情した。
「ところで君、遺産相続のこと聞いてる?」
「ああ、知っているよ。 内容もね。 阿古夜と氷時の遺体を見つけろってんだろ?」
思わず孝太郎と藤次郎は顔を見合わせる。 やっとまともに彼の嫁の名を知っている人にあたった。
徳治は薪を入り口近くに置いて、何本か抜き取った後、囲炉裏に火おこした。
「君はお兄さんのお嫁さんと会ったことがあるの?」
「会ったことはない。 ただ病の床で母さんが言ってた。 『お兄ちゃんを恨まないでおくれって。 兄ちゃんのしたことは正しくはなかったけれど、仕方のないことだった」って」
正しくなかった、けど仕方なかった。 まるで謎かけだ。
「それで、その阿古夜さんと氷時さんはどちらが、お嫁さんだった?」
「兄ちゃんの嫁は阿古夜さんだよ。 よく似てたらしいんだよ。
それに晩年の兄ちゃんは多少おかしくなってたから、取り違えたんだろ? それにあの時のことは、だれも本当は何があったのか、把握している人がいないんだ」
二人は顔を見合わせる。
確かに依頼に来た孝義はまともな精神ではなかった。 これは確実にきな臭い依頼だ、二人はそう思った。
ぱちぱちと燃える囲炉裏の火をと調節しながら、徳治はニンジンやゴボウ、キノコを切り出した。
「村では氷時さんは領主さんに召し上げられたことになってるよ」
亡くなった孝義はおそらく事の真相を知っていたに違いない。
「話自体が入れ違って伝わったのか?」
「それで、遺産の内容を知っているということは。 君は遺産の条件に挑戦するつもりとうけとってもいいんだね?」
まるで二人の目なんか見ないで、徳治はもくもくと料理をしていた。
「ああ、そのことについては四年か前からやってるんだ」
「え? じゃあ、いまだに見つかってないってことかい?」
孝太郎の問いに徳治はうなずいた。
「実は俺、女の人の幽霊を見たんだ。 その特徴が二人に似ているって。 『俺が殺したんだ』、そう言って兄ちゃん真っ青になってた」
三人ともこの話の核心がそこにあって、その秘密を暴かなければ解決しないのだと理解した。 そのために自分の命を孝義は賭けたのだ。
「君のお母さんも『正しくはなかったけど仕方がなかったって』言ってる。 君のお母さんも知っていたんじゃないのか?」
「たぶんね。 でも母さんは兄ちゃんより前に死んじまって、聞きようがないよ」
「……」
二人は言葉を失った。 なんというか、徳治には生気がない。
怯えているのか、悲しいのか、決して合わない視線と目の虚ろさが恐ろしい。 まるで抜け殻だ。
「なあ、四年もこのあたりを探してて何も出ないってことはこの村の外にあるんじゃないのか?」
どんよりと重くて静かな空気を払拭しようと、藤次郎が声を掛けた。 こんな雰囲気がなにより苦手なのだ。
「それはないよ。 領主さまは滅多に屋敷からお出ましにならない。
俺だってあの屋敷に入って探したかったさ。 でも俺、村八分だから」
「ふむ、それにしてもどうして君は村八部を受けているんだい?
場合によっては、解いてもらえることもあるだろうに」
「村のやつら、面白くなかったんだ。 おっとうと兄ちゃんが外に出て、大儲けして、『村にも幾分かおこぼれがもらえる』って期待があったみたい。
それが全くの縁切りにでもあったように音沙汰がなくなって、当てが外れたって大騒ぎ。 おっかあや兄ちゃんはお金を独り占めしてると思われて、あっという間に村八分さ」
「それは……、気の毒だったね。 小さい頃の事だろうに」
「なぁに、俺自身は聞いた話さ。 でも、毎晩おっかあがそうやって泣いてたんだよ」
どんな表情をするでもない。 悟りきった静かな顔の徳治は、今までのことを思い起こしている様子だった。
「飯、できたから食いなよ。 俺自身も誰かと一緒ってのはずいぶん久しぶりだ」
椀を取ってきて差し出す徳治には、ほんのかすかに笑みがあった。
ささやかな夕餉の後、三人はこれからのことを相談した。
「それにしてもどうするかな? このままじゃまともな宿はなさそうだし。 かといって徳治君のところに、お世話になるわけにもいかないしね」
小屋はそれほど広くはない。 木枯らしが吹き始めた秋、大人二人が身を寄せるには、この家はあまりにも頼りなかった。
「なんとかお兄ちゃんたちが村人に宿を借りれたらいいんだけど。
それか領主さんとこに案内してもらえたら、あの家の事も調べられるのに」
「なにか気になることがあるのかい?」
孝太郎の疑問に、意味深に徳治はうなずいた。
「氷時さんの事さ。 彼女は領主さまに召し上げられたって言っただろ? 召し上げられたのにその後の話は一向に聞かないんだ」
「ほほう。 それじゃあ徳治君の集めた情報をまとめてみようか。
そこから打開策があるかもしれない。
とりあえず宿の事は後回しにして、まずそちらを聞こう」
「えっと、どこから話したらいいのか。
とりあえず俺が氷時さんと、阿古夜さんのことを知ったところから話すね?」
「俺が満五歳の頃にこの辺りで遊んでたら、幽霊がいたんだ。
その幽霊はびっくりするほど綺麗で、『渡れない、渡れない』って、そう言ってた。 この村で渡れないって言ったらあの蔓橋しかないからね、俺は橋の様子を見に行ったんだ」
「よく行ったな。 幽霊が怖いとは思わなかったのか?」
呆れた藤次郎の茶々にも、真剣な口調で徳治は返した。
「怖かないよ。 それくらい綺麗で、驚きすぎてそれどころじゃなかったんだ。 話を戻すよ?
橋のところに行ったけど、なんにも変りはなかったんだ。
だから俺は変に思って、そのことおっかあと兄ちゃんに言ったんだ。 そしたら二人とも心臓が凍りつきそうな顔してた」
「じゃあその時は、君は阿古夜さんだと思っていたんだよね?」
「うん。 今日になってその人が、氷時さんじゃないかっていわれるまでね。 確かに兄ちゃんの話では、姉妹はよく間違われるほど似ていたって言ってた。 まるで双子のようだったって言ってたよ。
兄ちゃんが二人の遺骸を探し始めたのはそれからだよ。
俺も話をだんだん聞くうちに、俺も手伝うようになっていった。
だけど話自体を奇妙に感じてたんだ。
でもそのうち兄ちゃん心がおかしくなっていって。
三年目の冬の終わりに『俺はこれから一年街に戻る、だが何も心配しなくていい。 そしたらなにもかも終わるからな』って」
「ふむ、終わるとは何が終わるんだろうね? 探し物が終わるのか、それとも病気で亡くなる自分のことを言っていたのか」
「兄ちゃんが死ぬだけで、そんな簡単にあきらめるもんか!
きっとなにかわかったんだ。 だけど志半ばで逝ったから、だから俺に叶えてもらいたくて、あんた達を遣わしたんだ。
だから、俺がきっと見つける」
思いつめたような徳治に、二人は掛ける言葉を失くした。
「だけど、俺一人じゃやっぱり無理だから、お兄さん達の手を借りるよ」
落ち着きを取り戻した徳治は、孝太郎と藤次郎自身のことをお兄さん達と呼び方を戻していた。 根は素直で真面目なのだ。
それだけに今回のことは責任に感じているはず。
「兄ちゃんに聞いたことがあるんだ。
『なんで氷時さんを探すの? 兄ちゃんの嫁さんは阿古夜さんじゃないの』って。
そしたら手を止めて不思議な言い方をしたんだ。
『渡らなかったのは氷時だ。 でも渡れないって……渡れなかったのは阿古夜なのかもしれない』。」
「なんだそりゃ? 渡らないも、渡れないもそう変わらないだろう」
「いや、大いに違うだろう。 渡らないって言うのはそこに本人の意志が働いている。
けど渡れないっていうのは本人の意思とは無関係に、他から影響を受けているってことじゃないかな?」
頭を掻きむしる藤次郎を制して、孝太郎が答えた。
「それにしても本当に妙な言い方だね。
渡らなかった理由と、渡れなかった理由、それを探していけってことかな? 随分と込み入った謎かけだ。
できれば孝義氏が亡くなる一年間何をしていたかを調べるのと、村での不可解なことを、村人から情報を集めて解き明かす。
人を分けて同時に進行させたいところだけど」
孝太郎はそういって穏やかな顔で藤次郎を見る。
「な、なんだよ」
笑顔の意味に気付いて後ろににじる藤次郎に、孝太郎はとどめとばかりに言った。
「藤次郎、この村のこと鄙びたって言ってたよね?」
「それはしかたないだろ! 交通の便も悪いし、寝泊まりする宿もない。 大の大人が二人この小屋に泊まるのだって狭いだろ?」
「あぁ、なんかすみません。 鄙びた村のさらに僻地にあって、狭い家で……」
徳治がずーんと一際ショックを受けて落ち込んだ。
「あーあ、藤次郎。 君最低だね、徳治君こんなに落ち込んじゃったよ」
「お前が乗せたんだろうが!」
全く性質が悪い、と藤次郎は心の底から思った。
「それはともかく村の人に蔓橋のこと伝えないとね。
藤次郎君が渡ってしまえばすぐにも落ちそうな気がするし。
直してもらわないと」
「それなら村の入り口近くに住んでる畑さんがいいと思います。
畑さんはそれなりに俺の事気にしてくれるから」
「ちぇっ、うまく誤魔化された気がするな」
ふて腐れる藤次郎に、ふらっと立ち上がった徳治が酒瓶とおちょこを持ってくる。
「これ、少しずつ作っている果実酒です。 里の人も減ってきたから分けてもらえるようになったので、一献どうです?」
「おっ、気が利くね! じゃ、一杯」
「私もいただくよ」
二人は徳治に酌をしてもらって、夜中まで飲み合あかした。