9.男爵令嬢と子爵子息
マクシミリアンは瞼を一旦閉じ、冷静さを取り戻した。
「とても素敵な方ですよね。高貴な身分のご令嬢で―――あんなに美しいのに気さくで私みたいな地位も無い一学生にも普通に接してくれる」
瞼を開き、ペトロネラの不安気に揺れる碧い瞳に目を合わせマクシミリアンは自嘲気味に笑った。
「―――王族の血を汲む由緒正しいアドラー公爵家のご令嬢ですよ……子爵家の見習い騎士にもなっていない次男坊の私があの方をどう思うかなんて―――そんな話題、口に出すのもおこがましい気がしますね」
そう言って僅かに目尻を下げる彼の笑顔を見て、ペトロネラは胸の閊えが少し和らぐのを感じた。
「そんな事は……私にとっては住んでいる世界が違う方……と言う印象はありますけど、親しくされているマクシミリアン様でもそう思われるものなんですね」
「はい」
マクシミリアンはフッと広間の人波に目を移した。
その横顔をペトロネラは見つめて……一口飲み物で喉を潤した後、ゆっくりと口を開いた。
「実は私、以前クロイツ=バルツァー様に夜会で助けていただいた事がありるのですが……とても素敵な方でした。高貴な身分の方で、人気が高くて―――偶像みたいに私の姉達も騒いでいたので、雲の上の方という印象だったのですが……実際接してみると、とてもお優しくて気さくな方で驚きました」
「バルツァー少尉は―――魅力的な方ですよね……」
マクシミリアンはクロイツの夜会での凛とした姿を思い出した。
中身がとてもあんな残念紳士だとは思えないくらい勇ましい日常の姿を。クラリッサが惚れて執着するのも無理はない―――そう思った。
「ええ。身分違いも甚だしいですが―――正直……トキメキました」
ペトロネラが悪戯っぽい瞳で、マクシミリアンを見た。
彼女のその瞳を目にしてマクシミリアンは、プッと噴き出し……微笑んだ。
二人は少し笑い合った。
マクシミリアンは、ペトロネラが敢えて自分を晒し彼を励ましているのだと、気が付いた。少しその優しさに慰められて自然と笑顔になる。
ペトロネラは、穏やかな表情で再び口を開いた。
「でも少しホッとしました。クロイツ様の素のお顔を伺う事ができて―――あの方も同じ人間なんだって思えて―――益々お二人の事を祝福したい気持ちになりました」
「嫉妬とか……しませんか?」
「まさか―――!」
ペトロネラはブンブンと頭を振った。
すっかりマクシミリアンといる事に慣れてしまい、彼女はここが夜会会場だと言う事を忘れてしまった。自分の行いが淑女の礼を欠いた幼いものだと気が付いて頬を薄赤く染めてコホンと小さな咳払いをする。
「クロイツ様にときめいたのは、物語の騎士に憧れるようなもので―――本当に慕わしく思う相手とは違います。私が本当に慕わしく思う方は……私の傍で、近くで手を取って導いてくれる、そんな方が良いです」
「随分具体的ですね、実際にそんな方がいるような」
「……いるかも……しれません。まだハッキリと心に決めていると言いきれませんが―――その方には全く気付かれておりませんので」
「へぇ?ペトロネラ様のような、こんな可憐なご令嬢に思われて―――その方は幸せ者ですね」
「……えっ……本当に、そう思われますか?」
不安気に見上げる小柄な令嬢に対して、マクシミリアンは励ますように頷いた。
「はい、私は嘘は申しません」
ペトロネラの胸は躍った。
恥ずかしくなって目を伏せて俯いてしまう……彼はペトロネラの想い人が自分だなどと―――露とも思っていないようだった。
自分を助けた事も記憶に無いようだ。優しい彼にとっては―――人を助けると言う事は日常茶飯事で、取り立てて記憶に残る事では無いのかもしれない。
元々お礼を言うために引き合わせて貰ったのだった。
だけどいつ打ち明けようかと言いあぐねている内に、時間ばかりが過ぎていく。お礼を言ってしまえば、そこで何かが終わってしまうような……そんな気がしたのだ。
夜会会場に音楽が響き徐々に人々がホールに集まり出した。思い思いに男女が手を取りダンスを踊り始める。
主催者が顔を出すのは―――このヴァイス邸の夜会では会場が温まり夜も更けてから。ヴァイス伯爵と夫人が今年の注目の的となる楽器奏者を伴って現れ、そして演奏会が幕を開けるのだ。
マクシミリアンは立ち上がり、ペトロネラの前へ手を差し出した。
体を動かしたくなったからだ。
もどかしい自らの懊悩を振り払いたい。
ウジウジとクラリッサとの身分差にやさぐれ、卑屈になる自分の語り口には我慢がならなかった。
ペトロネラはそんな彼の心の内には気付いていないようだ。
花のように微笑んで―――彼の手に自分の手を差し伸べた。
マクシミリアンは彼女を伴い、ホールへと滑り出した。優雅な音楽に身を任せていると―――モヤモヤと心に蟠った灰色の霧が……少し晴れていくような、そんな気がした。