7.子爵子息と公爵子息
女の仕度には時間が掛かる。
マクシミリアンはこれまでの人生で、それを嫌と言うほど味わって来た。
夜会服に着替え手早く準備を終えると、コリント家に用意された控室には既にマクシミリアンの居場所は無かった。早々に追い出され仕方なく彼は、貴族男性が集うサロンへ向かった。―――ペトロネラを迎えに行くには未だ、早過ぎる。
男性専用サロンにはボードゲームやカード、ダーツ等の遊戯設備が取り揃えられており、葉巻や紙巻タバコをくゆらせながら紳士達がゲームに興じている。若しくは杯を傾けながら宮廷や国境の情勢、最新の事業動向などの情報交換を行い―――女性の目のある処で話せない下世話な噂話に華を咲かせている。
マクシミリアンもその群れの中に学院の悪友ジーモン=ウーラントを見つけ、世間話や中身の無い冗談を交わし時間を潰していた。
「―――で、コリントは相変わらず姉上達のお守りなのか?」
「いや、今回はお役御免だよ。だから代わりに姉の知り合いをエスコートする事になったんだ」
「へ~美人か?」
「うーん、美人っつーより可愛いタイプかな?」
友人のジーモンは、途端に羨ましそうなジト目でマクシミリアンを見た。
「いーよなー。……俺も従妹のお守りはもうゴメンだよ」
「婚約者なんだろ?そっちの方が羨ましいけどな」
ジーモンは子爵家の嫡男で、物心つかない内から伯爵家の三女である従妹と婚約している。未だ就職先も決まっていない一学院生の、寄る辺ない子爵家次男のマクシミリアンにとっては―――大変羨ましく思える。何しろ婚約者の『こ』の字どころか、恋人の『こ』の字もこちらは目にした事が無いのだから。
「えーもう飽きたよ。トキメキも何も無いし。既に妹みたいなもんだからな……!」
なんて面倒臭そうに言いながらジーモンの顔はしっかりとニヤけている。彼の従妹嬢は愛らしいと大層評判で、口では素っ気なく言うもののジーモンが彼女を溺愛しているのは同窓生の間では有名な話だった。
「就職先も決まってて、従妹でも何でも可愛い婚約者がいるお前が羨ましい……」
「またまた~かの『蒼の騎士』と三角関係にまでなった『横恋慕野郎』がよく言うよ」
マクシミリアンには不名誉な噂があった。
従妹のレオノーラと『蒼の騎士』と名高いクロイツ=バルツァー少尉の間に割って入ろうとして無残に振られたと言う―――微妙に信憑性を伴う実しやかな噂だった。
「―――っ、それ誤解だって知ってるよね?!」
「うん、知ってる。面白いから揶揄っただけ」
「くっそー」
マクシミリアンは自棄になって、白ワインを煽った。
瞳と同じ榛色の長髪を緩くリボンで結わえたジーモンは、そんな友人の様子を面白そうに眺めながら言った。
「でもお前今、アドラー家のお嬢様と交流があるんだろ?」
「え?……何処でそれを?」
マクシミリアンは同窓生にクラリッサの話をした事は無い。顔を合わせるのも大抵彼女の屋敷が多いので、鬼姉達が情報を仕入れていたのは特別な手段によるものだと思っていた。武術道場を営むコリント家には、自然とそういった裏情報が集まり易いのだ。
「結構噂になってるぞ?夜会で親し気に話していたとか―――クラリッサ嬢の口からよくお前の話が出るとか―――彼女最近趣味が変わっただろ?前も艶っぽくて人気はあったけど近寄り難くて遠巻きにされていたからな―――本命と思われていたバルツァー少尉が結婚してから、随分可愛らしくなってダンスに誘い易くなったって……今かなり人気なんだぞ?縁談が山のように押し寄せているらしい」
「そうなんだ……」
マクシミリアンは呆けたように、呟いた。
クラリッサから縁談の話題などこれまで出た事が無かったから。
いや彼女の口から一件だけ話題に上っている。
今日ここで出会った―――侯爵家のトビアスとの縁談の事を。
「クラリッサ嬢を狙っている男共は、彼女からコリントの話が出て来るもんだからソイツはどんな奴だって興味津々らしい―――話題になってるって知らなかったのか?夜会で彼女の兄上を交えて親し気に話している処も見られているから―――かなりお前今、注目の的なんだぞ?」
「……ええ?」
初耳だった。
「で、どうなの?―――もしかして『恋仲』ってヤツ?」
ニシシ……と楽しそうに笑うジーモンをマクシミリアンはジロリと睨みつけた。
「んな訳無いだろ?……身分差考えてみろよ」
苦々しい口調で吐き捨てるように言った。
ジーモンはそんなマクシミリアンの台詞に、すぐに同意した。
「まっそうだよな。麗しい王族の血族アドラー公爵家の至宝と歌われる美姫―――クラリッサ=アドラー様と、しがない子爵家の次男坊じゃあ、なぁ……」
そう言ってニヤリと口の端を上げる。
「お前~~まぁた分かってて揶揄ってるだろっ」
マクシミリアンはガバっとジーモンの首をホールドした。
ジーモンが笑いながら「ギブッギブッ」と暴れる。暫くそうしてじゃれていると、そこへ歌うように割り込んで来る人物があった。
「楽しそうだね~俺も混ぜてよ」
高貴な響きを滲ませる美しい声に、卒業間近の学院生二人がゆっくりと振り向く。そこで微笑んでいたのは今し方噂していたご令嬢の兄―――カー=アドラー少尉だった。
灰色の髪と同色の瞳を持つ長身の美丈夫が、泣きボクロが添えられた垂れ目気味の柔らかい目元を緩めている。
二人はビシッと向き直り、頭を下げた。
ふとマクシミリアンが隣を見ると、カーの妖艶な色気に免疫の無いジーモンは何故か微かに頬を染めていた……。マクシミリアンにとっては見慣れた鬼畜顔なのだが。
「アドラー少尉……夜会から参加されるのですか」
「うん、クラリッサのエスコート役でね。君達今、俺の可愛い妹の事話していなかった?」
「いえ……その……」
ジーモンは面識のない遙か格上のカーに対して、直接話し掛けられない限り口を閉ざす事に決めたようだ。姿勢を正したまま、押し黙っている。
勿論マクシミリアンにカーの追及を上手く躱せる技術などある筈が無い。
「……縁談が山のように押し寄せていらっしゃると―――噂で聞き及びまして……」
「ふーん」
自分と噂があるなどと言うネタ提供は絶対すまいと、マクシミリアンは堅く誓った。
少しでも隙を見せれば、蛇のようなしつこさで揶揄われ尽くされる事が目に見えているからだ。
「気になる?マックスも」
カーが目を細めて、マクシミリアンを見た。
口元が面白そうに弧を描いている。
「え……まぁ……」
何と言って良いか判らず口を濁す。
本音を言えば気になってしょうがない。
彼女が貴族子息のアプローチを受けていると聞いて、落ち着かない気持ちになった。
嫉妬する立場も資格も無いのは承知している。
身分云々の前に『友人』としか認識されていない事も。きっと彼女は彼の性別さえも忘れているに違いない―――そうマクシミリアンは思い込んでいた。
「今のところは断っているけどね」
肩の力が抜けて、ホッと息を吐いた。
すると呼吸を読んだように、バッサリとカーが喉を掻っ切った。
「―――本命は侯爵家のご子息だからね」
「え……クロイツ様は……」
苦し気に絞り出すマクシミリアンに対して、機嫌良くカーは答えた。
「クロイツじゃないよ。奴は既婚者でしょ」
知らずに拳に力が籠った。
カーはその様子をチラリと一瞥してから、見る人を魅了せずにいられない美しい微笑みを湛えて……マクシミリアンの視線を捕らえた。
「最優先の縁談先は―――昔からゲゼル侯爵家だよ。祖父同士が懇意にしているからね」
(トビアス=ゲゼル)
大人に肩を並べる立派な体格の十三歳の少年が脳裏に浮かんだ。
クラリッサに詰め寄った金髪の少年―――王様の衣装を纏った……。
「……彼は……年下ですよね?まだ子供では……」
様子の変わったマクシミリアンを、隣のジーモンは訝し気に見ていた。
低く呟く声が硬さを帯びているのは、察しの良いカーで無くとも判別できた。
「婚約には年は関係ないからね……何より家同士が望んでる。多少年が下だとか、クラリッサの気持ちがどうかなんて―――関係無いよ」
「―――っ!」
視線を床に投げていたマクシミリアンは冷たく言い放つカーに視線を戻した。
事実だとしても―――血の繋がった妹に対しての言い方として思い遣りを欠いていると感じた。
挑戦的に見上げた茶色の瞳を、灰色の瞳が静かに受け止めていた。
「やっぱり、気になる?」
薄く嗤う口元に、何か誘うような物を感じてマクシミリアンは気を引き締める。
「―――いえ、私には関わり合いの無い事ですから」
「怖い顔しちゃって」
「え?」
「さっそろそろ時間だよ。可愛いお嬢様方をお迎えに行こうか」
そう言うとカーは『薔薇の騎士』と言う二つ名に違わない―――まさに薔薇が咲いたかのような大輪の笑顔を惜しげなく見せて、二人の学院生を促した。
マクシミリアンは我に還ってジーモンを改めてカーに紹介し―――三人はそれぞれのエスコート対象のもとへ向かうため、その場を離れたのだった。