6.お姫様と女神様
騎士服の衣装はマクシミリアンに本当によく似合っていた。
悪戯っ子のような茶目っ気のある鼈甲色の瞳。
クロイツやカーのように飛び切り背が高いと言う訳では無い。けれども少し見上げるだけで、ピッタリと目線を合わせてくれ包み込むような優しい笑顔を返してくれる。
芯が一本通ったような姿勢の良さ。
それはきっと日頃の鍛錬の表れなのだろう……突然悪漢のように現れたトビアスを、汗一つ掻かずにサラリと排除した手腕は、見事な物だった。
それまではクラリッサにとってマクシミリアンは、心の広い穏やかな紳士と言う印象だった。強気な姉達に振り回されながらも、しっかりと対応する懐の広い少年だと感心していた。普段から姉をエスコートしている為か女性に対して威圧感を与えたりする事は無く、さり気ない気遣いをかかさない。
だからと言って―――親切ごかしに押しつけがましく迫って来る、アドラー家との人脈目当ての令息達のように薄ら寒い表面上の甘い言葉を囁く訳でも無い。
誠実な心の広い少年だ。
だからクラリッサは生まれて初めて、他人に対して心を許す事が出来たのだ。
彼にはもう……かなりみっとも無い所も汚い所も沢山見られてしまった。だから今更取り繕うなんて無理な事で―――だからこそ素直に偽らない自分を出すことが出来る。
クラリッサにとって彼は初めての『友人』と呼べる存在だった。
けれども―――目の前の赤茶色の短髪の男性は―――立派な騎士だった。
武術や軍史が好きだとは聞いていた。
しかしこれ程の実力だとは思っていなかった。武芸に詳しく無い素人のクラリッサでもわかる―――彼の身のこなしは野生の肉食獣のようにしなやかで、洗練されたものだった。
「大丈夫ですよ。すごく優しくて気さくなご令嬢ですから」
「……そ、そう?良かった……嬉しいわ……」
そう言われて笑顔が強張るのを、クラリッサは止められ無かった。
彼も男性だったのだ。
その事実にショックを受けていた。
否、男性であることは十分に分かっている。そうでは無くて―――彼が姉達の紹介された女性をエスコートして―――いつかその相手か……若しくは誰か他の女性の手を取って家庭を作るようになるのだと言う事実を改めて認識し、ショックを受けたのだった。
マクシミリアンに特定の相手が出来れば―――『友人』のクラリッサを構ってくれる事も無くなるだろう。未婚の女性を訪問するなど出来なくなる筈だ。
その内夜会で仲良く連れ添う二人と対面する事になるのだろうか。
『今日の夜会でまたお会いしましょう。……では失礼します』
それはその未来そのものを暗示しているように、クラリッサには感じられた。
だから思わず引き留めてしまった。
本当はエスコートの相手に対して、自分を気遣うように優しく接するマクシミリアンなど―――見たくはない。
けれどもクラリッサは衝動を抑えきれず―――つい『付いて行きたい』などと心にも無い事を口走ってしまった。
アッサリ自分を置いて彼女の下に戻ろうとするマクシミリアンに対しても、ジリジリともどかしい気持ちが湧き上がって来る。
一緒にいて楽しいと―――もっと一緒にいたいと思っているのは―――私だけなの?
その想像は説得力があり過ぎて、クラリッサは眩暈を起こしそうになった。
焼け付くような、駄々っ子のような感情を抱いたのは―――他人に対して初めての事だった。クロイツに対してでさえ―――そんな強い執着心を抱いた事は無い。
いつの間にか―――クラリッサはマクシミリアンを『自分のもの』だと思い込んでいた。
クロイツは常に自分を上から温かく見守ってくれて―――大好きだったけれども―――彼はバルツァー家のものだったし、近衛騎士として国王陛下のものであったし、夜会の美しい女性達皆の―――ものだった。
クラリッサは錯覚していたのだ。
マクシミリアンの良さは自分だけが本当に知っているのだと。
クロイツのように『皆の』ものでは無く、マクシミリアンは『クラリッサの』密かなお気に入りだったのだ。誰と共有するものでも無かった。
そんな傲慢な自分の考えに―――クラリッサはショックを受けていたのだ。
そんな事―――ある筈が無かったのに……。
木陰のベンチに座っている小柄な金髪の少女が、歩いて来るマクシミリアンに気付いてパアッと顔を輝かせた。『姫』役の衣装がとても良く似合っている。
華奢な体付き、儚げな柔和な碧い瞳―――立ち上がってマクシミリアンに近づき、寄り添う様子はとてもバランスが良くお似合いに映った。
「お待たせしてすいません。こちらをどうぞ」
「いいえ、大丈夫です。有難うございます」
飲み物を受け取り、彼女はマクシミリアンを見上げ微笑んだ。
マクシミリアンも優しく微笑み返す。
この場で自分は―――全くのお邪魔虫なのではないかと、クラリッサの胸は痛んだ。
「ああ、そうだ。友人を紹介します」
「え?……」
マクシミリアンが自分を忘れずにいてくれて、思わずホッとする。
華奢な『姫様』はそして漸く、近くに控えているクラリッサに気が付いたようだ。
クルリと顔を向けてクラリッサを見ると―――少し訝し気な表情を浮かべて―――次第にその笑顔が翳って行くのを感じた。
「クラリッサ様です。今日は女神役で参加されたそうですよ。クラリッサ、ペトロネラ様です。これから私と同じ順番で姫役を担当される予定です」
にこやかに笑うマクシミリアンと対照的に―――ペトロネラの表情は次第に堅い物に変わって行く。
「初めまして。よろしくお願い致します―――ペトロネラ様」
その表情の堅さを訝しく感じながらも、慣れた仕草でクラリッサは優雅に礼を取った。
「あっ……そのっ……よろしくお願い……します……」
そして彼女は消え入るような声でそう囁くと、礼の形を取り頭を上げると何故かサッとマクシミリアンの陰に隠れた。
その様子はまるで、用心深い子猫が物陰に隠れてこちらを伺うようだった。
小柄で儚げな容貌の彼女には―――その怯えた仕草さえ良く似合っている。
クラリッサにはとても真似できない行動だ。
ペトロネラの華奢な手がマクシミリアンの騎士服の上着を掴んでいるのを見て―――彼女はそう思った。
おざなりな挨拶の後、エスコート役の男性の陰に隠れるなど―――そんな失礼な振る舞いは自分には出来そうもない。例えそれが―――どんなに目の前の男性の庇護欲を効果的に擽るのかと想像できたとしても。
オドオドと聞こえるか聞こえないかのような返事を返す事も―――公爵令嬢としてのマナーと矜持を講師から叩き込まれたクラリッサには出来得る筈も無い。それがどんなに―――彼の目に可愛らしく映ろうとも。
マクシミリアンは、微かに震えるペトロネラを訝しく見下ろした。
先ほどまで屈託のない明るい表情を見せていた少女が、一転して暗い表情で怯えている。
(もしかしてクラリッサの身分を承知して萎縮しているのでは?)
そう思い至った。
クラリッサほどの美貌の身分ある公爵令嬢なら、紹介される前に既にペトロネラが彼女の出自を把握している可能性はある。
「あの……ペトロネラ様?……クラリッサ様は少し見た目にも発言にも威圧感はありますし……ちょっと強引過ぎる所はありますが……」
「マ……マックス……ちょっ」
マクシミリアンが自分をそんな風に思っているとは、クラリッサは露とも思っていなかった。
確かに褒められるような振る舞いをしてきたと胸を張っては言えないが、あらためて他人の口から自分について描写されると胸を突かれて動揺してしまう。
これまで家族以外でクラリッサ相手にそのような忌憚の無い意見を言える者は少なかったのだ。
「……けれど結構優しかったり、素直だったりして―――中身は普通のご令嬢なんですよ。だからそれほど萎縮しなくても大丈夫です」
ニッコリ。
マクシミリアンはそう言って自分の陰に隠れているペトロネラに向かって微笑んだ。
ペトロネラは目を瞠って彼を見つめている。
「あ……あの……」
そして何かを言い掛けた時、遊戯の進行役の使用人が現れて、マクシミリアンとペトロネラの順が回って来た事を告げた。
「では、後ほど夜会で」
マクシミリアンがクラリッサの手を取り、口付ける真似事をして軽く膝まづいた。
一般的な貴族の子息から受ける礼では直接手にキスをされるのは日常茶飯事だった。なのに真似事でもそう言った扱いを彼から受けた事の無かったクラリッサの頬は熱くなった。
初めてマクシミリアンから女性として扱われた。
そう感じたのだ。
レオノーラを威嚇し嫉妬を向ける女の顔も見られている。
クロイツを思って泣いた幼い自分に、ただ寄り添うように黙って傍にいてくれた。
屋敷でお茶を飲みながら、楽しい話をして笑い合った。
兄と言い争う我儘な自分も見られていて―――だけど彼は必要以上に自分から彼女に近寄っては来なかった。夜会で自分に近づいてくる貴族令息達のように―――。
ふと気が付くと、マクシミリアンの後ろに控えている小柄なペトロネラと目が合った。
先ほど見せていたオドオドした怯えのようなものの中に―――微かにチクリとするような物が混じっているような―――気がした。
それは一瞬の事で。
次の瞬間にはペトロネラは、しっかりと貴族女性の礼を取ってそれからマクシミリアンのエスコートを受けてその場を去って行った。
「……あっ……」
クラリッサは思い出した。
記憶に引っ掛かっていた―――その名前を。
ペトロネラ=フライ―――彼女は以前、クラリッサが威嚇して追い払った沢山のご令嬢の中の一人―――クロイツを潤んだ瞳で見ていた男爵令嬢だった。