4.公爵令嬢と男爵令嬢
ペトロネラは十五歳、フライ男爵家の五番目の子で第三女となる令嬢だ。
身分こそ低いもののフライ男爵家はそこそこ富裕な貴族だったので、それほど苦労もせず健やかに彼女は成長した。
両親も兄弟姉妹も素直な性質の彼女を可愛がってくれたし、領民も近隣の領地より暮らし易いと評判のその土地に満足している者が多く、好意的な視線を向けてくれた。
あと一年で社交界デビューとなる年、十四歳のペトロネラは、希望に胸を膨らませていた。
ドレスの採寸や生地選びに心が躍り、可愛らしいリボンのついた華奢な靴を誂えて、それに似合う宝石を、行商が並べるどの石を使ってどんなデザインで作るのか―――母親と相談するのは楽しかった。同じ時期にデビューする幼馴染と文を交わして、その時を待ち侘びていた。
一年後が待ちきれなくてウズウズしているペトロネラは、既に社交界デビューを果たした姉達によく煌びやかな王都の噂話を強請ったものだ。
「何と言っても『蒼の騎士』様よ。とおっても素敵なの。一目見るだけで皆、恋に落ちちゃうんだから」
「私は『薔薇の騎士』様の方が良いわ。『蒼の騎士』は高潔で近寄り難い雰囲気があるもの。いわば観賞用ね」
長女のベルタは『蒼の騎士』押し、次女のヤスミーンは『薔薇の騎士』押しだと言う。
「お姉さまはもう婚約者がいらっしゃるから鑑賞用でもご満足されているのでしょうけど、私は本気なの。一度で良いから『薔薇の騎士』様の目に留まってみたいわ」
「あら『薔薇の騎士』様は不誠実なお方と聞くわ。一夜の過ちでも良いって言うの?」
「勿論、公爵家に嫁入りできるなんて思っていないわ。一生に一度くらい夢見たっていいじゃない?」
「それを言えば『蒼の騎士』様だって侯爵家よ。どっちにしてもしがない男爵令嬢じゃ、相手にして貰えないわよ」
「夢の無い事言わないで~~……あーめくるめくような恋がしたいっ……!」
「現実を見て、お相手を探した方が賢いわよ」
「お姉さまは現実的過ぎるわ。夢くらい見たっていいじゃない、ねぇ?ネラもそう思うわよね」
そこでヤスミーンはペトロネラを振り返った。
「はい。私も素敵な恋がしてみたいです」
「ん~~ネラは良く分かってる、いい子!」
ヤスミーンが甘えるようにペトロネラに抱き着いた。
ベルタが溜息を吐いた。
「ネラ、ヤスミーンの真似したら駄目よ。泣いても知らないから」
奇しくもその預言は的中した。
「クラリッサと申します」
「イレーネですわ」
「エマと申します」
豪奢な美女に囲まれた時、うっかり独りになった自分をペトロネラは呪った。
「貴女、先ほどバルツァー少尉と何をお話しされていたの?」
「あの……大した話では……」
「聞きたいわぁ……ねぇ、クラリッサ様」
「……そうね、是非伺いたいわ。クロイツ様と親し気にお話しされていた方とは是非、仲良くさせていただきたいと思っておりますの」
そう言って、妖艶な美女が嫣然と微笑んだ。
デビューしてまだ半年のペトロネラは、可愛らしい淡いドレスを纏っていた。母や姉に『似合う』と褒められてウキウキしながら、この夜会に出席したのだ。
それは憧れの『蒼の騎士』クロイツ=バルツァー少尉と会えるかもしれないと思ったからだ。そして彼を見つけて嬉しくて思わず駆け寄ってしまった。以前助けて貰ったお礼を言いたかったからだ。
** ** **
見た事も無い食材が並ぶテーブルに見惚れていると、誰かにぶつかり手に持っていたジュースを零してしまった。濡れたドレスは誂えたばかりのお気に入りで、泣きそうになっているとその人は長身を屈めて、深みのある低い声で優しく囁いたのだった。
「すまない、余所見をしていてぶつかってしまった」
「あ……いいえ……私こそ……」
顔を上げたペトロネラは息を呑んで固まった。
そこには姉のベルダが『蒼の騎士』と呼んで讃えていた、クロイツ=バルツァー少尉の精悍な顔があったからだ。
余所見をしていたのは彼では無く自分だった。
しかし彼女に恥を掻かせまいと、彼は自らに非があるように言ってくれたのだ。そしてすぐに使用人に声を掛けて、染み抜きをするよう手配してくれた。
黒いクセのある髪に、澄んだ湖のような水色の瞳。
見惚れるあまりお礼もロクに言えないままのペトロネラに、彼は優しく微笑んでくれた。
その日からペトロネラはクロイツに再会できる機会があれば、是非お礼を言いたいと思っていたのだ。ベルタの言う通り、確かに一瞬で恋に落ちた。だけど、報われるなんて大それた事を考えていた訳では無い。ただ彼に会える事が、声を掛ける口実があると言う事が嬉しかっただけだ。
** ** **
「クロイツ様は夜会では必ず一番初めにクラリッサ様と踊られるのよ」
「ご寵愛が深いのですわ。いつもクロイツ様はクラリッサ様をお気遣いになって、傍で見ていていつも微笑ましく思ってますのよ」
「大袈裟よ。クロイツ様とはお付き合いが長いから―――私を気遣って下さるだけですわ」
イレーネとエマが囃し立て、クラリッサが窘める。まるで決まりきった台本の舞台を見ているような遣り取りに、ペトロネラは戸惑った。
どう考えても自分は場違いだ。
グラマラスな美女達に囲まれて泣きそうになっていると、三人はまるでペトロネラがそこにいないかのように、再び口を開いた。
「けれどクラリッサ様は大変ね。決まった方がいる男性だと言うのに、言い寄る女性が後を絶たないのですから―――」
「そうねぇ……身の程知らずも甚だしい輩が多いですわよね。お相手が魅力的だと言うのも気苦労が多いですわね。少し優しくされただけで勘違いされる方もいらっしゃいますから」
そうしてイレーネは扇越しにチラリとペトロネラに一瞥を与えた。
ペトロネラの心臓はギシリと音を立てて軋んだ。背筋に冷たい物が走り、顔から血の気が引くのを感じた。
確かに自分は浮かれていた。
恋が叶うなんて本気で考えていた訳では無いが、まるで恋愛小説みたいな展開だと舞い上がっていたのは事実だった。一滴も期待を抱いていないなどと……本心に問うならば否定できない。しかし―――
「あの……私っ……『言い寄る』とかそういう気は全く無くて、ただお礼を―――」
「あら」
エマが冷たい視線をペトロネラに落とした。
「貴女……今のお話に心当りがあるのかしら。私達はよくそう言った常識の無い不埒な女性が多いって言う―――お話をしていただけですのよ。もしかして貴女、そう言う方々と同じように邪な思いをお持ちになっていたの……?」
「あ、あの……いえ……」
「クラリッサ様、ご不快な思いをされたでしょう?あちらへ行きましょう、不埒な女と一緒にいたら同じような人間だと勘違いされてしまいますわ」
「そうですわ、クロイツ様がクラリッサ様を探されているといけませんので、お暇しましょうよ」
イレーネも刺すような視線を彼女に投げかけた。
ペトロネラは震えながら、クラリッサを縋りつくような瞳で見上げた。
するとクラリッサは、場違いなほど慈愛に満ちた笑顔で応えたのだった。
「ペトロネラ様、もうお会いする事は無いかもしれませんが―――息災でいらしてくださいな」
ペトロネラは凍りついたように固まった。
「では、ごきげんよう。フライ男爵令嬢…ペトロネラ様」
クラリッサはこちらから名乗っていない家名を添えて、ペトロネラに優雅な礼を披露した。
慌ててペトロネラもぎこちない礼を返す。
喉が張り付いたようになって、言葉が出なかった。
初対面の筈なのに、既にクラリッサはペトロネラの素性を調べていたのだった。クラリッサと言えば、王族の血を汲むアドラー公爵家のご令嬢だ。男爵令嬢のペトロネラがクラリッサを知っているのは当然だとしても、クラリッサ自身が取るに足らない男爵家の、しかも三女のペトロネラを素性を押さえている事実に、戦慄した。
最初からこの対面は―――周到に計画された物だったのだ。クロイツに近づくペトロネラを牽制するために。
「「ごきげんよう」」
両脇に控えたイレーネとエマも、優雅な淑女の礼を取った。
ペトロネラを十分威圧できた事が見て取れたのか、彼女達は満足そうに微笑んでその場を離れるクラリッサの後ろに続いたのだった。
** ** **
打ちひしがれて、ペトロネラはふらふらとバルコニーへ足を運んだ。
庭園にはカンテラが飾られ、美しい庭を幻想的に演出していた。
悲しくて悔しくて……思わず隠れるようにその庭に足を向けた。今のペトロネラには―――バルコニーさえ明る過ぎた。
浮かれていたのも本当。
憧れの騎士に気遣って貰えて、ときめいたのも。
だけど決まった相手がいる人だなんて、そういう相手に横恋慕する気なんて其処まで考えが及ばなかった。
冷たい視線や言葉に傷ついたのか自分の浅はかさに恥じ入ったのか、もう自分では訳が分からなかった。ただショックだった―――悲しくて悲しくて―――自分が惨めで涙が止まらなかった。その涙を隠したくて―――暗い庭園へと足を踏み入れたのだった。
空いているベンチに腰を下ろし、顔を覆う。
「お姉様に言われたのに―――私……」
「何を言われたんだい?」
声を掛けられ振り向くと、ベンチの横に男性が腰かけていた。
体のガッチリした柔和な表情の男性で、身なりが良かった。
しかしその行動はあまりにも無作法だった。それは社交経験の浅いペトロネラにも判断できた。
未婚女性の腰掛けるベンチに断りも無く腰を下ろすなど―――しかも、初対面の人間にしては距離が近い。思わず恐怖心が湧き上がり、ペトロネラは身を引き立ち上がった。
「いえ、あの……」
するとその男性も立ち上がり、一歩距離を詰めて来た。
ペトロネラは後悔した。
独りきりで暗い庭園に足を踏み入れるなど―――何があってもおかしくないのだと、気が付いたからだ。自分の迂闊さを今度こそ恨んだ。
憧れの騎士の想い人に嫌味を言われたぐらいで、こんなところに入り込むなんて―――!
ペトロネラが一歩下がると、彼も一歩踏み出す。
それを繰り返していくうちに、大きな立ち木に背がぶつかってしまった。もう後が無い。
ベンチから離れた距離にある立ち木の下は暗い。ベンチを背にしている男の表情が逆光で見えなくなってしまった事が、更にペトロネラの恐怖心を煽り立てた。その目だけが僅かに光を受けて存在を主張している。
真っ青になって震えるペトロネラの腕を、大きな男の手が掴み取った。
「は……離してくださいっ」
「フフ……嫌がる演技が上手ですね。相当慣れていらっしゃるのか……」
「ち、違います……私は本気でっ」
ハハハっと楽しそうに笑った男の目が細められたように見えた。
「だとしても、もう遅い。恨むならこんな処に一人で踏み込んだ自分を恨むんですね」
「―――そりゃ、ちょっと強引過ぎる言い分だな」
第三者の声が、男の言い分を遮った。
かと思うと、ペトロネラを追い詰めていた男が「ぐぇっ」と奇妙な音を発して崩れ落ちた。
「大丈夫ですか?」
そこにいたのは、男性としては平均的な身長の男だった。
僅かに届くカンテラの灯で、彼の短髪が赤茶色である事は認識できた。
一瞬何が起きたか判らずに、ペトロネラはパチクリと瞬きをしたまま立ち竦んでいた。
彼は自分より大きな男の腰に手を回し、まるで軽い物を運ぶような手つきで担ぎ揚げ、ベンチに横たわらせた。そして未だに立ち尽くすペトロネラの前に戻って来ると、心配そうに彼女の顔を覗き込んだのだった。
カンテラの薄い光を背負った彼には、ペトロネラの表情が少しは確認できるのだろうか。彼女には、彼の顔に鈍く光る二つの瞳を認識できるだけだったが。
「もう心配ありません。とは言っても、気絶させただけなのでいつ目を覚ますか判らない。直ぐに立ち去るのが寛容でしょう―――それとも俺は余計な事をしましたか?恋人同士の逢瀬をお邪魔してしまったなら、すいません」
その台詞にペトロネラは我に還る。
「あ…あの!有難うございました!助かりました―――私うっかり庭園に一人で入り込んでしまって……そしたらその方が強引に近づいて来たので困っていたんです」
必死でそう説明すると、真剣な様子で硬い声を発していたその人が息を吐いた。
「そうですか、良かった。とんだ勘違い野郎になっちまったかと思いました。……あっ、乱暴な言い方してしまって、すいません」
「ふっ……アハハ……」
そのあからさまに安堵したような声音に、思わず笑い出してしまった。
あっと言う間にペトロネラの緊張の糸を解いてしまった。
なんだか凄く、人を落ち着かせるのが上手い人だと思った。
大きな相手を一瞬で気絶させた手練れとは思えないほど、威圧感の無い男性だった。
「さ、行きましょう。この方は確か―――近衛騎士団に所属している伯爵家のお坊ちゃまですよ。身分の低い俺に気絶させられたと知ったら、逆上しかねない」
「そ、そうですね、行きましょう……!」
ペトロネラも同じような立場なので、一刻も立ち去りたいと改めて思った。
しかしこの不思議な男性はどのような表情をしているのだろう?ペトロネラはこの人の顔をじっくり見てみたいと思った。けれどもカンテラの灯が仄かに届いてはいるが、ここはかなり暗くて赤茶色の短髪と、目鼻があるらしい事以外見分ける事は難しそうだ。
「あれ?」
すっと手を取られる。
しかし先ほどの大きな男性に詰め寄られた時と違って、嫌悪感は露ほども湧いて来ない。
「血が出てますよ」
そう言って彼は手巾を取り出すと、素早くペトロネラの腕に結び付けた。
「行きましょう」
促されるまま、ペトロネラは彼の背中を追いかけた。
女性をエスコートする事に慣れているのか、急ぎ足ながらも彼女が歩き易い速度を保ってくれる。手や腕を取って歩かないのは、先ほどの強引な男を思い出させないようにとの配慮なのだろうか、と彼女は思いついた。
その時、心臓がドキンと波打った。
長身で体格の良い憧れの『蒼の騎士』よりずっと小柄なその背中が、大きく見える。
黙って歩いていても、寂しく感じない。ただ胸がドキドキした。
(彼の背中を追いかけているこの時間が……もっと続けばいいのに)
いつの間にかそんな事を考えている自分に驚いた。
バルコニーに着くと彼は脇に控えている使用人に駆け寄り、何事かを指示した。
すると使用人がすっとペトロネラの前に進み出て「こちらへどうぞ」と道を示す。
「あの……」
「お怪我されていると伺いました。客室で治療させていただきます。さ、こちらに」
「ま、待ってください、あの方にお礼を―――」
と赤茶色の髪の男性の方を振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。
胸の中にポッカリと穴の開いたような気分だった。
幻を見たのかと思ってしまう位に、彼は忽然と消えていた。
「……お名前も伺っていないのに……」
名乗りもせず去ってしまった恩人の影を追うように、キョロキョロと闇の中を探したけれども、何処にも痕跡は見つからなかった。ペトロネラはそこでやっと諦めて、使用人に促される方向へ歩き出した。
使用人はあの赤茶色の髪の男性に見覚えは無いと言った。
けれどもペトロネラの手には手掛かりが残っていた。家紋を刺繍した手巾……彼がペトロネラの手当てとして残して行ったそれを大事に持ち帰り、彼女はそれがコリント子爵家の物だと言う事を突き止めた。
そしてお茶会で顔を合わせたコリント家の姉妹に、勇気を出して話し掛けたのだ。
夜会で助けて貰った紳士にお礼が言いたいと―――姉妹は何故か笑い出したが、鷹揚に頷いて必ず引き合わせると約束してくれた。
しかしヴァイス邸での再会は偶然だった。
控室で顔を合わせた姉妹に半ば拉致されるように衣裳部屋に押し込まれ、あっという間に駒役の『姫』の衣装に着替えさせられた。
そして彼に―――赤茶色の髪の騎士に再会したのだ。
あの時は彼の顔をはっきりと確認でき無かった。けれど背丈も―――声もあの時自分を助けてくれた男性と同じ物だった。
悪戯っ子のような、茶目っ気のある双眸。中背ながらも、芯が一本通ったような姿勢の良さは彼の性質そのものを表しているように見えた。
「コリントです。以後、お見知り置きを」
彼はあの時助けた相手がペトロネラだと、気が付いてはいないようだった。
だから彼女は改めて淑女の礼を取ったのだ。
「ペトロネラでございます。こちらこそ、よろしくお願い致します」