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16.ヴァイス邸の客室


使用人を捕まえて空いている客室に案内させると、マクシミリアンはクラリッサをソファにそっと下ろした。

そして使用人に向き直り、侍医を呼んで貰うよう指示を伝える。


マクシミリアンにしっかりと抱えられて運ばれている間、クラリッサの心臓はドキドキと五月蠅く騒ぎ続け破裂しそうだった。もうこれ以上は堪えられないとギュッと目を瞑っていたのだが、いざ包まれていた温もりが離れるとなると今度は堪えられないほどの恥ずかしさが、人肌の温もりへの寂しさにすり替わってしまった。


クラリッサは名残惜し気にマクシミリアンの背中を見つめてしまう。

するといつの間にか使用人が立ち去ったようで、見つめていた背中の主がクルリと振り向いた。今度はギクリと心臓が跳ねてしまう。

今日の彼女の心臓は……息を吐く暇も無いくらい忙しい。




綺麗に撫でつけていた筈の赤茶色の短髪が少し乱れていた。少しだけ飛び出した左頭の毛束に愛らしさを感じてしまう。

クラリッサは何故か久し振りに正面からマクシミリアンと顔を合わせたような気がした。

笑い合ったのはつい先刻さっき、日の落ちる前今と同じヴァイス邸での出来事なのに……懐かしいと思ってしまったのは―――それ程彼と離れていた時間を長く感じてしまったと言う事なのだろうか、とクラリッサは考えた。




彼女はもう気付いていた。




何故離れていた時間を長く感じてしまうのか。

違う女性といる彼にどうしようもなくもどかしい想いを抱いてしまうのは何故なのか。

そして心置き無く何でも正直に話をしてしまうのは。

いつも顔を合わせれば楽しくて、つい大笑いしてしまうのは―――




歩み寄って来たマクシミリアンは上着を脱いで、クラリッサが腰かけている客室のソファの前に膝をついた。そしてクラリッサを見上げるとこう言った。


「少し確認しても宜しいですか?ヴァイス邸の侍医が直ぐに到着すると限らないので、応急処置をさせていただきたいのですが」


少しボウッとして彼を見つめていたクラリッサは、マクシミリアンの申し出に瞬きを繰り返してから、頷いた。

すると彼は大きく頷いてから「失礼」と言ってドレスの裾に手を掛けた。


了承の返事をしたものの、クラリッサは流石に緊張してしまう。家族以外の男性に足首を晒すなどと言う事はデビュー以来初めてだった。

一方のマクシミリアンと言えば、猪突猛進型のコルドゥラが度々足元を確認せず踏み外すため女性の手当をする事には多少慣れていた。それに道場で誤って子供が手足を痛めた時や訓練で自分が負傷した場合、とにかく応急措置の迅速さが後々のその部位の回復度を決めると言う事を身をもって知っているので、『恥ずかしさ』などと言うものは頭から抜け落ちてしまっていた。だから彼は事務的に見える静かな表情で彼女の右足首に手を掛けた。


「いっ……」

「右ですね。これは痛いですね、酷く晴れてる」


真剣な表情のマクシミリアンに邪な気持ちは無いと分かっているのに、足首を優しく支えられクラリッサの頬は淡く染まった。

けれども恥ずかしさよりずっと―――彼に触れられている事自体を嬉しいと思う気持ちが勝ってしまう。


マクシミリアンは一旦華奢な足首を自分に立て膝に置き、上着の内ポケットから包帯と塗り薬を取り出した。そして少し首を傾げて―――うっすらと頬を染めて申し訳なさそうにクラリッサを見た。


「応急処置をしたいのですが……靴下を外して貰っても宜しいですか?」


流石に脳筋のマクシミリアンでも、この自分の指示には羞恥を覚えた。


「え!あ……うん」


クラリッサが驚いたように声を上げ―――そして俯いて頷いた。


扉を開け放っているとは言え、二人きりの客室で太腿で止めているリボンを解いて絹の靴下を脱いで欲しいと要求するのは―――相当気恥ずかしい。

彼の台詞にクラリッサが頭から湯気が出るくらい顔を赤くして表情を強張らせたのを見て、更に彼も恥ずかしくなってしまい、頭に血が上るのを感じた。


「背中向けてますので……座ったまま外せますよね?」

「うん、だ、大丈夫……」


マクシミリアンは立ち上がりソファに背を向けた。そして万が一誰かが突然飛び込んで来ても大丈夫なように、入口方面からの視線から彼女を覆い隠す様な位置に立つ。


クラリッサはふんわりとしたドレスの裾から手を入れて右足首に負担を掛けないように、太腿の辺りで靴下を固定しているリボンに慎重に手を掛けた。それから爪先からスルリと絹の靴下を抜き取る―――が、その時思わず右足首に負担が掛かり「つぅッ!」と声が出てしまった。


「大丈夫ですか?!」


振り向かないままマクシミリアンが心配そうに声を掛けてくれる。

見えないとは分かりつつも、クラリッサは「だ、大丈夫……」と大きく頷いた。


本当はかなり痛かった。

でも靴下を引き抜きかけた今振り向かれるのは―――絶対に嫌だった。生の足首を見られるより恥ずかしい気がしたのだ。


それから手早く何とか靴下を脱ぎ「終わったわ」と声を掛けると、心配で緊張していた背中が安堵で解れる様子が見て取れた。

それを目にしただけでクラリッサの気持ちは幾分浮上した。


振り向いて再び跪いたマクシミリアンの膝に足を預けて、されるがままに処置を受ける。

その素早い処置にクラリッサは目を瞠った。


「手慣れているのね」


思わず感嘆の声を上げると、マクシミリアンはクスリと笑って答えた。


「しょっちゅう怪我しますからね。早めの処置が肝心なんです。長引かせると鍛錬に影響しますから、大抵の怪我には対応できますよ」


穏やかな物言いに、クラリッサは感心して言った。


「本当に武術が好きなのね……吃驚したわ……とっても―――強いから」


彼が大きな体のキストナーが振り回す剣から身を躱す所作は、まるで舞を見ているかと思うくらい流れるように美しかった。

そして一瞬で反撃の一撃を与えたのだ。―――まるで野生のヤマネコのように……鋭い動きに目が離せなかった。


「ハハハ……あれはあの方が油断し過ぎですよね。勿体ぶった動きをしなければ、もっと扱い辛かったと思いますけど。きっとアドラー少尉ならもっと早く決着をつけたでしょう」


と何でも無いように応えるマクシミリアンを、クラリッサはやはり凄いと改めて思った。


作業する手元を見る為、うつむき加減になっている赤茶色の短髪のつむじと伏せ目がちな睫毛をクラリッサはじっと眺めた。

そして改めて「この人は一体幾つこんな風に素晴らしい資質を隠し持っているのだろう」と考えた。彼自身の魅力について―――本人は全く重要視していないような口振りだ。


きっと彼は誰かが自分に見惚れているなんて―――想像もしていないに違いないと、彼女は考えた。


(そう、こんな風に私が彼を見つめているなんて……きっと意識すらしていないんだわ)


そう心の中で呟いた時、彼女の胸はツキンと痛んだのだった。







「はい、出来ました」


マクシミリアンは彼女の足を大事な宝物のように慎重に下ろし、そしてスッと視線を上げてクラリッサの視線を捕らえてニッコリと笑った。


クラリッサはまたしても心臓がドキリと音を立てるのを感じた。思わず声が震えてしまう。


「あ、ありがとう……」

「取りあえず応急処置ですので―――ヴァイス邸の侍医にもちゃんと見て貰いましょうね。そうだ、侍医がどのくらいで到着するか使用人に確認して参ります」


そう言って立ち上がったマクシミリアンのシャツを―――彼女は思わず掴んでしまった。

マクシミリアンが動きを止め、不思議そうにクラリッサを振り返る。


「あ、あの―――」


自分の行動が制御できず、クラリッサは戸惑いを隠せない。

何を言うつもりも無かった。ただ―――彼に自分の傍から離れて欲しく無かっただけだ。


「はい。どうしましたか?」


優しく受け応える茶色い瞳と視線が絡んだ。

クラリッサは声を発する事が出来ないまま、その甘いチョコレートのような瞳に捕われてしまう。


そのまま沈黙が続いて―――見つめ合って数秒が経過した。


マクシミリアンは頬を染め、頭を掻いてそっぽを向いた。


「もしかして―――心細いですか?」

「え…その……そ、そうなの一人でいるのは―――」

「クラリッサ!いた!」


そこへトビアスが駆け込んできた。

マクシミリアンは安堵の溜息を吐いて、緊張を解いた。

その様子を目にして、クラリッサの握力が緩む。思わず、彼のシャツから手が離れた。


「ああ、よかった。えーと……ゲゼル様?今使用人に指示して侍医を手配して貰っている処なのですが、少し時間が掛かっているようです。私はどのくらい掛かりそうなのか確認して来ようと思っているのですが―――クラリッサ様と一緒に居てくださいますか?心細く思われているようですので―――」

「あ、ああ」

「では」

「ま……待て!」

「?、はい」


マクシミリアンは立ち止まって振り返った。

トビアスは何故か真っ赤な顔で彼を睨みつけている。




「マクシミリアン=コリント……!」




そして背の高い金髪の少年は仁王立ちでマクシミリアンに対峙し、人差し指をビシリと彼に向けて突き出した。



次回、最終話です。

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