15.公爵令嬢の躓き
微笑むカーに黙礼を返し、マクシミリアンは手を取り合うクラリッサとペトロネラの方へ歩み寄った。
近付いて来る彼を見ていた二人はハッと我に還り握り合っている手を見、そして互いの顔を見合わせた。
「あっご、ごめんなさいっ!」
「こ、こちらこそっ……ご無礼を!」
と言って慌てて同時に手を引っ込める。
ペトロネラは頬を染めて自らの両手を擦り合わせるように組み合わせた。
クラリッサは動転して手をバタバタしながら「えーと、えーと……」と視線を彷徨わせ―――「マ…マックス!け、怪我は無い?」と、彼の方に駆け寄ろうとして……芝生に足を取られて……こけた。
「きゃっ!」
東屋の周囲は柔らかい木っ端が敷いてあり、クラリッサが数歩駆けだした先は芝生に変わっている。歩く動作は同じなのに、踏み出した先の素材が変わったため足元を取られたのだった。
常時しずしずと慎重に足を運ぶ事を心掛けているクラリッサにとって、有り得ない失態だ。
「クラリッサ?!」
飛び出したマクシミリアンの手も間に合わなかった。クラリッサは前のめりに倒れ、地面に手を付いてしまった。
彼女の顔は羞恥に真っ赤に染まる。助け起こそうと差し出されたマクシミリアンの手を取り―――恥ずかしさの余り俯いたまま立ち上がろうとしたその時。
「いっ……ったぁ!!」
途端に足首に激痛が走る。
転んだ時に咄嗟に足を踏ん張ったのが仇になった。どうやら彼女は足を不自然に捻ってしまったらしい。あまりの痛さにマクシミリアンの腕に縋りつく。右足に体重を掛ける事が出来なかった。
「クラリッサ……?」
マクシミリアンが驚いて顔を覗き込む。
クラリッサは自分が大胆にも彼の腕にしがみついている事に気が付いて、離れようとして「いっだだだ……!」と淑女らしさの欠片も無い悲鳴を上げて呻いてしまう。
あまりの痛さに涙が滲んだ。その上痛みの所為か羞恥の所為かもう何が何だか分からないが顔が熱い。きっと自分はこれ以上無いほど真っ赤になっているだろうと想像し、もういっそ泣き出してしまいたい衝動に駆られた。
すると強張っていた体がフイッと宙に浮いた。
マクシミリアンがクラリッサをお姫様抱っこの要領で抱え上げていたのだ。
「ままま……マックス!お、おろし……」
今度こそ羞恥心でクラリッサの顔は更に真っ赤に染まった。
「何言ってるんですか。一人で立てもしないのに」
すぐ傍に顔がある為、溜息が頬を撫でた。
クラリッサは「うぐっ……」と反論すらできずに口を噤んでしまう。
マクシミリアンはというと落ち着いた声で、ペトロネラに向かって頭を下げた。
「すいません、ペトロネラ様。一度クラリッサ様を運んでヴァイス邸の侍医に見て貰おうと思います。広間でお待ちいただいても宜しいですか?」
「あっはい……!勿論」
ペトロネラも突然の出来事にポカンとしていたが、パチパチと瞬きをしてから頷いた。
ずっと五月蠅かったトビアスがペトロネラの隣で押し黙り、マクシミリアンをジッと見つめている。マクシミリアンはその視線に気づいて頭を下げ、クラリッサを抱えたままカーの方に向き直った。
「カー様!クラリッサ様を侍医に見せてきます。その間、ペトロネラ様をお願いできますか?」
「い~よ~。可愛い女の子は大好きだからね」
呑気な返事にふと不安が過ぎり、マクシミリアンは念押しした。
「すぐ戻るので……くれぐれも、紳士的にお願いします」
「俺以上の紳士って見た事無いけど」
「……よろしくお願いします、本当にすぐ戻りますから」
反論するのも馬鹿々々しくなって、ジットリとした視線でマクシミリアンは大事な事を二度言うに留めた。
すると一転して、スッとカーが真面目な顔になる。
「妹を頼むよ、マックス」
そんな表情のカーを見るのは本日二度目の事だったが―――これまで滅多にみられる表情では無かった。その為マクシミリアンはつい怯んでしまい、力ない返事を返した。
「あ、はい。お任せを……」
しかし手当は早ければ早いほど良い。
マクシミリアンは直ぐに自分を取り戻し一礼すると、恥ずかしさに無言を貫くクラリッサを軽々と抱えながら、素早く階段を駆け上がりバルコニーから広間へ繋がる扉の中に消えていった。
クラリッサを抱えたマクシミリアンの背中を見送ったカーは、楽しそうな含み笑いをしながら思っても見なかった自らの敗北をやっと理解し、茫然と佇むキストナ―の肩に再び手を置いた。
するとビクリとその大きな体が跳ねる。
「君ねぇ……『身分身分』言う割に貴族の事情について勉強不足だね」
カーの言っている意味が分からず、キストナーはレプリカの剣を握る己の両手を見ていた視線を、オズオズと不穏な空気を纏う声の主に移した。
「武術の大家と言われているコリント家を知らない訳じゃないでしょ?現在、偶々近衛騎士団に所属している者はいないけれど―――名のある歴代の騎士は皆そこで体を鍛えて来たんだよ。その名を持つアイツを見た目と爵位だけで判断するって―――迂闊もいいとこだと思わないかい?……そもそもコリント家が子爵に甘んじているのは、再三に渡る王家の申し出を無下に断っているからだよ?本当なら今頃侯爵になっていてもおかしくない家柄だし、王家の申し出を断って置いて放任されるって言う事の意味を―――考えてしかるべきだよね」
蛇に睨まれた蛙のように、キストナーは息を殺して冷たい眼光を受け止めた。
カーの口元は弧を描いていたが、視線はナイフのように鋭く研ぎ澄まされていた。
「コリント流武術の創始者の家系は―――皆一流の戦士だよ?実際、現在の近衛騎士団に所属する騎士の内、何人がアイツと互角に渡り合えるかねぇ……」
一瞬の出来事で―――キストナーは暫く自分が負けた事自体把握できなかった。
その切っ先がピタリと確実に急所を狙い定めていた事を改めて思い出し……キストナーはゴクリと唾を呑み込む。
「容姿もそれなり身分もそれなり女を口説く手管は微妙……剣術は三流、頭も残念―――じゃ、すぐにアイツに追い越されて部下になっちゃうよ?貴族なら貴族らしく―――相手の背景を読んで長い物に巻かれないとね?……生き残れないよ……?」
既にキストナ―の顔は蒼白だった。
その場にいる者には、大柄な肩幅のガッチリとした騎士が―――小さく縮まっていくように見えた。
「それにね……俺の可愛いーい妹に君……断りも無く触れたね……?」
カーの瞳が怪しく光った。
キストナーは背筋を凍らせた。蒼白な顔色が更に真っ白になる。
怒らせてはいけない人間を怒らせてしまった事にやっと気が付き、彼は謝罪の言葉を口にしようとした。
「も、申し訳―――」
「今日はマックスの剣さばきを確認したかったのに、君全然相手にならないんだもの―――もうちょっと頑張って貰わないと、近衛は務まらないよ?ねえ、あの手際じゃ―――うっかり暴漢に襲われてしまったらアッサリ命を落とす事に……なるかもしれないよね?……さて今日はもう君に用は無いよ。帰って訓練にでも勤しんだら?」
ニッコリと満面の笑みを浮かべたカーからは、男もクラクラしてしまうような色気が滲み出ていた。しかし当のキストナーにはそれに心を惑わせる余裕も無い。かえって恐ろしさが増すばかりに感じられ、背筋を凍らせたのだった。
何とかシドロモドロになって暇の言葉を発し、頭を下げて―――彼はレプリカの剣を手放す事も忘れ抱えたまま逃げ出したのだった。
もう興味は無いと言うように頭を下げるキストナ―から直ぐに視線を外し、カーはその様子を見守っていたトビアスとペトロネラに向かってニッコリと笑いかけた。
「カー……アイツ……強いんだな」
「アイツ?ああ、マックスの事?まあねえ……道場で奴は今五指に入る実力者だからな」
トビアスは両手拳を握りしめ、思いつめた表情で唇を噛んだ。
「俺……強くなりたい」
「ふーん、そう」
カーは関心無さそうに頷いた。
熱くなってしまったトビアスは、それに構わず拳を胸の前引き上げて訴えた。
「強くなって、アイツに勝ったら―――俺……クラリッサに……」
其処まで呟いてから、頭を振って口を閉ざした。
カーは首を傾げて金髪の少年を見守っている。
再び顔を上げてカーを見据えたトビアスは小さいがハッキリとした口調で宣言した。
「……行って来る!」
何処にとは言わず、トビアスは駆け出した。
後に残ったのはカーと、今まで成り行きを見守っていた男爵令嬢ペトロネラの二人となった。
カーは彼女に両手を広げて歩み寄り、さっきまで纏っていた不穏な空気を一掃して華のような笑顔で笑いかけた。
「やあ、可憐なピンクのガーベラのようなお嬢さん。俺はアドラー。君の名を伺っても良いかい?」
「あ!はい……ペトロネラと申します」
ペトロネラは弱々しい口調とは裏腹に、しっかりとした淑女の礼を取って頭を垂れた。
カーは満足そうに頷いて、言った。
「ペトロネラ、今日は悪かったね。エスコート役を借りちゃって。おまけに相手を置いて別の子の治療に走っちゃうんだから……マクシミリアンは本当に乙女の心の機微が分からない奴だよね」
自分の妹の為なのに他人事のように言うカーに対して、ペトロネラは首を振った。
「マクシミリアン様は困っている人を放って置けない性質なのです。私も―――以前助けられました。……彼はその事を忘れていらっしゃるようですけれど―――」
その瞳の中に確かな情熱が灯っているのを見て取り、カーは笑った。
(全く……天然なんだから。レオノーラとそこだけは似ちゃってるんだな)
「嫉妬しない?エスコート役を放って他の子を抱えて行っちゃうなんて」
「嫉妬なんて……」
「じゃあクラリッサの兄として―――お詫びと言っては何だけど―――マクシミリアンにも頼まれた事だし、今日は俺が『紳士的に』君をエスコートしよう。勿論奴が帰って来るまでの間だけど」
カーは笑って優雅に手を差し出した。
「……お嬢様お手をどうぞ?」
おどけた口調にペトロネラはクスリと笑った。
もうどうにでもなれ―――肝が据わったと言うのはこういう感覚なのだろうか、とペトロネラは思う。絶世の美丈夫に差し出された手に自分の指先を差し伸べて了承の笑顔を返す。
夜会の偶像『薔薇の騎士』のお誘いにも、もう彼女の胸はときめかない。
本当の恋と言うものを、知ってしまったから―――




