10.公爵家の兄妹
悪いと思いつつ気になる気持ちを抑えきれずバルコニーの扉の前でカーと潜んでいると、途切れ途切れではあるがマクシミリアンとペトロネラの声が聞こえて来た。
「―――王族の血を汲む由緒正しいアドラー公爵家のご令嬢ですよ……子爵家の見習い騎士にもなっていない次男坊の私があの方をどう思うかなんて―――そんな話題、口に出すのもおこがましい気がしますね」
途端に周囲の音が全て消えたような気がした。
そしてクラリッサは自分がショックを受けている事に驚いた。
マクシミリアンは特別変わった事を言っているのでは無い。いわば世間の一般常識を口に出しただけだ。クラリッサだって―――それは当り前の事だと認識していた筈なのに。
その後二人は打ち解けたように笑い合って、話を弾ませていた。
もうその内容に耳を傾ける勇気はない。さりとてそこを離れると言う勇気も無く―――そうこうしている内に二人は手に手を取ってホールに踊りに行ってしまった。
カーはチラリとクラリッサに視線を落とし額に手を当て思案していたが、慰めるように優しく彼女の肩を抱いた。
「クラリッサ、俺達も少し踊らないか?気分転換になるよ」
常に無い優しい声音に、クラリッサは首を振った。
「ううん、いい。……お兄様―――」
クラリッサはカーに抱き着き、胸に顔を埋めた。
そんな風に甘えられたのは本当に久し振りの事だったので、広間の灯りが漏れる薄暗いバルコニーでカーは妹を優しく抱き留めた。そしてポンポン、と背を叩いてやる。
「クラリッサ、大丈夫だよ」
「……」
「大丈夫、大丈夫」
「……お兄様が優しい……」
「俺はいつでも女の子には優しいよ」
「……優しいお兄様って気持ち悪い……」
「酷いな」
妹の容赦ないコメントに、カーは鷹揚に笑った。
「でも……ありがとう」
クラリッサはカーから体を離し、背の高い兄と目を合わせて笑った。
そこへ堅い声が掛かった。
「アドラー少尉」
軍服を纏ってはいないが刈り込まれた茶色い短髪と油断の無い視線で相手が軍に所属する騎士だと言う事が伺えた。カーは眉を顰めて向き直る。
「無粋だね。今日はプライベートで参加したつもりだけど」
「……」
「分かった、分かった。ちょっと遅れるって伝えておいて」
「承知しました」
カーはクルリとクラリッサに向き直り、いつものような張り付いた美しい微笑みを浮かべた。
「ちょっと呼び出し掛かったから行ってくる。移動する時は近くの使用人に伝言を残しておくんだよ。なるべく早く戻るから」
「わかったわ。いってらっしゃい、お兄様」
珍しく殊勝な様子の妹の額にカーは一つ軽い口付けを落とし、手を上げて去って行った。
その背を見送ってから、クラリッサはバルコニーに寄り掛かり庭園のライトアップに目を落とす。
五色のカンテラに彩られた幻想的な風景。そこかしこに庭園を散策する男女の影が映って、囁き合う様子に胸が痛んだ。手を取り合いホールで楽しそうに踊る二人がその影に重なる。
クラリッサは気付いた。
そう言えばマクシミリアンとダンスを踊った事が無かったと。
(あんな風に女性をリードできるのね。お姉様方にスパルタで鍛えられたと笑っていたけど―――こうして離れて見るとマックスは立派な紳士だわ)
クロイツはレオノーラに寄り添って、マクシミリアンはペトロネラに。カーはきっと、今日も自分を適当にあしらって可愛いご令嬢に寄り添うのだろう。
クラリッサは溜息を吐いた。
自分だけが独りぼっちになってしまった気がしたからだ。
背中に気配を感じて振り向くと、身なりの良い金髪の男が自分を見ていた。
「クラリッサ」
「トビアス……」
いつも憎まれ口をきく年下の幼馴染。
トビアスは静かな表情でクラリッサに近づいて来た。こうして見ると自分と変わらない年齢の少年に見える。
クラリッサは今度は何を言われるのだろうと構えながら、振り返った。
「どうしたの?」
「カーがお前といろって」
「兄様が?」
きっとカーはクラリッサを一人で放置する事に不安を感じたのだろうと、彼女は推測した。
トビアスはゆっくりとクラリッサの隣までやって来て、バルコニーに寄り掛かって庭園を見やり「綺麗だな」と呟いた。
クラリッサもその隣のバルコニーに手を掛け同じ方向を見た。
「今日は意地悪言わないのね」
「……なっ俺は―――」
トビアスはクラリッサを振り返り言い返そうとしたが、クラリッサの顔を見ると言葉に詰まったように苦しそうな表情を作った。そしてプイッと顔を逸らす。
「クラリッサ」
「なあに?」
「今まで……その―――」
「あら?」
何かを言い掛けたトビアスの言葉を遮るように、クラリッサが小さな声を上げた。
トビアスも言葉を止めて、クラリッサの視線の先に顔を向ける。
そこには二人のご令嬢が扇を広げて笑い合っていた。
音は下では無く上に抜ける性質がある。
ハッキリと響く訳では無いが、耳を凝らすとその令嬢方の遣り取りはかなりの精度で聞き取れた。
「……本当にクラリッサ様って―――」
「ふふ、いい気味よね……」
その会話にクラリッサの名前が出てきて、思わずトビアスは隣を振り返る。
クラリッサは無表情で―――その令嬢達の様子を静かに見守っていた。