1.ヴァイス邸の催し
ヴァイス伯爵からの夜会の招待状を手にしたご令嬢は皆、喜びの余り淑女の礼も忘れて部屋中を跳ね回るらしい―――という内容の歌が巷で歌われるほど、かの伯爵邸で催される夜会は大人気だった。
その日ヴァイス邸で催されたのは、大掛かりな盤上遊戯だ。
参加者はそれぞれボードゲームの駒の扮装をし盤上に立ち、指示を待つ。そして毎年行われる女王杯盤上遊戯の前年度チャンピオンと今年度チャンピオンが、実際の人間を駒としてこの大きな盤上で知略を戦わせるという、豪華な演出で招待客を楽しませていた。本番は帳が落ちる頃幕が上がる夜会なのだが、ヴァイス邸で前座として昼過ぎから行われる催しは毎回特別な趣向を凝らした演出がなされており、念願の招待状を受け取った貴族たちは皆こぞって日の高いうちからヴァイス邸に集い始めるのだ。
夜会には遅れて出席する者が多いのが通例だが、そう言う訳でヴァイス邸の夜会に限っては開始前には殆ど全ての招待客が顔を揃える事が当たり前になっていた。
マクシミリアンも姉二人をエスコートして、ヴァイス邸の門を潜った。
「マックス、喉が渇いた」
「私も。マックス早く飲み物を確保して」
着いた途端に鬼姉達の指示が飛び、休む暇も無くマクシミリアンは姉を控室に残して廊下に控えている使用人に声を掛けた。
「今、用意してくれるって」
そうマクシミリアンが姉に伝えると「早く飲みた~い」と更に駄々を捏ねるが、いつもの事なので彼は聞こえないふりで視線を逸らした。
庭へ抜けられる大きな窓が開けはなたれている。半戸外となった控室には幾つもソファが備えられていて、招待客達が寛いでいるのが目に入る。ホストとなっているヴァイス伯爵夫人と、その娘達が招待客を周り挨拶を交わしていた。
マクシミリアンと二人の姉、コルドゥラとデリアもお茶をいただき一息付いて挨拶を済ませたら、今日のメインイベントの盤上遊戯を見物に行くつもりだった。
飲み物の手配を終えた後姉たちの向かいのソファに腰を下ろすと、キャハキャハとおしゃべりに興じていた二人の姉がマクシミリアンを気味の悪い表情でニヤニヤと眺めている事に気が付いた。
「ねぇ、マックス。貴方に最近やけに上質な封書で文が届くようになったわねぇ」
「それも、ほんのり良い香りがするのでしょう?」
「手も女性のものよねぇ……封蝋は確か……アドラー公爵家のものでは無かったかしら?」
ギクリとした。しかし動揺を押し殺してマクシミリアンは平静を装った。
姉達にはお見通しかもしれない。隠すのは難しい。
しかし自分が動揺すれば、もっと姉達を喜ばせることになる。そんな事はゴメンだから、何ともない振りを装った。
「……どなたからの文なのかしら?」
「姉上にお知らせしなければならないような文は、遣り取りしておりません」
表情を強張らせて言うと、コルドゥラとデリアは笑い出した。
「恍けても無駄よ!アドラー公爵家のクラリッサ様ね、最近雰囲気が変わられたって噂の」
「そうそう何でも傷心のクラリッサ様に付け込む悪漢がいるとか……」
「身分も容姿も実力も釣り合わないのに、失恋の悲しみにくれる令嬢の心の隙間に入りこもうとするなんて、どうしようもない愚か者ねぇ……もし、そんな大それた望みを持つ男がいれば、の話だけれどもね」
見えない刃で俺をグサグサと突き刺す二人の姉……いや鬼姉……というか鬼。
マクシミリアンはプルプル震えながら拳を握りしめた。
「婚約がふいになったからって、自暴自棄になって無理目に狙いを付けても玉砕して泣くだけよぉ~」
「そうそ、それに相手は今は冷静じゃないから、マックスなんかを構ってくれるけど、あの高貴な美少女が本気でアンタを相手にすると思う?余計な勘違いをしない安パイだから、相手をしているだけ。そのうち『お友達のコリントさんです』って全く悪気も無く婚約者に紹介されるのが関の山よぉ」
「……んなこと……かってるよ」
「え?」
絞り出すように言うと、コリドゥラが聞き返した。
体の中で何かがプツっと切れたのを感じて、彼は顔を上げる。そして少し戸惑う様子を見せる姉たち相手に一気に捲し上げた。
「んなこと、俺が一番わかってる!彼女は俺を友人としか思ってないよ!面と向かって『親友』って言われたからなっ……仮に気持ちがあったとしても、釣り合うものが何も無い、彼女に求婚するような立場にないの、俺が一番わかってるよ!」
「え、と……マックス?」
デリアが珍しく意地悪い笑みを消して、弟を落ち着かせようと手を伸ばした。
(慰めなんか、いらない。全部本当の事だ。図星だから―――)
「姉上に言われなくても……っ」
マクシミリアンは耐えきれず立ちあがって「トイレ!」と叫んで、その場から逃げ出した。
後ろで呆気にとられた二人の鬼姉が、何やら言っていたけど自分の目にじんわり水が滲んでいるのを見られたく無くて、聞こえない振りをした。
別にトイレに行きたい訳じゃ無かった。だから廊下に飛び出したところで、マクシミリアンは歩みを止めた。頭を冷やさなければと思い顔をあげると、先ほどの控室から繋がる出入口とは別の扉が目に入った。そこから庭へ出ると既にゲームが始まっているのか、大勢の人が集まっている場所から歓声が聞こえてくる。フラフラとそちらへ歩きすと、庭園の薔薇園の陰から飛び出してきた人物とぶつかりそうになった。
その人は柔らかな薄いシフォンを幾重にも重ねた華奢なドレスを纏っていた。ウエストが絞られていないドレスは神官が切る上質な貫頭衣にも見える。冠だけを頂いた、無防備に下した銀髪が陽光にキラキラと輝いていた。
女神がいる。
「マックス!」
「あ、女神がしゃべった―――て、え?」
女神は驚きに彩られた顔を、すぐにふわりと綻ばせた。
髪型も化粧も、衣装も見慣れぬ物だったが、絶妙な位置に泣きぼくろがあしらわれたその美しい垂れ目がちの銀色の瞳は、確かに今では見慣れたものだった。
「クラリッサ……」
「マックスも、招待を受けていたのね。もしかしてお姉さま方と…?」
打ち解けた様子で楽しそうに言う彼女を見ていると、体の中に蟠っていた塊が瞬時に溶けだし霧散した気がした。
自然に頬が綻ぶ。
「その格好は……?」
眩しくてつい目を細めてしまう。
「これ?盤上遊戯の衣装よ。駒の役をするように頼まれたの」
「もしかして『神官』ですか」
「そう。どう……?変かしら」
「いや……」
『変』どころか。
『女神』かと思った。
いや、『女神』そのものだ。
「マックス?」
胸の内が忙し過ぎて口を開けなくなっているマクシミリアンを、上目遣いに覗き込むクラリッサの銀灰色の瞳。吸い込まれそうになって彼は目を瞬いた。クラリッサは女性にして背が高く、マクシミリアンは年相応の中背だ。
だから虹彩の細かな文様まで見分けられるくらい顔が近くなって、マクシミリアンはゴクリと唾を呑み込んだ。
「……あの、似合ってます」
それだけ言うのが、彼の精一杯だった。
貴族男性として失格と姉たちにジャッジされるくらい、致命的に言葉が足りない。ただでさえ少ない語彙しかない彼の辞書の文字が、クラリッサを目の前にすると真っ白になってしまうのだ。彼の中でクラリッサの存在が大きくなるほど、どんどん言葉が減っていく。
しかしクラリッサはそんな事は全く気にせず、ただそのシンプルな賞賛の言葉に、嬉しそうに微笑んだのだった。
クラリッサは準備を終えて駒の順番を待っていると言う。どうしてこんなところにいたのかというと、少し困った顔をして言い淀んだ。