「冬のカナリア製作委員会」
「冬のカナリア製作委員会」
駐輪場のポールに自転車のロープ状のキーをくるっと巻き付けて、ガシャリと繋ぐと余った部分がダランと垂れた。
秋晴れ。
どこかで遠く、子どもの声がしている。小学校があるせいだ。運動会、だろうか。
「わたし、子どもなんて要らない」
市立の小さな図書館の自動ドアをくぐる直前、わたしの後ろを歩いていた千代は、わたしの白い長袖のシャツの袖を掴むと言った。
わたしは、返却する本が入った布製の肩掛けを掛け直して、さっき、昼に入ったトンカツ屋のせいかなと思う。時間も悪かったのだろう、店内は、運動会のお昼を取る家族でごった返していた。
それには答えず、カウンターで本を返却すると、千代と別れて、借りる本を探し出す。
きっかり一時間後に図書館を出て、先に自転車で走り出す。
キコキコのんきな音を立てて、ママチャリの千代が後ろからついてくる。
ケヤキの並木の、あまり立派なケヤキなもんだから、アスファルトが根に持ち上げられてひび割れ、うねる歩道をガタガタゆっくり走りながら、振り返る。
「更科、寄ってくか」
図書館から帰り道の蕎麦屋みたいな名前の団子屋。
いつもゴマ団子とみたらしと、あんこを二本ずつ買う。
ゴマ団子は過剰気味にゴマがついていて、店員のおばさんが持ち上げるとボロボロ落ちる。
「招福万来だって」
レジの横に、色紙に絵手紙タッチの水彩で描かれた、猫が短い手を持ち上げ笑ってる。
小さい頃、家の近くにドブが流れていて、小学校の帰り、笹流しでよく遊んだ。しゃがみ込んで、ドブに頭を突っ込むたび、背中のランドセルが頭の上までずり落ちてきて、なかの一人がある時、留め金がしっかり嵌まってなかったせいで、教科書やノートを全部ドブにぶちまけたことがあった。
その時の、灰色で、とろろ昆布みたいなものが水中にたなびいていたドブと、そこに浮かぶ鮮やかな笹の緑。
ジョロジョロと、南部鉄瓶から注がれる緑茶を眺めていると、とりとめなくそんな事を思い出す。
「もう麦茶の季節も終わりだな」
「お団子には、緑茶でしょ」
千代が、そっと髪を留めたバレッタに手をやる。
あの時からか、抜け毛が増えたと千代は訴える。わたしはそうは思わないけれど、千代は気にしている。
ぴっちりの大きさの、プラスティックの入れ物の中で、二本のゴマ団子の餅同士はくっついていて、千代と2人でそれぞれ串を持って引っ張ったら、剥がれた弾みで結構盛大に不平等な感じで、千代が持っていた方の餅のゴマがこちらへついてきた。
「いいよ、こっちで」
串を変えてやる。
「ありがと」
言いながら、ふふふっといたずらっぽく笑う笑顔は6年前、出会った頃と変わらない。夫の、いや、正確に言うなら結婚して4年経っても子どものいない夫の、欲目かもしれないが、30を過ぎても千代は、まだまだ可愛い。
「ねぇ、お昼のトンカツ屋さん、美味しかったよね、ご飯がわたしにはちょっと多かったけど」
千代が両手で湯のみを包みながら、こちらをやや上目遣いで見てくる。
どうも、さっきの図書館の入口での話はまだ終わっていなかったようだ。
「そうな。ソースに、ゴマがついてるのがいい」
「秋くん、ゴリゴリやるの好きだもんね」
何か言って、ふふっと笑うのは千代の癖だ。幼い頃、父親がすぐに殴る人で、機嫌を取る為か、怒らせた時に、冗談だと取り繕う為か、とにかく、気づいたら訳もなく笑うようになってしまったと、打ち明けてくれたのはたしか、出会って一年くらいの冬の、居酒屋だった。飲めない酒を飲んで飲み潰れる直前、どこかいいとこへ連れてく為に口説くつもりで笑顔を褒めたら、思いがけずそんなディープな告白に出会って面食らい、そのあと、すやすやカウンターに突っ伏してしまった無防備な横顔に何故か邪な心はすっと消えてしまった。あの時からかもしれない。
この人と、共に生きようと思ったのは。
「あれな、ソースとゴマの割合が大事なの」
「粒々感も残しつつなんだよね?」
「そう、素人はやたらすり潰すからね、やりゃいいってもんじゃない」
「素人って!」
千代は笑い出す。
テレビの背面へ千代が手を伸ばしてる。身体が小さいので、横幅の大きい画面に邪魔されてうまく届かないようだ。
悪戦苦闘しているので、後ろから腕を回すと、はっとしたように、振り向く。二重の目が見開いてて、こんな動物、いたなと思う。
「おどかしてごめん」
「ん、いいけど。声かけてよ。わたし、びびりなんだから」
驚いたのが恥ずかしいのか、ガスガスと胸に頭を打ち付けてくる千代の髪を撫でてやる。
「なぁ」
「ん?」
「今日、図書館の入口で言ってたろ」
千代は小さく頷いただけで、わたしの胸から頭を離すと立ち上がって髪を直した。
「ねぇ、先に観るの、「カナリアの冬」でいいんだっけ?」
TSUTAYAの黒い袋をガサゴソやりながら、何もなかったように声を掛けてくる。この話題は、深追いしないことだ。
「そう」
だからわたしも調子を合わせて答えると、コードを黄色のジャックに差し込む。
「でもこれ、150分あるよ」
「シンドラーのなんとか並だな」
「寝たらごめん」
「早くも布石を打つなよな」
ドスと畳に突き立てられた包丁がアップになって、馬乗りになった父親を下から足で懸命に突き飛ばして、主人公が裸足で雪の積もる庭へ飛び出したところで、唐突に、千代は話し出した。
「わたしが小さい頃、住んでた団地に猫が居て。茶虎の野良で、いつも目ヤニがついてて、そこがグズグズしてたから、グズって名前つけて可愛がってたの。全然慣れなかったけど。ミャーって何故か上手く鳴けなくて、ガーってカラスみたいな声で鳴く子で。給食の残りとか持ち寄ってあげてたんだ」
雪の上を父親と主人公が取っ組みあって転がるたびに、雪が舞い上がる。
「それで、すごい夏の暑い日に、グズが、団地の給水塔みたいな、なんていうのかな、小さな小屋があって、周りが少し高くなってて、コンクリートで固められた場所があったの。そこでゼーゼー息をしてて、あ、ダメそうだなと思ったの。でも、みんなで水をあげたりしてたんだけど、そしたら、そこを管理してるおじさんが来て、汚いって。こんな汚いものがいたら困るからって。わたしたち、グズを別の場所へ運ぼうとしたんだけど、おじさん、パッとグズの足をとって、バーンてコンクリートに頭を打ち付けたの。そしたら、頭だけグラーンてなってね」
話し出した時と同じ、唐突に言葉を切ると、千代は再び画面に集中し出す。
シーという、ホットプレートの加熱音で目が覚める。
早いね、声を掛けると、ホットケーキミックスと牛乳の入ったボールを抱えたまま、千代が笑う。
「まぁね、宣言通り、途中で寝ちゃったしね。秋くんは最後まで観た?」
エプロンが粉で白くなっている。
「いや。俺もあれからすぐ寝たから。続きは今日観よう」
千代は頷いて、ボールを掻き回し出す。
「嫌だって言ったのはさ」
なんの話かと思い、あぁ、と思う。
「要らないだろ?」
「そう。要らないし、嫌なの」
「そうか。俺はいいよ。千代がそうなら」
そう答えると、千代は横目でわたしを見て、唇の端だけで笑った。
「それって、俺はどうでもいいって聞こえるな」
「そうじゃないよ」
「ねぇ、秋くん、型取って型!棚の高い…」
ちゃんと聞けよ。思わず肩を掴んだら、ギッと千代は固まってしまった。カタン!と派手な音でボールがテーブルに落ちる。
千代がこんなにも男の人を怖がるようになってしまった理由も知っている。
お願いだから、どなったりしないで。
好きで好きで、半ば無理くり交際を申し込んだ時、千代が出した唯一の条件がそれだった。
怒鳴ったり、あと、急に後ろから何かされると、わたし、ほら、怖がりだからさ、フリーズしちゃうから。
その時は、誤魔化すようにように笑ってそんな理由を言われたが、じきに、それは、そんな生易しい理由でなかったことを知る。
その事と、今年の春の流産とが、関係あるとは思わない。
千代がベッドで寝ている間、女の医者を捕まえてそれとなく聞いたが、関係ないだろうとの事だった。ただし、こういうのは、気持ちの問題も大きいから、旦那さん、フォローしてあげて下さいと。フォローなら、してきた、と思う。けれど、付けられた傷の深さを所詮は他人の自分がどう知ればいい。
「ちゃんと聞いて」
ゆっくりもう一度言う。
「何?」
俯いたまま、千代の低い声。
「あの事は、残念だったけど、俺はさ、何度も言ってるけれど、千代が無事で、こうして2人でいられるだけで満足。考えてない訳じゃない、むしろ、考えた結果だよ」
その言葉が身体に入るのを待つ為か、もしくは、入れないように守っていたのか、少しの間、千代はじっとしていた。
「ねぇ、分かったから。肩、痛い」
言われて慌てて離すと、あーあ、これ、鉄板熱くなり過ぎちゃったよと千代は屈託なく笑った。
黄色の翼を一度、カゴの入り口で羽ばたかせたのち、久しぶり過ぎて、まだ勘が戻らないような感じで随分不器用にカナリアは飛び立った。
竹で出来たカゴを、庭に置かれた、炎の上がるドラム缶へ少年は投げ入れる。
「じゃあ行ってくるけ」
ドラム缶のそばに佇んでいた少女が立ち上がる。
「一緒に行くよ」
「馬鹿。女なんか連れてたら、恥ずかしいだけじゃ」
サンダル履きの少年が錆び付いた自転車に跨る。漕ぐたびに、ガシャリガシャリと何かの歯車のような音が響く。
カメラは夜明け前の国道を走る少年の背中を後ろから映している。
ガシャリガシャリ。
ボヤけた背景に小さく交番の赤い光が見えたところで、画面は暗転し、静かにエンドロールが流れ出す。
ガシャリガシャリ、その音だけ、出演者名が流れるなか、響き続ける。
「カナリアの冬製作委員会」
最後に少し遅れてそれだけ画面の下から立ち上ってくる。
片面だけカリカリに焦げたパンケーキを頬張りながら、そこまでしっかり観て千代が言う。
「あのさ、女の子、可愛かったね」
「あー、派手に髪染めてた?」
「そうそう。なんかさ、もともとバンドやってたらしいけど、これのヒロインに抜擢されたんだって」
「言われりゃ、そんな感じだね」
「主題歌がそのバンドらしいよ」
千代が蜂蜜のついた指でスマフォをスルスル撫でながら言う。
「随分突っ込むねぇ。なんてバンド?あ、ちょっと待って!なんか今、予想ついた。すげぇやな予感する!」
「あ、それわたしも思った。けど大丈夫、ギリギリずれてるから。カナリヤだって」
「いや、ギリギリアウトでしょ、それ」
湘南街道を抜けて、おもちゃみたいなトンネルを潜ると、そんな予兆、それまで全然なかったのに突然ガードレールの向こうに海が広がる。
「久しぶりだもんね、2日も休みなんて」
千代は助手席で嬉しそうにCDを選んでる。
「ラライってね、海の見えるカフェがあるみたいだからさ、そこ行こうよ」
「で、そのあとプリン屋でしょ?」
「よく分かってんじゃん」
昨夜からもう何度も聞かされたからね、計画。
車内にスピッツの「青い車」が流れ出す。
「ベタベタなチョイスだな!おい!」
思わず突っ込むと、
「いいのー!」
千代は意味もなくシートを後ろに倒すと、足をばたばたさせた。
そのまま、天井を見るような格好で
「秋くん」
改まった声で言う。
「何だよ」
「もう、いいよね?」
「何が?」
「許してくれる?」
あぁ、千代の中の時間はあの時から、一秒も進んでいないのだなと思う。
躓いて、悔やんで、立ち上がったけど、進めずに、そこで、嗚咽さえもらせず、立ちすくんでる。誰か恨んで、罵って、跳ね返った孤独に苛まれ続けてる。近くに、こんなそばに俺がいるのに、それさえ見えないほどに。
わたしはハンドルを握ったまま、左手をポンと千代の頭へ置いた。
青い車が走って行く。
左に大きくカーブを描く海岸線。
それをトレースするように(終)
やはり自分はこういうテーマにこだわってしまうようです。
これからも、性と心の傷と、そんな物語を紡いでいけたら、そう思っています。
そして、この物語の後半に出てくる、作中映画内の、「派手な髪の女の子とバンドのお話」が、拙作、「女の子はいい匂いしかしないはず」となっております。
もし宜しければ、シリーズにしておりますので、そちらもご覧下さい。
感想、意見もお待ちしております。