化粧
「ヴィット。この役目は、お前にしか出来ない」
真剣な顔でイワンが顔を近付け、ヴィットは生唾を飲んだ。この場所でマリーを修理する為に何も出来ない自分を呪っていたヴィットは、上気した顔で目を輝かせた。
「する……何でもする」
ヴィットに耳打ちする様に、イワンは声を潜め端の方へ連れて行った。
「いいか、まずリンジーを床屋、いや、美容院に連れて行け。そうだな、ハンナの店がいい、そして、これを渡すんだ」
メモ紙を渡されたヴィットは直ぐに見ようとするが、イワンは真剣な顔で即、制した。
「今は見るな」
「分かった」
真剣な顔でヴィットは頷いた。
「早く行け。この作戦は、お前次第だ」
辺りを窺う様に、イワンは小声で話す。
「その後はどうする?」
「取りあえず、戻って来い。次の指示は、その後に出す。さあ、行け」
「了解」
小さく頷いたヴィットは、リンジーの元に行き真剣な顔を向けた。
「リンジー、一緒に来てくれ」
「私? どこに?」
「いいから」
ヴィットはリンジーの腕を取ると、表通りに出る。唖然とするリンジーだったが、ヴィットに握られた腕がなんだか暖かくて、気付かないうちに笑顔になっていた。
「ヴィットとリンジー、どこに行くんや?」
ポカンとするチィコに、笑顔のイワンが声を掛けた。
「お前さんは、マリーの傍にいるのが役目だろ?」
「そうやった」
チィコは張り切ってマリーの傍に走る。マリーは不思議な感覚で、ヴィットとリンジーの背中をモニターで見ていた。モヤモヤとする様な何だか分からない感じは、今のマリーには演算出来なかった。
だが、ゲルンハルトや他の者達も皆笑顔で、ヴィットとリンジーを見送っている。マリーは不可解な演算を止めると、静かにモニターの電源を落とした。
______________________
ハンナの美容院は表通りにあり、店内の待合室には若い女の子達が溢れていた。
「ヴィット、説明してよ。何なのよ?」
並んで椅子に座ると、リンジーは不安と変なプレッシャーに包まれる。他の女の子が着飾り、綺麗に化粧などもしていて自分の汚れた戦闘服が物凄く場違いで、思わず下を向いた。
だが、横目で見たヴィットは真剣な顔で思わず吹き出しそうになった。
「説明は後だ、順番が来るまで待て」
「もう……」
呆れるリンジーだったが、改めて周囲を見ると視線を感じた。明らかに不審者を見る様な視線は、ヴィットに集中していた。確かに包帯だらけ、傷だらけ、おまけに服もボロボロで、顔なんか埃まみれだったから。
だが、リンジーの胸の中でその軽蔑する様な視線は、次第に怒りに変わった。反対側でのヒソヒソ声がヴィットの悪口である事を認識すると、反射的立ち上がりツカツカとその方向に歩み寄る。
「何がおかしいの?」
腰に両手を当て、座ってる女の子達を睨み付けた。
「何って……ねぇ」
女の子達は顔を見合わせ、クスクスと笑った。
「このっ!」
掴み掛かろうとするリンジーの腕を、真顔のヴィットが握った。
「よせ。ミッションが控えてる」
「だから、ミッションて何なのよ?!」
思わず声を上げると、その剣幕に驚いた女の子達は逃げるように店を出て行った。
「どうしたんですか?」
騒ぎに驚いたハンナが待合室に来る。清潔感満載のハンナは、美しい女性の見本の様な出で立ちで、容姿を含めたインパクトはヴィットをプレッシャーで包む。ヴィットはその圧力に押されながらも、慌ててメモを渡した。
読んだハンナは笑顔になり、リンジーをカットスペースに連れて行った。見送るヴィットは手に汗を握り、ミッションの成功を祈った。
「綺麗な髪ね、普段のお手入れはどうしてるの?」
ハンナはリンジーの髪に櫛を通しながら、笑顔を向けた。
「別に何も……」
俯いたリンジーは、ポツリと返事した。
「それじゃあ、シャンプーとかの頻度は?」
「シャンプー? そんなの使いません。旅の途中に川で洗うくらい……」
「川……」
ハンナの目がテンになるが、気を取り直して聞き直す。
「それなら、お風呂は? お風呂で髪を洗うでしょ?」
「いえ、野宿が多いですから、池とか川で済ませます。あと、雨が降って来た時とか」
平気な顔でリンジーは普通に言った。
「水棲動物じゃないんだから……」
顔を強張らせ、ハンナは呟いた。
「それより、何なんですか?」
全く訳が分からない、リンジーは思わず声を上げた。
「イワンは昔からの知り合いなの。彼に頼まれたのよ、あなたを綺麗にしてって」
「どうしてイワンが?」
「さあ、付き添いの彼氏に聞いてみたら?」
「えっ……」
ハンナの言葉に、リンジーは耳まで赤くなり次の言葉が出なかった。”彼氏”その言葉はリンジーにとって、動悸と赤面を及ぼす言葉だった。直ぐ様ヴィットの笑顔がフラッシュバックして、胸全体が痛くなった。
「少しクセはあるけど綺麗な髪だし、お化粧しなくてこれだけ可愛いんだから、彼氏はラッキーね」
追い打ちを掛けるハンナの言葉に、リンジーの頭は熱暴走状態になった。
__________________________
リンジーが別の部屋に行ってから、優に一時間を超えた。そして、二時間に差し掛かって、ヴィットが堪らず様子を見に行こうとした時、リンジーが姿を現した。
「誰?」
第一声は咄嗟に出て、ヴィットの目には知らない女の子が映った。あれだけインパクトのあったハンナさえ、その美しさは軽く凌駕している。
「……どう? ヴィット」
確かに声はリンジーだが、その容姿は記憶とかけ離れていた。綺麗な金髪は輝きを増し、毛先には軽いウェーブ。ゲジゲジの眉は綺麗に形を整えられ、長い睫の目元にはマスカラと絶妙なアイラインで、少し気の強そうな美しい瞳は破壊力を倍増加させていた。
「リンジーなのか? 何をどうしたんだ?」
目を丸くするヴィットは、唖然と呟いた。確かに服装は変わってないし、声はリンジーだけど、見違える程にリンジーは綺麗だった。
「土台がいいのよね。少しのお化粧で、これだもの」
隣のハンナは、自分の事みたいに嬉しそうに笑った。プロの美容師から見ても、リンジーの美しさは特筆ものだった。そして、ヴィットはリンジーが変わったヒントをハンナの言葉の中に見付けた。
「確かに凄い、あの機械オタクがまるで別人だ。やっぱり、化粧ってすご……はうっ」
言葉の途中で、強烈な右ストレートを顔面に喰らったヴィットは悶絶した。
「どの機械オタク?」
鼻息も荒く、仁王立ちするリンジーにハンナは苦笑いした。ヨロヨロと立ち上がるヴィットに、笑顔のハンナがメモを渡した。
「次のミッションは洋服屋よ。リンジーは自分で選べないって言うから、私が似合いそうな物を書いておいたわ。街の中心にあるレオナの店に行きなさい」
「……はい……ハハハ」
受け取ったヴィットは、まだ鼻息の荒いリンジーに強張った愛想笑いを向けた。
_______________________
道行く人々が、リンジーに振り返る。汚れた戦闘服も、かえってリンジーの容姿を引き立たせていた。風になびく髪から、とても甘い匂いがして思わずヴィットは鼻の穴を広げた。
「何っ?!」
振り返ったリンジーが睨む。
「いえ、その……何か、良い匂いがして」
背筋を伸ばしたヴィットが、声を震わせた。
「何、言ってんの。早く行くよ」
まだ怒ってる様な口調だったが、リンジーの顔は真っ赤になっていた。
レオナの店では店内の着飾った女の子達が一瞬固まる。女同士の勝負は瞬間に決まり、その優劣は簡単で、単純な”美しさと可愛さ”だった。
勿論、性格や雰囲気なども勝負のマストだが、何より最初の一撃は最重要である事に間違いはなかった。
ヴィットには周囲の女の子達が、リンジーに道を開ける意味なんて分からなかったが、店のお花畑の様な雰囲気には終始圧倒され言葉なんて出なかった。
出て来たレオナは大人の女性オーラを思い切り発散していた。一目リンジーを見るなり満面の笑顔になり、渡されたメモを見るとリンジーを店の奥へと連れて行った。
例によって置き去りのヴィットは、女の子達に囲まれ、固まる事しか出来なかった。
暫くして出て来たリンジーは純白のワンピースで、攻撃力を更に倍増していた。周囲の女の子達は、ヴィットと同様に固まり言葉を失った。
「透け感のある素材のふんわりワンピースなら、男性の想像をかきたてるの。また、程よく身体のラインが出る、体型が分かる服は男性の脳が刺激されて恋愛ホルモンが分泌されるのよ」
嬉しそうにレオナは説明するが、ヴィットにはまたリンジーが違う人に見えた。何時ものダボダボの戦闘服で分からなかった、出るところは出、締まる所は締まるメリハリボディに最適な細さの手足は、一言で言えば”完璧”だった。
「でも、ヒールやパンプスは無理なのよね。履いた事なくて、歩けないみたいだから」
少し残念そうにレオナは微笑むが、リンジーの足元のコンバットブーツは違う意味でのコーディネイトとしては”有り”で、服装を際立てるアイテムとなっていた。
「ヴィット……どう?」
聞かれたヴィットは、さっきの右ストレートが脳裏を過り、今度こそはと言葉を選んだ。
「凄い、艤装でこれだけ変わるのか……ぐっあっ……」
「艤装?……」
今度は左のアッパーでヴィットは床に沈んだ。
___________________________
工場に戻ると、全員が埴輪の様に固まった。
「リンジー……どうしたんや?」
チィコでさえ言葉を失い、ゲルンハルトは目を見開き直立不動になった。
「すげぇな。ポンコツも全塗装で……はうっ」
「誰がポンコツだぁ?」
イワンの顔面に巨大なスパナがメリ込み、ヨハンやハンスが抱き合って青褪める。
「リンジー、とっても綺麗……」
マリーは嬉しそうな声で砲塔を上下さると、リンジーは含羞む様に頬を染め、ヴィットとミルコは青白い顔を見合わせた。だが、ヴィットは振り返ったマリーの塗装が焼け爛れている事に改めて胸が締め付けられた。
(必ず綺麗に直してあげるから)……呟いたヴィットの脳裏には初めて合った時のマリーの輝きが鮮明に蘇り、強く拳を握り締めた。
「イワン、全塗装は酷いよ。せめて改修とか……ぐばっ」
笑顔で言い換えるTDの顔面には、小型の溶接機が命中した。その様子を見ながら、ハインツは大きな溜息を付いた。




