第四話 あわいあわい思い出の
「っふあ……」
昨日のようにヘイルに起こされることはなく、エトワールは恐らく彼よりも先に目を覚ました。
外を見るとまだ薄暗い。ごしごしと目を擦って、エトワールはベッドから降りる。
その顔は、やる気に満ちていた。
何のやる気かというと、ヘイルのために朝食を作るやる気だ。会ってからずっと彼にご馳走してもらっている。だから早起きした今日は、作ってやろうと思ったのだ。
扉を開け、部屋を出ようとしたが、ベストを着ていないことに気付く。ベッドに近付いて、枕元に置いておいたベストを身に纏った。
ふと、ベッドの傍の小さな机に目をやった。
「?」
そこには、写真立てが伏せて置かれていた。近付いて、それを手に取り、表に返そうとして――。
「あれ? エト、今日は早いんだね」
「!」
結局、裏になっている写真を見ることは出来なかった。
部屋を覗き込むようにしていたヘイルから隠すため、その机を背にして立つ。
「なっ、なんでヘイルさん起きているんですか! せっかく私が朝食を用意しようと思ったのに」
「五日に一度は宿屋のおじさんにミルクをもらえるんだ。だから今からもらいに行く。エトもついてくる?」
無言で、こくりと頷いた。
「じゃ、先に外で待ってるよ。準備が出来たらおいで」
彼が階段を下り始めた足音が響く。残されたエトワールは、特に準備をすることなどないが、すぐに彼を追いかけなかった。
裏返すことが出来なかった写真立てを、今度こそ手に取る。
(……せっかくの写真を裏にしておくなんて、もったいないです)
父から聞いた話によると、写真は写真屋に頼んで撮ってもらうらしく、写真屋と会う縁などないエトワールにしてみれば、これはとても貴重なものだ。だからこそ、裏にしているのはもったいないと思った。
「……これ……」
軽く埃を払って、まじまじとその写真を見る。
そこに写っていたのは、少年と、女性と、男性。恐らく、家族なのだろう。少年は幸せそうに、楽しそうに笑っている。笑顔が良く似合う、少年だった。
そんな少年と、ヘイルが、重なる。白黒の写真では髪の色も目の色も分からないが、それでも、その少年は、ヘイルだと分かった。その笑顔は紛れもなく、彼が浮かべる笑顔だ。
「ヘイルさん……」
この家には、彼以外いない。だとすると、彼の両親はどこか遠くへ行ってしまったのだろうか。
「……あ」
写真を、そっと表のままもとの場所に置く。
ヘイルを待たせていることを思い出して、早足で外へと出て行った。
◆
ヘイルについて行った宿屋は、昨日訪れたパン屋よりも大きかった。ただ、早朝だからか店の一階には店員と思しき人物しかいない。
「おう、ヘイル。と……珍しいお客さんだな」
カウンターの奥で、男性がエトワールをじっと見つめた。それに気付き、エトワールはお辞儀をする。
「アグニおじさん、ミルクはあるかな?」
「ああ、店の裏だ。持っていきな」
「いつもありがとう。……エト、少し待ってて」
ヘイルはカウンターをくぐると、店の裏側に通じている扉を開いて外へ出て行った。
きょろきょろと店を見回しているエトワールに、アグニから声がかけられる。
「……お前さん、気をつけな」
「え?」
何に気をつけろと言われたのか分からず、エトワールはただ不思議そうに彼の次の言葉を待った。
彼がじっと見ているのはエトワールの、銀の瞳だ。
「ナイシア族、だろう?」
「――!」
「ここは屠殺部隊本部がある。国はナイシア族をすべて捕らえるか殺すつもりだ。あまり人の多い時間に街を歩かん方がいい」
アグニの言葉が、耳に届いてこなかった。ナイシア族だと気付かれた時点で、エトワールの心は別のところにあった。
このことが、ヘイルにばれてしまうことが、怖かった。
「っアグニさん!」
「な、なんだ?」
「ヘイルさんには、言わないでください! お願いします……ヘイルさんには黙っていてください……!」
銀の瞳は、今にも泣き出しそうに揺れている。アグニはそんなエトワールに困ったようで、眉を下げていた。
「別に言わんよ。お前さんが今それを言わなかったら、わしはヘイルがそれを知ってるもんだと思っとったからな」
「――っおじさん!」
バンッ、と、扉が勢い良く開け放たれた。
突然駆け込んできた少女は、アグニに掴みかからん勢いで詰め寄っていく。
「ミルクっ、まだある!?」
「もうない。残念だったな、カルト」
「そんなあ……せっかく早起きしてきたのにー……」
「――ごめんエト、おばさんと話してたら遅くなって……」
ヘイルがミルクの入っている木箱を抱えながらカウンターから出てくる。カルトと呼ばれた少女がそれを気に食わないというように目を細めて睨んだ。
「なんであんたがミルク持ってんのよ……一つくらいあたしに寄越しなさいよ!」
「なぜ僕が君にあげなければならないのか理解出来ないね。邪魔だからそこどいてくれるかな」
エトワールに見せるものとはまったく別の冷たい表情を浮かべ、ヘイルはカルトの横を通り過ぎていく。
きょとんとしているエトワールに、彼は微笑んだ。
「さ、エト。家に戻ろう。朝食はすぐに僕が準備するから」
「――な、なんなのよそれ……!」
震える声に、エトワールは目を向けた。言葉を向けられているのはヘイルだというのに、カルトの方へ目をやることもなく、ヘイルはエトワールだけを見ていた。
「あんた、なんで……なんで笑ってんのよ……」
「……何故僕が君に笑うなと言われなければいけないのか全く分からないんだけど」
「だってあんた……あたしには、そんな顔……」
「帰ろうエト」
ヘイルに手を引っ張られ、エトワールは戸惑った。彼の行為よりも、自分の手を引く彼の力に、だ。
「ヘイルさん!? いいのですか!? あの方、ヘイルさんとまだ話が済んでないようですが……」
「済んだよ、話なら。それに僕は彼女と話すことなんてなにもない」
「っ――!」
二人の横を、カルトが駆けて行った。
何故か反射的に、エトワールは彼女を追いかけてしまっていた。
「エト!?」
「先に戻っていてください! すぐ帰りますから!」
ヘイルの呼ぶ声を背中に受けながら、エトワールは前を走る後姿を追っていく。人通りの少ないゆるやかな坂を駆け上がる。
気がつくと地面が、敷き詰められていた石から土や草に変わっていた。だが、まだ街の外に出たわけではないようだった。崖のようなところだが、周囲が白い柵で囲われている。
そこには二つの大きめの石と、枯れている花が置かれていた。
「はあっ……はぁ……」
ここに来たかったのか、それともただ疲れたからか、カルトは座り込んだ。その顔を、エトワールは覗き込む。
「大丈夫、ですか?」
「! ……なんで、あんた、ついて来てんのよ」
「なんとなく、ですかね。気になったから、かもしれません。ヘイルさんのあんな顔……初めて見たので」
そっと、カルトの横に腰掛けた。今頃ヘイルは心配しているだろうかと考えていると、「ねえ」と彼女に呼びかけられた。
「あんた、ヘイルとどういう関係なの?」
彼女は好奇心というよりも、なにかを確かめたいようだった。
「えっと……私、そうですね、旅人……と言っておきましょうか。それでお腹が空いていて、偶然お邪魔した家がヘイルさんの家で、出会ってから三日目です」
拙い説明。それで満足なのか、カルトはふうんと素っ気のない返事を返す。その顔はどこかほっとしたように綻んでいた。が、すぐに眉を寄せる。
「なんでそんな初対面同然のくせにあいつとあんな仲良いのよ?」
「それは……私に聞かれても困ります」
「……あいつ、あたしには優しい言葉すらかけてくれないのに」
口を尖らせるカルト。エトワールはそんな彼女を見て、ふふっと笑った。
「カルトさんは、ヘイルさんのことが好きなのですね」
「っちが……く、ないわね。そうよ」
否定しようとしたにも関わらず、あっさりと肯定した。
「あんた、会ったばっかだからあいつのことそんな知らないでしょ」
「はい。全く」
「……知りたい?」
「知るなら彼の口からが良いですかね」
むっとしたように、カルトは口元を歪ませる。
エトワールが知りたいと言わなかったにも関わらず、彼女は喋りだした。
「あいつ、一時期すっごく弱かったのよ」
「あの、別に私知りたくな――」
「聞きなさい。あたしが話したいの」
カルトが懐から取り出したパンで口を塞がれたエトワールは、それを受け取る。彼女は話を進めた。
「なんていうか、いつも下ばっか見てて、街歩くだけで申し訳なさそうな顔してんの」
「へいるさんはひふないへふね(ヘイルさんらしくないですね)」
もぐもぐと、パンを咀嚼する。
そんなエトワールの横で、カルトが昔を懐かしく思ってか笑みを浮かべる。手を持ち上げて、肩にかかる程度の紺色の髪を耳にかけた。
「そ。あいつらしくなかったのよ。だからむかついて、でもあたしは最低なことをした」
「……なに、したんですか?」
「街の人たちよりもひどいこと言った。あいつをさんざん馬鹿にして、あいつをさんざん悪く言ってやった」
カルトの話は彼女だけが理解していて、エトワールに聞かせてはいるものの理解させる気はないようだった。エトワールには、街の人がヘイルに何を言ったか知らないのだ。
「だから嫌われてるって分かってるのに。あいつが冷たい顔しかしなくなったの、あたしのせいだって分かってるのに。それでもあたしは、あいつに嫌われたくないし……あいつに笑ってて欲しい」
「カルトさん……」
「でも、嫌なのよ。あいつが……あたしにだけ笑ってくれないの。あたしにだけ冷たいの……そんなの、辛いのよ」
カルトがヘイルに言った言葉が、それほどヘイルに影響を与えてしまったのだろうか。そんな風には、エトワールは思えなかった。
二人がずっと前から知り合いならば、ヘイルは彼女のことを、彼女がしたかったことを分かっているのではないかと思う。
「……ヘイルさんは――」
「エト!」
突然、空気が変わった。
彼の存在で、カルトが表情を強張らせたのだ。先ほどまで笑っていた顔は、ヘイルに向けないようそっぽを向いている。
「ごめん。待ってようと思ったんだけど……」
ヘイルの視線が、石と花を捉える。それを見ることを拒むように即座に視線を逸らした彼は、立ち上がったエトワールの方へ歩いていく。
「何の話をしていたんだい?」
「えっと、ヘイルさんのお話です」
「僕の、何」
明らかに、彼は不機嫌になった。カルトに向けていたような冷たい瞳。エトワールはそんな彼に笑って見せた。太陽のような、微笑みで。
「カルトさんが、ヘイルさんをす――」
「はあああああ!? 何言ってんのよあんた! 馬っ鹿じゃないの!?」
今度は慌てて手でエトワールの口を塞ぎにかかる。彼女の顔は真っ赤だった。そんな彼女の手をどかすと、エトワールはヘイルをまっすぐ見つめ、言った。
「カルトさんが、ヘイルさんとお話したいそうです」
「ちょっ、だからあんた何言って――」
「カルト」
カルトの緑の瞳が、大きく開かれる。信じられないものを見たというように、まん丸のその目でヘイルを映していた。
彼に名を呼ばれたのは、彼女にとって懐かしいことだったのだ。
「用があるなら、早く済ませてくれるかな。僕もエトも、お腹が空いているんだ」
ヘイルは、カルトにとってのいつも通りの表情を浮かべていた。悲しいほどに、冷たい表情を。
勇気を出して、声を振り絞る。
「……ごめん、なさい」
「え?」
カルトの口から出た謝罪に、ヘイルは動揺した。彼女から謝罪をされるなど、考えもしなかったのだろう。
「……あんた、あたしが何について謝ってるか……分かってる?」
何も言葉が返ってこなかったからだろう。下げていたカルトの頭が上がる。
「君って、馬鹿だよね」
「はあっ!?」
「まさかあんな昔のことをいつまでも引きずってたとは思わなかった」
流石に我慢できなくなったように、カルトがヘイルの胸倉を掴んだ。
「あんたは違うわけ!? だからあたしに冷たいんじゃないの!?」
「いや。君がうるさくて鬱陶しいからだけど」
「なっ……!? 人が悩んで悩みまくったってのに、あんたは……!」
「話は終わったみたいだ、エト、帰ろう」
エトワールに右手を差し伸べ、ヘイルは左手でカルトの拳を受け止めた。
騒いでいるカルトと、それを冷たくあしらっているヘイルの姿は、エトワールには微笑ましい光景に見えた。
「カルトさんも、一緒に朝食を食べませんか?」
ようやく落ち着いたカルトは、首を左右に振った。
「あたしは帰る。なんか、もうこいつ見てるとイライラしかしない」
「駄目ですよカルトさん。またそういうこと言ってると嫌われますよ?」
「っうるさい!」
エトワールにチョップを食らわせてから去っていくカルト。その後姿を見送っているヘイルが微笑んでいることに気付いて、エトワールは幸せな気持ちになった。
カルトはちゃんと、ヘイルに微笑みを向けられているのだ。
「……ふふっ」
「? なに笑ってるのさ」
「いーえ。なんでもないですっ。朝ごはん食べに行きましょーヘイルさんっ!」
◆
昨日と同じことを繰り返しているようだった。
森に行っても、うさぎを見つけることはなく、やはり収穫なしに帰ることとなった。昨日と違うのは、アルバと会わなかったことくらいだろう。
「今日はパン屋に行かないのですか?」
「昨日沢山パンをもらったから、今日は行く必要ないよ」
夜の街を、ヘイルと並んで歩く。ふと空を見上げると、昨日ヘイルが言ったとおり満月だった。
「……私、ヘイルさんって月だと思うんです」
「? まあ、僕は月が好きだけど」
「私……星になりたいです」
「星?」
ヘイルのことを、見上げる。そうすると視界には、星空が広がっていた。
「ヘイルさんの周りでぴかぴか光ってる星になりたいですっ」
年よりもいくらか幼く見える笑顔。エトワールは、楽しそうに、どこか幸せそうに、笑う。
「……だから、君は太陽だよ」
小さな呟き。それはエトワールに届かず、風が攫っていく。
着いた家の中に入ると、ヘイルはすぐ夜食の準備に取り掛かった。
「エト、パンを持ってきて」
「あ、はい」
バスケットから取り出した細長いパンを、ヘイルが千切り始める。それをスープの入った器へ落としていった。
「さ、食べようか」
温かいスープ。それが染み込んだ柔らかいパン。スプーンですくって、満面の笑みで食べていく。
やはり彼のスープは、おいしい。とても、幸せな気分になれる。
「ごちそうさまでしたっ」
すぐに、エトワールの器は空になった。
「おやすみなさい」
器をそこに置いたまま、エトワールは二階へと上がっていく。来もしないうさぎを待ち続け、疲れたのだろう。その足取りは重いように見える。
ヘイルも食べ終わると、すぐに席を立った。だが、彼の足が動いたのは階段のほうでも食器をくるむ布が置いてある窓際でもなく、外へ、だった。
◆
疲れていた。というよりもきっと、早く起きたから眠いのだ。
ベッドに横たわると、すぐに眠れるような気がした。だが、窓の外を見て、ヘイルの姿が目に飛び込んだとき、眠気はどこかへ行ってしまった。
「ヘイルさん……?」
気になって、彼の後を追いかける。
今日はこんなことばかりだな、とふと思った。朝はカルトを走って追いかけたが、今回はヘイルを歩いて追いかけている。
走っていけば簡単に追いつくだろうが、彼が自分に何も言わず、そもそも自分がいないタイミングでどこかへ向かっているのだ。来て欲しくないのだろう。
そう分かっていても追いかけてしまうのは、彼のことが気になるから、だった。
「ここ……」
彼が足を止めたのは、朝カルトが足を止めた場所と同じだった。
つい、木の陰に隠れてしまう。
「……ごめん」
静かな夜の中で、ヘイルの小さな呟きは充分エトワールに届いていた。一体何に謝っているのだろう、そこに誰かいるのだろうか、と陰から覗き見る。そこには、誰もいない。
「もう少し早く代えるつもりだったんだけど……代わりを持ってくることすら忘れていたよ」
枯れてしまった花を、ヘイルは手に取った。
「次に来るときは、ちゃんと供えに来るから」
小さな言葉は、とても、悲しげだった。
ようやく、エトワールは気付く。あの石と花が、意味するものを。ここが、何なのか。
歩き出す。ここにいては、いけない気がした。彼の震える小さな声が聞こえたから。
「……」
彼の両親が、既に亡くなっているのではないかと、気付いてしまったから。