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そして赤く染まり行く  作者: 藍染三月
第一章 エトワール編
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第三話 あまいあまいパンと共に

「……ト、エト、おーい、エト?」


「んー……」


 これは困った。どれだけ揺すっても声をかけても、起きる気配はない。


 何かを食べている夢でも見ているのか、エトワールは幸せそうな顔で何も含んでいない口を動かしている。


「……仕方ない。先に朝食をとって狩りに出てようかな」


 寝返りをうったエトワールに背を向けて、部屋を後にしようとする。しかし、進み始めたヘイルは何かに引っ張られたように立ち止まった。


 振り返ると、服の裾をエトワールが掴んでいた。


「待って、ください……」


 眠ったままのように見える彼女は、良く分からない寝言ではなくはっきりと喋った。


「……分かった、君が起きてくるまで待つからとりあえず離してほしい」


「逃げる気……ですか?」


 少し怒ったのだろうか。挑発するように言ってはいるが、その瞳は閉じられたままだ。


 彼女の言っている意味が理解できず、ヘイルはとりあえず笑って見せたがその笑みは引きつったものになっている。


「いや、逃げるって何?」


「パンの、くせに……逃げるなんて……むにゃむにゃ」


「――ちょっと待った僕はパンじゃない!」


「……あれ?」


 はっきり喋ってはいたがどうやら寝言だったらしく、ヘイルから手を離してむくっと起き上がったエトワールは、眠そうな目を擦りながら首をかしげた。


「なぜヘイルさんがここに……? あれー? 私のパンがないです……」


「まだ寝ぼけてるのか……大丈夫、パンなら一階にあるよ。さ、起きて」


「言われなくても私は起きてます」


 すっと立ち上がるとヘイルの前を通り過ぎて部屋を出て行く。直後、階段下の壁に頭をぶつけたのか猫の鳴き声のような悲鳴を発した。


 ヘイルはそんな彼女がおかしくて、小さく笑う。


「いただきますー!」


 二階にいても聞えるエトワールの感謝の声。どうやら寝起きでも元気なようだ。


「あ……エト! 僕の分もあるから全部は食べないでほしい!」


 昨日の彼女の食べっぷりを思い出し、ヘイルは慌てて階段を駆け下りた。



          ◆



 ぐるぐると視界を回しても、映るのは草木の緑と土や木の幹の茶。エトワールにとっては見慣れている森の中だ。


 ヘイルも同じように視線を巡らせている。


「……ふむ……」


「どうしたんですかヘイルさん? 難しそうな顔してると老けて見えますよ?」


「失礼だね君は。少し黙っていてくれるかな」


 冗談のつもりだったのにとても冷たく返される。エトワールは「ごめんなさい……」と小さく謝って彼を見つめた。


 遠くを見ているのか目を細めている彼は、決して老けてなどいない。むしろ若く、顔立ちも普通より良い方だろう。けれどファラキルスの方が綺麗だったなと考えてから、エトワールはぶんぶんと頭を振った。


「なんで、あんな人でなしのこと考えているのですか私は……!」


 ぐぐぐと手を握り締めてから、すっと力を抜いて一息。


 ヘイルを見つめることに飽きて、彼の視線の先を追っていった。しかしどこを見てもやはり、変わらない森の中だ。


「いないなあ……」


「何かを探しているのですか?」


「昨日言ったじゃないか……うさぎだよ。この辺りにいる動物で食べることが出来るのはうさぎか鳥くらいなんだけど、あいにく僕は銃とか弓とか持ってないから鳥は狩れないんだよね」


 探しているものを聞いたら後の話は聞き流すようにして、エトワールは標的の姿を探し始める。


 目はいいと思っているエトワールだが、どれだけ視線を動かしてもうさぎは捉えられない。


「ほんとにいるんですか?」


「いるよ。一匹も狩れない日だってあるし、仕方ない」


「なるほど……」


 エトワールの目の前で、ヘイルが腰を下ろした。


「まあ、気長に待てばいいさ」


「一匹も狩れなかったら、ヘイルさんは御飯抜きですか?」


 言いながらも、エトワールはスープがあることを思い出す。


「いや、宿屋のおじさんかパン屋のおばさんのところに行って食べ物をもらう」


「お金がないともらえないのでは?」


 ヘイルの蒼い瞳は座っていてもせわしなく動いている。けれどやはり獲物は見つからないようで、彼の右手は懐から取り出したナイフを弄んでいた。


「子どもの頃からあの二人にはお世話になってるからね」


「なるほど。パンを盗み食いして怒られているヘイルさんが頭に浮かびます」


「君には僕がそんな人間に見える?」


 はい、と頷くエトワールが視界に入って、ヘイルは口をへの字に曲げる。


 金も常識も無い困った少女であるエトワールに、食べ物と寝室を与えてやっているにもかかわらずそう思われているのは心外であった。


「じゃ、エトは今日の夜御飯抜きでいいかな」


「なっ、なに言ってるんですかヘイルさん!」


「冗談だよ」


「――ヘイル?」


 突然ヘイルの名を呼んだ声の主は、エトワールたちの方へ近付いてきた。


 エトワールが目をやると、ヘイルよりもがっしりした体格の、肩にうさぎを担いでいる男が立っていた。そのうさぎはまだ生きているのか、もそもそと動いている。


「アルバ……君、うさぎを捕まえたのか?」


「俺の足の速さ、舐めるなよ? そういうお前はあれだな、子猫を捕まえたようだな」


「子猫?」


 疑問符を頭上に浮かばせながら、エトワールとヘイルが同じタイミングで首を傾かせた。ヘイルが顔の角度を直し、自分の周囲を見るが、猫などいない。いるのはエトワールだけだ。


「ほんっとお前は冗談が通じないやつだなあ……そこの女の子だよ。お前、年下が好みだったか?」


「ああ……エトのことか。そうだね、紹介しとこう」


 アルバの軽口を完全に無視し、ヘイルはエトワールを指さす。


「彼女はエト。よく分からないけど、旅人みたいなものだよ」


「ほー……俺はアルバだ。よろしくな、エト」


「は、はい。よろしくお願いします。アルバさん」


 ぺこりと頭を下げるエトワール。するとアルバは豪快に笑ってエトワールの頭をがしゃがしゃと撫でる。


「礼儀正しい子だなー」


「アルバさんって、ヘイルさんとお友達なんですか?」


「俺はヘイルの兄貴だ!」


 大きな目を更に大きくして驚き、エトワールはヘイルに向き直る。


「お兄さんがいたのですか……!?」


「違うよエト、そいつは口を開けば八割冗談が飛び出す人間だから、信じないでね」


「えっ、じゃあまさかお名前も冗談!?」


「そこはたった二割の真実」


「ふむ……アルバさんは難しい方なのですね」


 眉を寄せてまじまじとアルバを見つめる。ヘイルとエトワールの会話を聞いていたのかいなかったのか、その顔は会ったときから変わらず笑ったままだ。


「で、ヘイル。うさぎは獲れなかったのか?」


「これから獲るんだよ」


「まあ大丈夫だ、獲れなかったら我が家のパンを分けてやるからなー」


 するとうさぎを担いでいない方の手を振りながら遠ざかっていった。


「えー、っと……」


「彼はパン屋の息子なんだ」


「なるほど」


「多分、この調子じゃ今日はうさぎが見つからずパン屋にお邪魔することになるだろうね」


 ヘイルの視線は獲物を見つけるために細められ、やはり右へ左へと動くが、彼はつまらなそうに長い息を吐いた。


「エト、少し街を見て回るかい?」


「街を、ですか?」


「そう。色々な店があるんだけど――」


 言い終わる前に、エトワールが申し訳なさそうに首を横へ動かした。


「いえ、大丈夫です」


 言ってしまってから断り方が悪かったと思った。


 ヘイルは少し悲しげに、それでも普段どおり微笑んで「そっか」と呟く。


「ご、ごめんなさいヘイルさん……! そんなつもりで言ったのではなく!」


 エトワールは、街をじっくりと歩くことで屠殺部隊の人間に出くわすかもしれないということを恐れていたのだ。もし遭ってしまえば、ジハードのように銀の瞳を見てナイシア族の人間だと気付かれる可能性がある。


 その上、ファラキルスに遭遇する可能性も。


「ああ、気にしなくていいよ。僕はただ、森を見てるだけの君が退屈なんじゃないかって思って提案しただけだから」


 エトワールは口を「え」の形に開いて、しかし言葉は発さずに止まっていた。


 自分はそれほど退屈そうに見えたのだろうか。今の状況は退屈というよりもむしろ――。


「あの、ヘイルさ――」


「街めぐりはいや、か。うーん、ほかに何かいい場所ないかな……あんまり遠くへ行くと銀狼が出て危険だし……」


「私、楽しいですよ?」


「え?」


 そう。エトワールは、この状況を楽しいと感じていた。ただ森にいるだけで、ただうさぎを待っているこの時が、何故だか楽しいのだ。


 エトワールが、無邪気な笑顔をヘイルに向ける。


「どうしてかは分からないんです。でも、楽しいんですよ、私」


「ぼうっとしてることが?」


「ですから、理由は分からないんですよー。楽しいのは事実なんですが……何故でしょうかねー……」


 ふざけたような言い方だが、実際にエトワールは自分の感情に気付いていない。けれど気付きたいからか、続ける。


「なんか、良く分からないんですけど……ヘイルさんのおかげです、多分。あれ……でもどうしてでしょう?」


「いや、僕に聞かれても困るし」


「なんかヘイルさんって、誰かさんみたいなんですよ。心配そうな目で私を見ていて、お節介なところがあって、優しい感じがして――……」


 ああ。


 エトワールは、思いの正体を見つけた。


 彼はクリームヒルトに似ているのだ。だからこそ、もう二度と向けられない彼女のぬくもりに近い彼の優しさが、ぽっかりと胸に空いた穴を埋めてくれていることに心地よさを感じている。


「なにさ、それ。本当に僕のこと言ってる?」


 ――否。『埋めようとしている』のだ。虚しさを、ヘイルという存在で誤魔化そうとしているのだ。


 そう考えると、彼に対し罪悪感を覚えた。


「……ごめんなさい、ヘイルさん」


「は? ほんと、君って変な子だよね。笑顔になったかと思うと突然暗くなってさ」


「ごめん、なさい……」


 申し訳なかった。彼を、自分の心を慰めるためのものとして使っているようで。


 冷たい手が、優しく桃色の頭に置かれた。ヘイルの手は寒さで冷え切っているのに、どこか暖かく感じる。


「なんで君が謝るのか全く分からないよ。つまり、君は僕といると楽しいって言いたかったんだよね?」


「そう、ですけど、そうじゃ……ないような……感じなんです。私、勝手にヘイルさんと他の人を重ねていて、勝手に、その人といるような気分になって勝手に楽しんで……!」


「それは君の思い込みだ」


 珍しく、強い語調だった。


「だってさ、君の目はちゃんと僕を映してる」


「どういう、ことですか……?」


「別の何かと重ねている人は、そこを見ているようで見ていないからね」


 まるで過去にそういうことがあったかのように、彼の言葉はどこか説得力がある。エトワールはどこか暗い蒼い瞳に吸い込まれるように、彼から目を逸らすことができなかった。


「そうやって悪い方向に考えないで、謝る方へ話を持っていかないでさ、もっと普通に考えればいいじゃないか」


「普通に考えた結果ですよ。これが」


「難しいね、君の普通は。僕だったら一言で良い」


 蒼い瞳が、優しく細められる。


「君と一緒にいるだけで、楽しいんだ。……その言葉だけで、いいんだよ」


「……!」


 美しいと言っても過言ではない彼の笑顔を、何故か真正面から見ることが出来ずにエトワールは視線を逸らした。その頬は微かにピンク色に染まっている。


「ヘイルさんは……」


「ん?」


「……恥ずかしいことを、言いますね」


 声はとても小さくて、ヘイルまで届かない。ヘイルは不思議そうに首を傾げるだけだ。


 彼の言った台詞を、エトワールは知っている。言われたことはないが、本で読んだことがある。


 勇気を出して、エトワールは真っ直ぐヘイルを見つめて言った。


「それは、私への告白ですか?」


「? ……――っちが、告白じゃないんだ! 出会って間もない年下の君に告白するほど僕は軽い男じゃない!」


「へ? そうなんですか?」


 早くなっていた心拍が一瞬で正常に戻る。いや、もともと正常だったのかもしれないが、エトワールは早く感じていた。


 途端につまらなそうに口を尖らせる。


「駄目ですよヘイルさん。言葉を選ばないと勘違いさせることになります」


「なに、君は期待したわけ?」


 謝るかと思いきや、からかうように、悪戯をする子供のような笑みを浮かべた。


 腕を組んで彼からぷいと顔を背けるエトワール。


「してません!!」


 言いながら、自分の頭の中で疑問符を浮かばせた。本当に期待をしていなかったのだろうか、と考えたが、本当に期待なんてしていなかったと思う。そう思いたい。


「ま、そんなことはどうでもいいから」


「――どうでもいいんですか!?」


「は?」


 何故か食って掛かってしまった。「なんでもないです」と呟くと、ヘイルが続ける。


「そろそろ街に戻ろう。今日は一匹も狩れなかったってことで、パン屋にお邪魔しよう」


 こくり、と頷くと、歩き始めたヘイルの後に続く。


 足を前に出した直後、木の根につまずいてエトワールはべしゃっと盛大に転んだ。


「いっ……!」


「エト!?」


「……たい、です……」


 体を起こし、泥のついて汚れた服は気にせず、打ち付けた両膝に目をやった。擦った傷口から血が滲んでいた。


「血……」


 血を見ただけで、失神しそうになる。血が駄目ということや痛みのせいということではなく、この色を見ただけで思いだしてしまうあの光景のせいだ。


 銀色を染めていった、この色のせいだ。


「このくらいなら大丈夫だよ」


 ヘイルが腰のポーチから皮製の水筒を取り出し、その水でエトワールの傷口を綺麗に洗う。懐から取り出したハンカチを湿らせ、それを彼女の膝に巻きつけた。


「よし、と。エト?」


「……っは、はい!」


 ようやく、はっとしたように大きな声が上がる。ヘイルはほっとして顔を綻ばせた。


「歩ける?」


「は、はい! 歩けま――」


 急に立ち上がって膝に痛みが走り、すぐにまた座り込んだ。


「……やめとこうか」


 ふうと溜息を吐いて、ヘイルはエトワールを抱え上げた。


「へっ、ヘイルさん!? 下ろしてください!」


「うるさいな。怪我人は怪我人らしく黙ってなよ」


「なんですか怪我人らしく、って!」



          ◆



 そこは、甘いパンの香りで満たされていた。


「わあ……」


 店に入る前にヘイルから降りていたエトワールは、目を輝かせて並べられているパンを右から左へと見ていった。ヘイルの家で食べたパンはただの丸いパンだったが、ここにあるのは様々な形を持っている。


 巻貝のように捻られているパンや、白い粉がかかっている細長いパン、三日月のような形をしたパンなど、どれもエトワールの食欲をそそっていた。


「ほらよ、ヘイル」


 そんなエトワールは放っておいて、ヘイルはアルバからバスケットを受け取る。中に入っているのは、一日分より少し多めのパンだ。


「お前さんがエトかい?」


「っはい!?」


 たくさんのパンに見惚れていたエトワールは、驚きつつも振り返る。優しそうな微笑を浮かべた女性が立っていた。年は四十代くらいだろう。


 彼女はエトワールの薄桃色の頭に手を置いた。その暖かい手のひらは、先ほどのアルバの手を思い出させる。


「あたしはアルバの母親、ベーチェルさ。あいつから聞いたよ。あんた、ヘイルのとこで暮らしてるんだって?」


 なるほど、と納得する。道理でアルバと似ているわけだ。


「は、はい。まだ二日目ですが」


「ヘイル、とっつきにくいだろう? 無愛想でさ」


「いえ、そんなことはありませんよ?」


「だから暮らすんならあたしらみたいなのの方がいいんじゃないかって――……ちょっとまった、なんだって?」


 ベーチェルの目が驚いたように大きくなり、エトワールをまじまじと見ていた。


「ヘイルさんが無愛想だなんて、一度も思いませんでした。よく笑いますし――あ、笑うと素敵なんですよ、ヘイルさんって」


 彼女の驚愕具合を形容しているように、どんどん大きくなる瞳。それを見ているとエトワールは間違ったことを言ったような気分になる。


「ベーチェルさん?」


「……驚いた。なら、あんた相当へイルに気に入られたね」


「そう、なんですか?」


 腕組みをしてうんうんと頷くベーチェル。その姿はどこか貫禄があり、言葉にも説得力がある。


「生まれた時から知ってるあたしにも、アルバにも、あの日以来ヘイルは笑った顔を見せなくなったからね」


「あの日? って、なんですか?」


「……ま、色々あったのさ」


 誤魔化される。彼女が不意に見せた悲しげな顔が、『あの日』が良い日でなかったことを充分に語っていた。気になりはしたが、それ以上は追求しない。


「そうだエト。ヘイルとここで夕食を食べていかないかい?」


「え、いいのですか!?」


 エトワールは当然食いついた。ここで夕食を食べるということは、棚に並べられているパンを口にすることが出来るかもしれないと考えたのだ。


「もちろんさ。大人数で食べたほうが飯ってのは美味くなる。――アルバ! 今日はもう店じまいだよ! ヘイルとエトがせっかく来たんだ、食事にしよう!」


 既に店を出る準備をしていたヘイルが、「おう!」と返事をしたアルバに何故か掴みかかった。


「ど、どういうことだ! 僕はここで食べて行くつもりなんてな――」


「ヘーイルさんっ♪ いいじゃないですか。ここ、たくさんおいしそうなパンがありますし!」


 アルバの胸倉を掴んでいない方の腕にエトワールが飛びついた。ヘイルが彼女に目をやると、よだれを垂らし始めそうなほど幸せそうな顔をしている。


「あの巻き巻きのパン、絶対美味しいですよ……!」


「巻き巻きって、コロネのこと? 仕方ないな。アルバと同席はしたくなかったんだけど……」


「なぜです?」


 アルバから手を離し、ヘイルが理由を言おうと口を開く。が、そのまま少し考えた結果か、小さく笑った。


「一緒に食事をしてみれば分かるよ」






「っあはははははははは……! あっ、アルバさん、もうやめてくださ――あはははっ! っもう、スープ、飲めないじゃないですか……!」


 アルバの席は、テーブルを挟んでエトワールの目の前。そこで彼は、二つ持ったコロネを鼻の下に持って行き、遊んでいた。


「どうだエト! 貫禄のあるひげだろう! はっはっは!」


「っふふ、あははっ……!」


 エトワールが笑っているのは、アルバのしていることが面白いからではない。彼が無意識のうちにしている可笑しな表情のせいだった。


「アルバ、食事中に遊ぶんじゃないよ」


 がんっと、アルバの隣に座るベーチェルが、空になったスープ皿で彼を殴る。とても痛そうな音が響いたが、一瞬目を見張っただけでアルバは遊び続けている。まるで幼い子供のようだ。


 ヘイルはというと、パン屋ゆえに備えられているテラスで食事をしていた。どうしてもアルバと食べたくなかったらしい。


 先ほどの二つのコロネをすぐに食べ終え、アルバは次にクロワッサンを二つ手に取る。


「エト、よーく見ておけよ。これはヘイルも爆笑したヤツだ。いくぞ――」


「やめなって言ってんだろ、馬鹿息子」


 二度目のスープ皿アタック。


 流石に痛かったようで、クロワッサンをテーブルに置いて手で頭を擦っている。


 ようやく、エトワールはスープを飲み干した。


「おいしかったです! ヘイルさんのものも美味しいですけど、ベーチェルさんのも違った美味しさがありました!」


「おや、嬉しいねえ。またいつでも食べにおいで。もちろん、ヘイルも一緒にね」


「はいっ! それと、チョココロネをお持ち帰りしてもよろしいですか?」


 初めて食べたチョコレートの甘さと、パンの甘さが美味しくて、エトワールはチョココロネを好きになったのだ。


 ベーチェルは快くチョココロネをバスケットに入れてくれた。


「二つならいいよ」


「ありがとうございますっ。私、ヘイルさんのところへ行ってきますね!」


 バスケットをテーブルの上に置いたまま、エトワールは木製の扉を開ける。


 冷たい風が吹く外に置かれた椅子に座っている彼は、既に食事を終えていた。建物の壁についている灯火が照らすスープの皿はすでに空になっており、パンの乗っていた器の上にも何ものっていない。


「ヘイルさんっ、なにしてるんですか?」


 振り向いた彼の蒼い瞳が、なぜか綺麗だなと思った。何度も見ているはずなのに、今更。


 柔らかな風になびく彼の金色の髪は、夜だからか輝いて見える。


「別に何もしていないよ。月を見ていただけさ」


「月、ですか?」


「そう。好きなんだ。真っ暗な空の中で一際輝いているあれが」


 そう言って空を見上げたヘイルの顔は、笑う。会ってから見た彼の笑顔の中で、一番綺麗な笑顔だとエトワールは思った。彼には失礼かもしれないが、月よりも彼の微笑みの方に目が行ってしまう。


 無邪気な子供のように、目を煌々とさせて月を指さす。


「見て、エト。明日は満月かな」


「満月って、まん丸の月のことですよね? もうまん丸に見えますけど……」


「いや。まだだよ。少しだけ欠けている」


 目を凝らしてみるが、やはりエトワールの目にはまん丸に見える。小さく首をかしげた彼女の方を見もせずに、ヘイルの双眸は月だけを映していた。


「太陽は僕らをはっきりと照らしてくれるけど、月はそうじゃない。それでも、輝いているんだ。闇の中じゃなきゃ分からない控え目な輝きを持ってる。だから僕は、好きなんだ」


「良く分からないのですが……」


 ようやく、ヘイルの目が月から離れた。しっかりとエトワールを映すと、やはり微笑む。月ではなくヘイルを見ているのに、なぜかエトワールは、月を見ているような感覚に陥った。


「眩しすぎる光よりも、陰でうっすらと輝く光の方が好きなんだよ、僕は」


「……私も、月、好きかもしれません」


「でも君は太陽の方が似合ってるかな」


 きょとん、とする。


 ヘイルに言われた「似合っている」という意味が分からず、エトワールは目を丸くして彼の続きを待ってみた。


「だって君は、無遠慮に人の心に踏み込んでくるからさ」


「悪口ですか、それ」


「いや。違うよ」


 嘘だ。そう思って口元を歪めたエトワールの頬に、ヘイルが触れた。


 外にいたせいか氷のように冷たい手が、両頬を包み込んで熱を取っていく。それを嫌だと思わない自分がいて、エトワールは不思議そうに「あれ?」という顔を浮かべた。


「僕に君は眩しすぎるかな、ってこと」


 どこか悲しそうに言った直後、ヘイルはエトワールの頬をつまんで左右に伸ばす。


「はっ、はにふるんへふか!」


 おかしなエトワールの言葉を聞くと小さく噴き出して、ヘイルは手を離した。そうして、皿を持って木の扉の方へ歩いていった。


「さ、エト。そろそろ帰ろう」


 ぼうっとしている彼女に「先に行くよ」と一言言い置いてから室内へ入っていく。


 残されたエトワールは、頬に残る彼の手の温度を、自分の手で確かめるようにそこに触れた。


(……無遠慮に人の心に踏み込む、なんて、違いますよ)


 彼の言葉は、エトワールの心にしみこんでいた。


(だってあなたは、暗い顔をしても……そのたびに誤魔化すようにふざける。私に、踏み込んでくるなと言わんばかりに……)


 自分まで暗くなってしまっていることに気付いたエトワールは、ぱしぱしっと自身の頬を叩いて気を取り直す。


 彼の後を追うように、暖かく甘い香りが溢れる室内へと入っていった。

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