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そして赤く染まり行く  作者: 藍染三月
第七章 王城編
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第二十九話 寵愛

「おいおい、物騒な嬢ちゃんだな。けど止めときな。こちとらただの一般人じゃねぇんだ」


 男は短剣の切っ先を自身の首元に向ける。彼のシャツの襟で、銀色のバッジが煌く。狼が剣で貫かれているようなデザインに、カルトの瞳が細められた。


「か、カルトさん! 私、この人の声……知っている気がします!」


 男に追撃を試みようとしたカルトは、手足を止める。しかしそれは一瞬のことで、カルトはもう一度足を踏み出していた。


 先ほどよりも距離を詰め、男の右目を貫かんとする刃を、彼は顔を後ろへ逸らして避けた。僅かに切られた茶髪が視界で舞い、彼の顔に苦笑が浮かぶ。


「ただの娘にしちゃあ肝が据わってんな。屠殺部隊でも人間相手の顔面狙える奴は多くねぇぞ」


「仕方ないでしょ。いつあんたがその子を盾にするか分かったもんじゃないんだから」


 空気を切るように斜めに刃を払い、細剣の切っ先が地面に向けられる。数歩後退したカルトに、男はひたすら笑った。


「なるほどな。なら逆か。この箱入り娘が盾にされた時にすぐ剣を引っ込められる自信も、こいつにかすり傷を負わせてでも俺を倒してみせる覚悟もねぇんだろ。敵を殺す度胸はあっても、敵じゃねぇ奴を傷付ける覚悟がねぇなら、あんたにゃ戦場は向いてねぇよ」


「そうかもしれないわね。あたしは、流れ弾で仲間を撃ち殺してしまうような戦争なんてクソ食らえって思ってるもの。けど人攫いや人殺しを野放しにする、正義感に欠けたような奴らも嫌いよ。あたしはあたしの正義であんたを――」


「ジハード、さん、ですよね……?」


 カルトと男の会話は、箱入り娘と呼ばれてからエトワールの耳に入っていなかった。どこかで誰かに呼ばれた呼称だ、と考えに考えてようやく思い出せた男の名前を紡いだ声は、自信が欠けている。声でしか判断できないということも勿論あるが、エトワールの記憶には曖昧にしか彼の名前が残っていなかったからだ。


 男――ジハードは、彼女にその名を呼ばれて戸惑った。いや、名を呼んだ、つまりは思い出したにもかかわらず、彼女がジハードの手を振り解こうとすることをやめたことに動揺を示していた。


 妙な雰囲気が漂い始めた路地の中で、カルトだけが状況を一切掴めないまま、構えた細剣を如何すべきか、一人固まっていた。


 ジハードが何かを言う前に、エトワールが彼の腕にしがみつく。


「ジハードさん……ジハードさんなんですよね! ファラさんが! 今ファラさんが大変なんです!」


「はぁ? ファラって……ファラキルスか? お前今ファラキルスと一緒にいんのか? ってそういうわけじゃなさそうだな。あいつは今どうしてんだ?」


「それが……」


「ジハード!?」


 声が響いたのは、カルトの後方からだ。彼女が振り向けば、そこには、ジエロとセスが立っていた。


 目を瞠っていたジエロの手には、カルトが落として行った鞘が握られている。きょとんとした顔でジハードを見つめていた彼は、はっとしたようにフードを被ろうとして、しかしその前に、ジハードがかつての名を叫んだ。


「レド!? なんでお前ここに……ってか生きてたのかよ!? どうなってんだこりゃ……なんでお前までこの桃色頭と一緒に……」


「どうなってんの、って台詞はあたしが言いたいわよ。あんた、その短剣仕舞いなさい。そうしたらあたしも剣を収めるから。それで、ひとまず宿に行って話を整理しましょう。いい?」


 不満げに歪めた唇から舌打ちを漏らし、ジハードは渋々といった様子で短剣を腰のホルダーに突っ込んだ。彼の手が柄から離れたのを見届けると、ジエロから鞘を受け取ったカルトも細剣を収める。


 それでもカルトの視線は未だに鋭さを隠さず、ジハードを突き刺すように一瞥した後、彼の傍を通り過ぎてエトワールの手首を掴んだ。


「行くわよ」


「は、はいっ!」


 不機嫌を露わにした声色に慌てて足を動かしたエトワールへ、カルトは嘆息を零す。苛立ちを向けたい相手は彼女ではない。


 覚悟がない。ジハードにそう言われた時、カルトは沈黙を挟むことなく言葉を続けた。彼女自身、今となっては咄嗟に口にした言葉がどんなものであったか覚えていない。


 動揺を見せては、その言葉に足を止められるような気がした。この先進んで行けないような、自身の弱さに足を縫い止められるような錯覚が、彼の声を聞いている間のカルトの手足を震わせていた。


 宿へ向かう自身の足を翡翠の瞳で見下ろす。耳にこびり付いているジハードの言葉を振り払うように首を振り、正面を見据え直した。


          ◆


「申し訳ありません。地図をお渡しすることは出来ないそうです」


 ルクスにとってそのメイドの報告は予想していたものだった。上質なベッドに寝転びながら、メイドに背を向けて、陽の光が差し込むカーテンの隙間を眺める。


「そっか」


「城内の地図を貴方様に渡して構わないでしょうか、とカルネージ様に尋ねた際、同席していたクラティア様から、後ほどこちらに伺うとの言伝を預かりました」


「は……?」


 つまらなさそうに細められていたルクスの瞳が、大きく開かれる。勢いよく上半身を起こすと、廊下に繋がる扉を背にして立っているメイドを、鋭く睨みつけた。表情一つ変えない彼女に、研がれた刃の切っ先に似た低声を突き立てる。


「あんた、カルネージにどう問いかけて、どういう話の流れで僕に関することを口にしたか、一言一句違えずに言ってみろ」


「かしこまりました。私の記憶が間違っていなければ、私はまず『城内の地図を彼にお渡ししても構わないでしょうか』と尋ねました。カルネージ様が『彼とは誰のことだ』と眉を寄せていましたので『私が現在監視を任されている、銀の髪に紫の瞳をした男性のことです』と説明をしました」


「……あぁ、まあ、そうか。銀髪って珍しいもんな」


 ベッドから足だけを下ろし、床へ向かって垂れるシーツを握り締める。皺を作るほど強い力が込められた両手は震えていた。歪んだ唇から乾いた音が漏れ出て、自身が舌を打ったことに気付くと、ルクスは苦笑する。


 クラティア・ロミー・ストラエディスト。第二王女である彼女の噂については、ルクスでも耳にしたことがあるくらい世間に広まっていた。といっても噂話が原型を留めたまま広まることはなく、内容の詳細は街によって異なっている。魔術や呪術など怪しいものに没頭しているという話や、血液嗜好症ヘマトフィリアであるというもの、奇病等により普通とは異なる外見をしている人間を殺している、という物騒なものまで含まれている。


 なんとか笑みを象るルクスの唇は、それでも震えて歪みそうになる。嘆声を吐き出してから、メイドの様子を伺う。直立したままルクスだけを見つめる彼女に背を向け、ベッドと窓の間に置かれている木製の小棚の上の、膨らんだ巾着に指を伸ばした。


 そこに置かれるまではルクスの腰のベルトに括り付けられていた巾着の中で、小さな毛玉が蠢く。兎のものと似ている長めの耳を持つ鼠は、灰色の毛を巾着の口から覗かせ、黒く円らな瞳でルクスを正視した。前足を伸ばして妙な動きを始めた鼠が、何かを伝えようとしていることに、ルクスはすぐに気が付く。


 しかし、エトワールを交えて長々と話し合う時間を設けられないまま王城に来てしまっている為、鼠が伝えたがっていることを、ルクスはすぐに汲んでやることが出来ない。


 ファラキルスが脱獄をする時はこのように手を動かす、など、そういったことを話す時間があって欲しかった、と唇を噛み締めても、口内に血の味が広がるだけだ。


 鼠に文字を書かせるという手段を考えてみるものの、脳内に浮かんだそれをすぐに払った。文字の読み書きが出来るほど知能の高い動物は、ルクスの知っている限り銀狼くらいだ。鼠に紙とペンを渡した所で、意味はないだろう。それに、まだ脱獄をすると決めたわけではないのなら、連絡を取り合っていることを示唆する紙などを残してはいけない。


 そこまで考えてから、ルクスは右手の指先で、鼠の鼻を軽くつついて、とても小さく呟いた。


「出るのか?」


「? 何か御用でしょうか?」


 背中にメイドの声が降りかかっても、ルクスが見据えるのは鼠だけだ。小さな鼻の上に指を置いて縦に動かし、今度は鼻を摘んで左右に動かしてみる。彼がそんなことをしていることに、メイドは気が付いていないのだろう。メイドは無言のまま、ルクスの返答を待っていた。


「出るのか?」


「それは何についての質問でしょうか?」


 ルクスの問いに、鼠が身体を左右に揺らす。それを見てから、ルクスは鼠が何を伝えたがっているのか、ファラキルスのことを思い浮かべながら思考を巡らせた。彼ならなにを伝えようとするだろう。それに対する答えになんとか見当を付けてみる。


「食事の話だよ。流石に僕も人間だから、なんか食わねぇと腹減るんだけど」


 そこまで言ってから、鼠の鼻を軽く弾いて、メイドが何かを言う前に続けた。


「出るかどうかは僕次第だったりすんのか?」


「申し訳ありません。食事については何もお聞きしていません。少々お待ち下さい」


 鼠が頭を上下に動かす。その反応を見てから顎に手を添えた。そんな彼の背後で、扉が開いて閉じられた音を立てる。ちらと室内を振り仰いでから、鼠に視線を戻す。


「ファラキルスに伝えてくれ。脱獄するなら早い方が良い。こっちは得たい物を得られなかったから、今夜にでも――」


 鼠が何度も頷く姿を見ながら、周囲を警戒して小さな声で続けていたが、扉が勢いよく開かれた音に肩を跳ね上がらせ、息と声を飲み込んで振り返った。


 そこに立っていたのは、黒く小さな少女だ。身長からして年齢はそれほど幼くはない。しかし大きなぬいぐるみを抱きしめている彼女の顔の作りは幼い。不健康にも見えるほど真っ白な肌が、ドレスとヘッドドレスの黒さにより際立っていた。高い位置で二つに結われた長い金の髪を揺らして、ルクスに数歩近付いた彼女は、とても嬉しそうに可愛らしい顔を綻ばせた。


「やっぱりスィスだぁっ! ロミーね、スィスにずぅーっと会いたかったの」


 十を超えてからはミドルネームとなった幼名を、一人称として使う彼女――クラティアに、ルクスは嫌悪感を露わにしていた。明らかな敵意と殺意を向けられてもなお、継ぎ接ぎだらけの兎を両手でぎゅっと抱きしめる彼女は笑顔のまま、ルクスのベッドのすぐ傍まで近付いて、ようやく足を止める。金属音が耳に届いて、ルクスが彼女を警戒しつつ腰のベルトに手を伸ばす。


「大好きだったんだよ? スィスがいなくなっちゃってからは、オトモダチを買うのやめちゃったくらいだもん。オトモダチを買ってたのがお父様にバレて怒られちゃったし」


「あんた、よく僕の前に顔出しに来れたな」


「サンクもセットも、つまらないから壊しちゃったの。やっぱりスィスが一番綺麗で、一番好き」


「僕があんたを殺すかもしれないって考えなかったのかよ」


「だからね、カミラが銀の髪に紫の目の男の人って言った時から、スィスのことで頭が一杯になって、すぐにでも会いに来たかったの」


「会話、してくんねぇかな」


 苛立ちを止まらせることは出来ず、ルクスは分離した鋏を一つ素早く抜いて彼女の眼前に突き付けた。一秒にも満たない短い間の中で、その鋏は室内の灯りで煌きながら床へ落ちる。


 クラティアは左腕で兎を抱え、右手で小さなナイフを握り締めていた。その右手を、彼女は兎の背に突っ込む。中にはまだ何かしらの武器が入っているようで、ぬいぐるみは金属音を立てた。


「もうっ、会話なんてロミーの話を聞いてからにしてよ。何年も会ってないんだもの、ロミーはスィスに話したいことがたっくさんあるの」


「そうかよ。ってかそのスィスって呼び方やめろ。僕にはもう名前がある」


「スィスは、ロミーがスィスに付けた名前だよ?」


「どっかの国の数字って言ってたよな。そんなん名前じゃねぇ。僕はルクスだ」


「やだ。あなたはスィスなの」


「違――」


 否定の言葉は途切れる。派手な音を立てながら兎のぬいぐるみが床に落ちた。銀色の大きなペンチを両手で開いて、挟むようにルクスの首へ押し付ける。


「駄目だよ、聞き分けのないこと言ったら」


「……僕を殺していいのかよ。あんた、さっきカルネージ王子と一緒に居たんだろ? 僕を殺したら、そのカルネージ王子に叱られるかもしれないぜ?」


「なにを言っているの? ロミーはスィスを殺したりなんかしないよ? カルネージ兄様とはたまたま朝食の時間が重なっただけなの。ロミーは兄様より、スィスの方が好きだから」


 純粋な子供が浮かべるような満面の笑みを顔中に広げると、クラティアは白く小さな両手を頬に添えて、可愛らしく頭を傾けてみせる。そんな明るい笑顔を向けられているルクスの顔は苦痛で歪んだ。彼女の両手から落ちた鉄製のペンチはルクスの爪先を打ってから床に転がる。悲鳴を堪えるように奥歯をぎりと鳴らしたルクスは、息が掛かるほどの距離まで近寄って来た彼女を鋭い目付きで貫き、嘲笑するように短く息を吹き出した。


「僕はもうあんたのオトモダチじゃねぇんだよ。殺すぞ」


「ふふっ……あはは……! スィス。スィスだけなの。ロミーを真っ直ぐに見てくれて、真っ直ぐなキモチを向けてくれる人。だからね、ロミーは」


 部屋の隅に置かれた柱時計の鐘が、正午を告げる。愛おしむようにルクスを見つめていた藍の双眸が、はっと見開かれた。慌ててぬいぐるみを抱き上げペンチを手にし、ルクスに背を向けたが、クラティアは名残惜しそうな顔だけを振り向かせた。


「お母様のお部屋に食事を持って行かなきゃいけないの。だから、ちょっと待っててね。また来るからっ」


 小走りで部屋を出て行った彼女に、もう来るなという意を込めて溜息を吐き出す。何故王女である彼女が王妃に食事を運ぶのか疑問に思いながらも、ルクスはすぐに鼠のもとへ駆け寄った。


「なあ、さっきの、伝えてくれたか? 今夜にでも動くって」


 鼠は頭を縦に動かした。それを見てほっとしたのは僅かな間だけだ。先ほどのクラティアのことを思い出し、ルクスは今すぐにでも王城を出て行きたい気持ちに駆られる。それをなんとか堪え、冷静に、自身に言い聞かせるように頭を回す。


 以前城に居たことのあるルクスは、一部だけだが城内の構造を知っている。それも、クラティアが両親や兄姉に隠れ、使用人を介して奴隷を買っていた為、初めて城に連れて来られた入り口が裏口だった。


 ファラキルスのいる牢を見つけ、合流さえ出来れば、二人揃って脱走することが出来る。自身の勘がよく当たることを想起して、ルクスは微笑した。


          ◆



 ナイシア族の、動物の声を聞くことが出来る能力を得られる薬。それが入れられた試験管に、透明の液体を零す。その液体は、数種類の薬草から作られた薬だ。


 研究室の椅子に腰掛けて、数歩離れた位置で液体を混ぜるハーミットを見ながら、ファラキルスはぽつりと呟く。


「俺の血を混ぜたりするわけではないんだな」


 透明なまま色を変えることのない薬を瞳に映して、ファラキルスが思い起こしているのはカルネージの言葉だ。彼は、ファラキルスの血液を薬に混ぜてみるつもりだと言っていた。昨日ハーミットに血液を採られたのはそうして利用する為だと考えていたため、血液を加える様子がないことに疑問を抱いたのだ。


 とても小さな独り言はどうやら彼女に届いており、僅かな間の後、笑みを含んだ声音が静かに落ちる。


「初めはそうしようと思っていたのですけれど、薬品と混ぜた結果、あなたの血液はただの人間の血液でしたわ。それを薬に混ぜても何の反応も起きないでしょう」


「どういうことだ?」


 ナイシア族も、種族は違えど流れている血は同じだろう。ファラキルスがそこを不思議に思ったことに、ハーミットはすぐ気付いたようだ。掻き混ぜる手を止めて歩き出し、棚の戸を開け、中から赤い液体の入った試験管と透明な液体の入ったビーカーを取り出す。


「この透明な薬品は、昨日あなたの血液を混ぜた際に緑色に変わったものですわ」


「普通の人間の血液を混ぜると緑に変わるのか?」


「いいえ。血液を混ぜると赤になるんですの。緑に変わったのは、あなたが体内に毒を含んでいるからですわ。毒が何かは説明しなくても分かりますわよね?」


 ハーミットが言っているそれは、例の薬のことだ。そう判断し、ファラキルスは首肯した。椅子に腰掛けたままの彼の目の前の机上に、ハーミットはビーカーを置いた。


「ナイシア族の血液を混ぜる際に注目してもらいたいのは色じゃありませんの」


 試験管を軽く振り、赤い液体をビーカーの中へ数滴零していく。ファラキルスはビーカーを凝視した。血の色に染まった液体に、小さな泡のようなものが点々と浮かんでいる。


「……これはなんだ?」


「ナイシア族の血液には、普通の人間にはない血球が含まれていますわ。それとこの薬品が結びついて、時間をかけて少しずつ固まっていきますのよ」


 小さな泡同士が接触して、大きな泡となる。丸い宝石に似たそれの様子を興味深そうに観察しているファラキルスを置いて、ハーミットは先ほど掻き混ぜていた薬品の前に戻った。


 暫くビーカーに見入っていたファラキルスだが、少しして視線を彷徨わせる。それからもう一度ビーカーを見て手に取り、軽く振ってみたりしていた。それでも手持ち無沙汰なことは変わらず、無言のまま、動くこともやめて置物のようにビーカーだけを見つめる。


「そういえばあなた、あの薬の効果を万能薬か何かで和らげましたの?」


 僅かに笑みを孕んだ声ではあったものの、ファラキルスを一瞥した眼差しは真剣そのものだった。それを受けて、ファラキルスは小さく頷く。


「紅玉草というものに救われたらしい」


「紅玉草……とても珍しい薬草ですわね。今製薬しているものにどんな薬草を混ぜても上手く毒性を和らげることは出来ませんでしたが……確かに紅玉草なら、奇跡が起こるかも知れませんわ。けれど、あれほど珍しい薬草を大量に入手するのは困難……困りましたわね……あの薬草の成分を研究して薬を作るにしても、まず一本でも採取しなければなりませんわ…」


 小さな声でぶつぶつと独り言ち、顔を顰める。そんなハーミットの顔色はファラキルスには見えず、彼は何も気にせずハーミットの思考を遮った。


「貴方の母親は薬剤師だったのか?」


 ガラス棒で液体を混ぜていた手を止め、ハーミットは小さく息を吐きながら、薬を背にして真っ直ぐに彼を見る。


「違いますわ」


「そうか。親がそうだったから製薬を始めたのではないか、と思ったのだが」


「そう、ですわね。わたくしに薬の知識があれば、お母様を救えましたのに、という後悔が、初めて薬草について調べた動機ですわ」


 声以外の音は響かない室内で、笑うべく零された吐息がふっと溶けた。ハーミットは唇で弧を描き、首を傾ける。


「わたくしと仲良くなりたいんですの?」


「何処から何をどう汲んでそんな質問をしている?」


「お互いの過去を話し合うというのは、お互いに心を開くことでしょう? その人にとって話す出来事が大きければ大きいほど、心の開き具合が変わる……違いますの?」


「……貴方の製薬についての動機は暇潰し程度に問いかけたが、それ以上踏み込む気も昔話をするつもりもない」


 迷いなく言い切ってみせたファラキルスの瞳の中で、ハーミットの笑みがどこか哀愁を漂わせる形に崩れて物足りなさを訴える。それを感取しているのかいないのか、ファラキルスは目付きの鋭さをそのままにして視線を逸らした。


 それを彼の言葉の終わりとして受け取ったハーミットが、横たわろうとした沈黙を即座に取り去る。


「わたくし、話し相手と言える話し相手が今までほとんどいなかったんですの。ですから今日、採血をするわけではないのにあなたを牢から出したのは、わたくしの話し相手になってもらう為ですわ。あなただって、一人で薄暗い牢の中にずっといても、退屈でしょう?」


「俺は別に気にしないが……」


「あら、そうでしたの? でもわたくしは、昨日あなたと話して、もっと話してみたいと思いましたわ」


 彼女に向けられる興味の視線に、黒い感情は何一つ込められていない。それどころか好意に似た響きを伴う音吐に、ファラキルスの唇が動かされる。


「……俺が屠殺部隊にいるのは、妹を殺した銀狼を殺し尽くす為だった。だが、ナイシア族の少女と出会い、銀狼に一度命を救われ……自分が何をしたいのか、よく分からなくなった。今は革……――ナイシア族の少女が、笑っていられる場所を作ってやりたいと、思っている」


 ファラキルスが口にしたことは、本心の一部分に過ぎない。国や王家の者を正しいとは思わない、革命を起こす、などといった内容のことはハーミットに話すわけにはいかない為、喉の奥へと追いやった。


 自身が揺らいでいることを吐き出したのは、彼女に対してが初めてかもしれない。そう思ってから、それは彼女が初対面同然の相手だからだろうかと悩んでいると、ハーミットが問いかけてくる。


「銀狼を絶滅させるのは間違っているかもしれない、と思ったんですの?」


「……銀狼を狩ることを間違っているとは思わない。だが、共存する未来を選択することも出来るはずだ。『銀狼に喰われたらどうするんだ』と共存を批判する声には、『人を殺す人間がいるように、人間も狼も大差ない』と言ってやることも、出来るはずだ」


「確かに、そうですわね。心に狼を飼っている人間だって、きっと両の手で数え切れないくらいいると思いますわ。あなたの考えも正しいのでしょうけれど、人を食らう危険性のある銀狼を排除すべき、という国王の考えも国民の立場で見てみれば間違ってはいませんわ。殺人鬼と同じ容姿をした沢山の人間が、凶器を見せびらかせながら街を歩いている――そう考えたら恐ろしくなりません? いつ殺人衝動に駆られて首を噛み千切られるか分からない相手と、同じ場で笑って暮らして行くことが出来ますの? 銀狼の機嫌を損ねてしまったとしても、わたくし達ではそれを汲み取ってやることすら出来ないんですのよ?」


 そこまで言ってから、いきなり黙り込む。ハーミットは虹彩を左右に動かしてから俯き「ごめんなさい」という小さな謝罪を落とした。


 難しそうな顔で顎に手を添え考え込もうとしていたファラキルスに「謝る必要はない」と言われた後、ハーミットは蔓延った仄暗い空気を払うよう、朗々と語り出す。


「ファラキルスさんのお話、興味深かったですわ。次はわたくしの話の続きをしますわね。わたくしの母は、王都の布屋で働いていましたわ。上質な布を買うために何人かの商人を王城に招いたお父様が、その中にいた母のことを気に入って愛人にしたそうですの」


 ハーミットの金色の瞳は天井を見つめる。遠くを見ているような目は、きっとその時の情景を想像してみているのだろう。実際に見たわけではない過去を振り返ろうとしても、鮮明には映像を思い浮かべられない。ハーミットは白い天井にひたすら思い出話を視線で描く。


「王妃様はとてもお優しい方でしたから、お母様をお城に住まわせて下さいました。それからわたくしが生まれて、わたくしがまだ十歳にもならない時に、お母様は使用人に毒殺されましたわ。平民だった母が、王妃様と同じように扱われているのをよく思わなかったそうですわよ」


「……貴方が先ほど言っていたのは、そういうことか」


 先ほど彼女が述べた、初めて薬草について調べた時の動機。それと今の話を重ね合わせれば、彼女の後悔の色が見えてくる。


 ファラキルスに小さく頷いてから、ハーミットは白衣から懐中時計を取り出し、廊下に繋がる扉の方へと歩を進めた。


「昼食、持って来ますわね」

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