第一話 あかいあかい夢のような
エトワールが怯えていることに、少年は気が付いていた。
彼にはエトワールを撃つ気など全くなく、先ほどの「撃つ」という発言はただの脅しだ。殺意を向けてすらいない。それでも彼女が怯えるのは、その冷たい瞳とクリームヒルトを撃ち抜いた武器が向けられているせいだろう。
怖がっているはずなのに、エトワールは一歩も退く様子を見せなかった。かと言って前に出るわけでもない。その場から一歩も動かないのは、怒りと恐れが足を固めてしまっているからだ。
少年が目を鋭く細めてエトワールを見つめると、それに怯えた彼女は小さく体を震わせた。唇までもが震えて、うまく言葉を紡がせてくれない。
「ぶ、武器を、下ろして下さい。私も、ジークフリートも何もしません。だから……!」
「ナイシア族の者、か」
すっ、と彼は銃を下ろした。それを視認した直後、エトワールは懐から果物ナイフを取り出して彼の方へ駆け出す。胸の奥から湧き上がる激情に突き動かされたエトワールの頭には、躊躇の文字がない。
「クリームヒルトの仇……っ!」
刃に貫かれる前に、彼はひらりとそれをかわしてみせた。ナイフを持っているエトワールの細い腕を掴んで捻りあげる。持っていたナイフは手から落ち、地面に突き刺さった。
「っう……!」
腕に走る痛みに、声が漏れる。彼女を助ける為にジークフリートが飛び掛かるが、少年は無表情のまま蹴り飛ばした。ジークフリートは短く鳴くと、地面に転がって綺麗な毛並みに泥を付けていった。
「ジークフリート!」
「ナイシア族は殺さず本部へ連行しろと言われている。来てもらうぞ」
少年はロングコートのポケットから縄を取り出し、素早くエトワールの両手首を縛る。そうして逃げられないよう、その縄の余りをしっかりと握った。彼はそれを引いて歩き出す。
倒れているジークフリートは気を失っているのか、連れて行かれるエトワールを追っては来なかった。生きているのかどうか心配になるほど、動きを見せてはくれない。
「……ジークフリートが、クリームヒルトが……何をしたというのですか」
弱々しく、今にも泣きそうな声。少年はそれを無視して歩いて行った。
森を抜けた先にある街の建物に入ってすぐ、少年はエトワールを一人の男の前に立たせた。
室内の左右には本棚があり、男が座っている椅子と、その前に横長のテーブルが置かれているだけ。つまり、この男の部屋なのだろう。来客用の椅子などは用意されていない。
「ファラキルス、そいつは?」
「ナイシア族の者のようだ」
ファラキルスと呼ばれた少年に言われて、男はエトワールをじっと見つめた。仏頂面の彼女の、銀色の瞳。それを目に留めると、男は小さく頷く。
「確かに、そうみたいだな」
「……なんなのですか……私の大切な友達を殺した挙句、今度は私を売りにでも出すつもりですか!?」
「ジハード、彼女はお前に任せたぞ。俺は銀狼狩りに戻る」
取り乱すエトワールを放置して、ファラキルスは扉を開けて外へ行ってしまう。追おうとした彼女の縄をジハードという男が引っ張った。突然加えられた力の強さに、転びそうになる。
「ま、落ち着け。別に危害を加えようってわけじゃないんだ」
「あの男は危害を加えました! 私の友達に!」
「まさか。あいつは人を撃つような奴じゃない」
「私の友達は……ジークフリートとクリームヒルトは銀狼です!」
怒鳴るように言ったエトワールを、ジハードは驚いたように見て、すぐに笑い声を漏らす。苛立って文句を言おうとしたエトワールが開口する前に、彼が笑い声を大きくした。
それをとても不愉快に思って、エトワールは口をへの字に曲げた。不愉快、という思いを顔全体で表す。
「銀狼と友達だって!? さすが、動物と会話が出来るナイシア族は言うことが違うなあ! はははっ……危険な動物と友達、か!」
「危険? 彼らのどこが危険だと言うのですか!」
すっとエトワールに近寄った彼の笑っていた顔が、急に真顔になる。どこか気だるげだった目が鋭く細められて、エトワールはつい息を呑んだ。
「銀狼のせいで何人の犠牲者が出たか……正確には知らなくても大体は分かるだろ? あいつらがこれほど人間を食わなければ、王も絶滅させろなんて命令を出さなかっただろうしな」
「犠牲者? 絶滅させる……?」
彼の言っていることが何も分からず、小さく首をかしげた。その動作で、エトワールの薄い桃色の長髪がさらさらと揺れる。
ずっと森で生活していて外のことを詳しく知らないエトワールにとって、彼の言っていることは全て初めて聞くことだったのだ。自分だけではなにも理解できずに、眉を寄せた。
「……詳しく、聞かせてもらえませんか?」
「あ……?」
ジハードは、エトワールが今の話を知っていると思っていたようだ。そんな彼に視線を送り続けていると、彼は口元を歪めて舌を打った。
「箱入り娘って奴か……面倒くせえな……」
溜息を落としながらも、ジハードは話し始めた。
彼の語った内容をまとめると、こうなる。
数年前に大量発生した銀狼による被害が、大幅に増えているのだ。怪我人だけではなく、死者も多数いる。この国――エーデルシュタイン王国の国王がこれを放ってはおけないと判断し、国中の若い男に試験を受けさせ、銀狼を絶滅させる部隊『屠殺部隊』を結成させた。
その直後、ナイシア族は国に反発して戦闘部隊を作った。国は銀狼狩りにナイシア族が邪魔だと判断し、見つけ次第捕らえろとの命令を下したそうだ。
黙って聞いていたエトワールは、話しがひと段落した所でようやく口を開く。
「ということは私、当分ここから出られない……ということですか」
「捕らえた奴をいつ解放して良いかは王に聞いてないからな。多分狩りが終わるまでだと思うぜ? ま、さっきも言ったように危害は加えねえよ」
「……」
「とりあえずこっちに来い」
縄を引っ張られて、またエトワールは転びかける。すぐに体勢を立て直して彼に続いた。部屋の外に出て、白くてつるつるした廊下を進む。薄暗い下り階段に一歩踏み込んだ時点で、エトワールは嫌な予感がしていた。
階段を下っていくと、そこは牢屋だった。けれど捕らわれている人は、一人もいない。
「ナイシア族を捕らえたら牢に入れとけって言われてんだ。んで、国王に連絡してそのうちお迎えが来る」
「迎え……?」
「ここじゃなくて王宮の牢屋に移動するんだ」
「――それは嫌です!!」
エトワールの怒声に近い叫びが響いて、ジハードはつい耳を塞ぎかけた。そんな彼に詰め寄って、エトワールは続ける。
「ここにいればさっきの男も来るんでしょう!? もう一度彼に遭うまでは……ここを離れるつもりはありません!」
「……相当ファラキルスが気に入ったみてぇだな」
「違います! 気に入ってなどいませんよあんな人でなし! 私は友達の復讐を……いえ、なんでもないです」
ファラキルスに復讐をしようとしているなど、彼の仲間であるジハードに言うべきではないと思い、エトワールは口を閉ざした。
エトワールが黙り始めると、ジハードは懐から時計を取り出した。すこし何かを考えて、彼女に目を向ける。
「夜から朝の間には戻ってくるはずだぜ。帰ってきたらここに行くよう伝えといてやるよ。だから大人しくしてな」
にっこり笑ったジハードがエトワールを檻の中へ押し込む。戸惑いつつも抵抗する彼女が中に入ったことを確認すると、素早く鉄格子の扉を閉めて鍵をかけた。笑っている彼は悪魔のようだ。
「だ……出してください! 逃げたりしませんから! 大人しくしますからここから出してくださいよー!!」
エトワールの声に、返ってくる言葉はなかった。それでも出せと騒いでいたが、少しして無駄だと理解すると、冷たく埃っぽい牢の中で彼女は座り込む。
赤い膝丈のスカートがふんわりと広がって、床の埃をくっつけた。
「夜から朝……長いですよ……」
床が綺麗じゃないことなど気にもせず、彼女は横たわった。そうして、目を閉じた。
◇
目の前に広がるのは、いつも通りの森の中。目の前を走っていくのは、見慣れた銀色の毛並み。
ジークフリートとクリームヒルトが、エトワールよりも少し先に進んでから振り返る。
ちゃんとついて来てる? 少し早く走ってしまったかな? そう問いかけるように、彼女を心配そうに見つめた。
木でできたかごを持って、彼女は待っていてくれた二匹に追いつくと彼らの頭を撫でる。優しく、愛おしむように。
いつものように森を歩いて、いつものように木の実を摘んで。家に帰って食事の準備。
ふと振り返ると、そこには二匹が――いない。いつも通りなら、いるはずなのに。
エトワールは慌てて外へ飛び出した。
胸騒ぎがして二匹の名を叫んだ。
そうして目に飛び込んだのは、銀色を染めていく赤。
震えながら、彼女は二匹に駆け寄って泣き叫ぶ。
◇
「――っ!?」
がばっと飛び起きて、エトワールは乱れている呼吸を落ち着かせる。
「……夢……」
つい、独り言をこぼした。目覚めたばかりの頭でも、よく働くものだ。夢の光景が夢であることも、しかし実際にもう二匹が傍にいないことも、すぐに理解してしまう。いっそ夢の中だけなら、どれほど救われただろうか。
ふと牢の外へと目をやった。綺麗な白金の髪が、彼女の視線を釘付けにした。
彼は視線を受けて、ようやくエトワールが目を覚ましたことに気がついたようだ。
「あなたは……!」
「何故冷静さを失う? 俺をここに呼んだのは貴方だろう。来ることは分かっていたはずだ」
エトワールの牢の向かいにある鉄格子に預けていた背を離すと、ファラキルスは立ち上がった彼女に氷のような冷たい視線を送った。
「……あなたのせいでおかしな夢を見ました」
「貴方の夢の話などどうでもいい。用件は何だ。先に言っておくが、死んでやることは出来ない」
「謝罪をすることすら出来ないようですしね」
「謝罪……?」
まるで何について言われているか分かっていないようなファラキルスへ、エトワールは掴みかかりたい衝動に駆られる。詰め寄ろうとしても二人を隔てる鉄格子が邪魔をする。
エトワールは、その鉄格子を思い切り握り締めた。
「私の友達を殺しておいて! 悪いとも思ってないのですね、あなたは!!」
「……銀狼を絶滅させろというのは国で決められたことだ。部隊に所属している俺が、見つけた銀狼を見逃すことなど出来ない」
「あなたには心がないのですか!? すべての銀狼が人を食べるわけではないんですよ!? ジークフリートとクリームヒルトは私の……っ大切な友達だったんです……!」
不意に流れ始める涙。自分が泣いていることに気付いて、エトワールは必死に涙を拭う。拭っても拭っても流れる涙を、何度も何度も。
「……」
そんなエトワールから目を逸らして、彼は再び鉄格子に寄りかかった。
エトワールの心は静まらない。文句を言うために彼に向かって声を出そうと口を開いても嗚咽ばかりが漏れる。
「私っ、もう……一人じゃ、ないですか……っ」
立っている力が体から抜けていくように、エトワールは膝から崩れ落ちた。
「あなたの、あなたのせいです……っなにもかも、全部あなたが……!! あなたさえいなければっ、私は彼らと、いつものように暮らして行けたのに……っ!」
「……」
無言のまま、ファラキルスがエトワールの方へ銃を向ける。エトワールは初め驚いたように目を大きくして、しかしすぐに彼を睨み付けた。
彼女がどれだけ強くあろうとしても、瞳からこぼれる涙は止まらない。彼女の持っている弱さは、正直だった。
「――っ!」
大きな銃声。つい目を閉じ耳を塞いでしまう。自分が撃たれるのだと思っていたが、痛みは全く感じなかった。
恐る恐る目を開くと、鉄格子の錠が壊されていた。
「え……」
「奪ったものを返してやることは出来ない。先ほども言ったように死ぬことも出来ない。許してくれと言うつもりもない。……後は好きにしろ。俺を殺したいのならば刃を向ければ良い。当然、抵抗はするがな」
呆然としたままのエトワールに背を向け、彼は歩き始める。が、すぐに足を止めて振り返った。
鉄格子の扉を開けてエトワールの方へ近付き、ロングコートから取り出したナイフで彼女の手に巻かれている縄を切る。
「ここから逃げるなら今から約十分の内にしろ。こうしたのは俺の勝手な判断だ。ジハードが認めることはしないだろう」
すぐに去っていく、足音。
エトワールはそうっと、牢から出る。彼の後を追うように足を進めた。すると聞えてきたのは、ジハードの声。
「おいファラキルス、なんだよ今の銃声。まさかあのナイシア族を殺してねえよな?」
「俺が人を殺すとでも思っているのか? 彼女があまりに取り乱していたからな、少し威嚇射撃として撃っただけだ」
「撃った方が取り乱すと思うんだが……」
「まあ、そんなことはどうでもいい。ジハード、少し話がある。来てくれ」
どこかの部屋に入ったのか、扉が閉まる音が聞こえてきた。
階段を上がって行き、ファラキルスの後を追って彼に戦いを挑もうとしたエトワールだが、自分が今武器を持っていないことに気付く。そして、このままここに留まれば他の人間に見つかり、また牢屋に入れられるだろうという考えに至った。
憎い相手の時間稼ぎを利用するのは癪だが、牢屋に押し込まれるのはもっと気に入らない。
「……逃げるのではありません。これは戦略的撤退というやつです」
ファラキルスが入っていったと思われる扉を見つめながら呟く。
再び訪れるつもりで、エトワールはこの建物から出て行った。