プロローグ
世界は広大だ。全てを知ることなんて、出来ないように造られている。
といっても、世界の全てを知ることに意味などないだろう。人は自分だけの『世界』を知り、そこに居続ける事が出来ればそれで満足なのだから。
彼女の世界は、とても、とても狭いものだった。平穏と優しさだけが詰め込まれ、それが永遠に続いていくような、そんな世界だった。
けれどそれは――歯車が悪戯に止まっていただけなのかもしれない。
*
ガラスの張られていない窓は簡単に風を通し、中にいた少女の髪をふわりと揺らす。木の実の皮を剥いて皿に盛り付けていた彼女は、薄い桃色の髪を邪魔そうに耳にかけた。
唐突に彼女の耳を突き抜けた扉の音が、眠たげだった銀の瞳をはっと開かせた。
「っ、待って下さいジークフリート!」
扉を開け放ったまま出て行った同居人を、少女――エトワールが慌てて追いかける。ようやく食事の準備が整ってきたというのに外出してしまうとはあんまりだ。動揺で微かに震えていた声が、その思いをありありと示していた。
ジークフリートと呼ばれたのは、右目に傷のある銀色の狼だった。勢い良く飛び出して行った割に、彼はすぐに足を止める。どうやら目的は獲物のようだ。彼の足元には羽を怪我した鳥が転がっており、それはすぐさま彼の餌となった。鋭い牙が小さな身体に突き立てられる。
「……ああ、お腹が空いていたのですね。もう少し待ってくれればいいのに」
彼の食事風景は、普通の子供が見れば怯えて逃げ出してしまいそうなものだ。しかしエトワールは慣れているのか、顔色を蒼くすることなく微笑んで、彼の背を撫でた。そんなエトワールの傍に寄ってきたのは、もう一匹の銀色の狼だ。鳥を噛み砕いている彼と比べるとやや細身で、尾の長さは彼よりも短い。
「クリームヒルトもお腹が空きましたか?」
ジークフリートを呆れたような目で見ているところを見ると、クリームヒルトは空腹ではないのだろう。疲労感を溜息として落とし、銀の毛を揺らしながら首を左右に振っていた。
クリームヒルトの頭を愛おしむように撫でていたエトワールだが、不意に悲しげな顔を浮かべる。
「お父様はいつ帰ってくるのでしょうか……」
心の声が、つい口から零れた。風が揺らす草木の音色で掻き消されてしまうほどの小さなものだったが、二匹の耳にはしかと届いていたようだ。僅かに耳を動かした彼らが、悲しげに空を仰ぐエトワールを見上げていた。
一族の戦闘部隊に入ったため、ある一件が片付くまでは帰ってはこない。父にそう伝えられて以来、当然エトワールは父の事を応援しながら待っている。しかし、彼女はその一件が何なのかすら知らない。
(ひとりぼっちは……嫌です)
『私達がいるでしょう?』
胸の内に押し込んだ弱音を汲み取ったかのような、優しい声が耳を撫ぜる。エトワールはそこでようやく、慰めの視線を送っていた彼らに気が付いた。
彼らの優しい目を見ていると、心が温まっていく。ふとした時に孤独感が降ってきても、いつだって彼らが傍に来てくれる。彼らはエトワールが孤独でないことを再認識させてくれる。だからこそ彼女は、寂しげだった表情をすぐに変える事が出来ていた。
「そうですね、二人がいるのですから、私は一人じゃない。一人じゃ、ないんですよねっ! 私、今日も頑張って――」
春に咲く花のような笑顔を浮かべたエトワールの言葉は、最後まで続けられなかった。耳を塞ぎたくなるような大きな音が彼女の小さな肩を震わせ、反射的に目を閉じさせた。
瞼を持ち上げて平気だろうかと悩む心が、目の前を映すことを遅らせる。エトワールの銀色の瞳に飛び込んできたのは、鮮やかな猩紅色だった。
「クリームヒルト!?」
血が流れるクリームヒルトの横腹を躊躇うことなく押さえる。白い手が、白いシャツが、赤く染まって行く。スカートにも、生地の赤よりも濃い赤が落とされた。
敵意むき出しの唸り声がエトワールの意識を奪う。牙を剥きながら前方を見据えるジークフリートの前に慌てて立つと、エトワールは震えながらも闖入者を睨み付けた。それは、精一杯の強がりだ。
黒いロングコートを纏った、作り物かと思うほど整った顔立ちの少年が視線の先に立っていた。彼が真っ直ぐこちらに向けているのは、銃口。硝煙の匂いが、エトワールの鼻腔をくすぐる。
「……そこを退け。さもなくば撃つ」
血と同色の瞳が、ただ冷たく彼女を見据えていた。