第十話 しろいしろい月のごとく
日が沈む前に寝てしまったというのに、エトワールが目を覚ましたのは朝だった。早朝の淡い色をした空を少し眺めてから、ベッドを降りる。
まだ寝ぼけている頭は何も考えてなく、ただそうすることをインプットされている機械のように、階段を下り始めた。
「おや、朝早いんですねぇ……関心関心」
「あ……」
クレイに話しかけられたことで息を吹き込まれたかのように、エトワールははっとする。
醒めた目で彼を映して、ぺこりと礼をした。
「おはようございます、クレイさん」
「おはようございます。昨日は心配したんですよ? もう本当に、生気抜けてるんじゃないかって」
はははと笑い事のように話す彼が、エトワールのことを心配したようにはとても見えない。つい苦笑を返してしまう。
「ごめんなさい、疲れていたので……」
「疲れは取れましたか?」
「はい、元気です」
気を使わせないために、エトワールは頷いた。昨日よりは落ち着いているが、それでもいつまた昨日のようになるか分からない。
ふとしたことでヘイルのことを思い出して、悲しんで、自分を責めて、耐え切れなくなって泣き喚く。
いい加減泣くのはやめよう。変わらなければ。気を強く持たなければと、どれだけエトワールが思っても、彼女の心は弱いまま変わってはくれない。直してもすぐに崩れてしまう、もろい心だ。
「……はあ……」
元気と言って見せたにも関わらず、つい深く息を吐き出してしまう。
そんな様子を見て、クレイは困ったように眉を寄せた。
「元気では、ないようですね」
「いえっ、私……」
「無理は良くないですよ。ですが、体調が悪いわけではないのなら、少し外に出てくるといいでしょう。引きこもっていても、気分は晴れないはずです。外の空気は気持ち良いので、きっとエトワールの暗い気分を攫っていってくれますよ」
慰めようとしているのか、彼が浮かべる微笑は優しい。
エトワールは彼に小さく頷いてから、外に出た。緑豊かな、おいしい空気の村。確かにこれは、心を落ち着かせるには良いかもしれない。
「エトワールっ」
小走りに駆けてくる足音が聞こえて、エトワールは振り返った。早朝だというのに、寝ぼけた様子が一切無いリプカの姿がそこにあった。
「おはようございますリプカさん。朝、早いんですね」
「うん。いつも朝の訓練してるから。……エトワールも、来る?」
「どこへ?」
リプカが指さすのは、昨日戦闘訓練を受けている場所だと言っていた、多くの武器が置かれている辺りだ。よくみれば、そこではリヒトが剣を振るっていた。
「お父様……」
「リヒト様は、いつも熱心だよ。一族の中では一番強いのに、それでも訓練を怠らないんだもん」
「訓練を怠らないから強いんですね……きっと」
くいっと、リプカの手がエトワールの手を掴んだ。そのままエトワールを引っ張り歩き出す。
「行こっ」
されるがままに、エトワールは戦闘訓練場へと連れて行かれた。
そこでリプカが差し出してきたのは、エトワールの手にちょうどいいサイズのナイフだった。
「私、昨日も言ったと思うけどナイフしか使えないの。だからエトワールに教えられるのもナイフの使い方だけ……ごめんね」
「いえ、まさか教えてくれるとは思っていませんでした」
ナイフを持ったエトワールの手が震えている。だが、恐らくリプカはそれに気付いていない。エトワールは当然自身の体ゆえすぐに分かったが、誤魔化すように強く柄を握り締めた。
「……エトワール、戦うこと、怖い?」
「なぜ、ですか?」
「暗い顔をするから」
「!」
驚愕の瞳でリプカを見た。彼女は、エトワールが思っていたよりも鋭い。表情に出さないよう気をつけていたというのに、僅かな変化に気付ける観察眼を持っているようだ。
エトワールはつい、ナイフを地面に落としてしまう。
「……だって、嫌じゃ、ないですか」
「私は何も出来ずに死んでいくことが嫌だよ」
大して年齢も変わらないであろう彼女の瞳は、エトワールにはない覚悟と強さが煌いていた。浮かべる表情は、どこか大人びて見える。
それでもその強さを、エトワールは否定しなければならないような気がした。
「だからって、誰かを……何かを、殺すのはおかしいですよ……」
「じゃあエトワールは、命あるものを殺したくないのなら、一体何を食べられるの?」
「それ、は……」
「売られているお肉とか、自分が殺してないからいいの? それが生きていたことをしらないから、いいの? それとも、食べるって理由があるから、許されるの?」
唇を結ぶしか、無かった。
リプカの言うことは正しいのだろう。エトワールが言っているのは出来もしない理想論だ。
黒い髪を邪魔そうに払って、彼女は続ける。
「みんな仲良く助け合って生きていくなんてこと、出来ないんだよ。……それともエトワールは、人間に対してのことを言ってる?」
「……」
「人間だって、全ての人とわかりあうことなんてできないの。私達はナイシア族だからって、今は国に殺されかけてる。人間は、気に食わないものを排除しなきゃ気がすまない生き物だから。でもだからって、私は嫌だよ。命を奪われるなんて。だからあがくの。抵抗するの。死にたくなんてないから。大切な人も、守りたいから」
ようやく、リプカは人形のような顔に可愛らしい微笑を湛えた。
そんな彼女から足元へ視線を下げて、エトワールはぽつりと言葉を落とす。
「……刃は、誰かを傷つけるためだけのものであってはいけないんです」
「え?」
「振るうなら、誰かを守るために、そして自分が生きるために振るうべき……なんだそうです」
「……うん。なんだ、エトワールも、分かってたんだね」
優しい言葉。リプカのそれは、俯いたエトワールの首を横に振らせた。桃色の髪がふわふわと揺れる。
顔を上げたエトワールは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「きっと、ヘイルさんが言っていたことも、リプカさんが言っていることも正しいんです……でもっ、私は嫌なんです……誰かを傷つけるなんて、したくないんです……!」
「……エトワール」
溜まった涙をこぼす前に、リプカの暖かくて小さな手がエトワールの頭に置かれた。ぽんぽんと優しく頭を叩かれると、エトワールの頬を温かな涙が伝う。
「じゃあきっと、エトワールは優しい人なんだよ。たとえ大切な人が殺されても、復讐なんて絶対に出来ないような、優しい人」
「……違い、ます。私……何が正しいのか……分からなくなって、来ているんです……」
そっと、膝をついた。座りこんだエトワールの横に、リプカも腰を下ろした。震える背を、リプカの手が優しく、落ち着かせるように撫でる。
「前は……家族のように大切だった銀狼を失ったときは、憎くてたまらなくてっ……復讐することを考えていたんです……。銀狼だからってだけで殺されたのが、許せなくて……! なのにっ、そんな私が、今は誰も傷つけたくないって思ってるんですよ? おかしいです……あんな、憎しみばかりが頭を巡ってたのに……そん、な私がっ……今更きれいごとを言うなんて……おかしいですっ……」
「あなたは、その憎かった人に、本当に刃を突きつけることが出来たの? もしその人を傷つけて、復讐として本当に殺してしまったとき……あなたは泣かない自信があるの?」
リプカの言葉が、エトワールの赤みを帯びた瞳を見張らせた。
優しく、けれどどこか鋭い言葉は、エトワールの心のもやを切り裂いていく。
「殺すとか殺さないとか、そんなことに正しさなんて無いんだよ。大量殺人鬼を野放しにしておくのは正しいこと? 捕まえて死刑にするのは、正しいこと? ……そんなの私には分からない。だって、死刑にしてもしてるのは同じ人殺しだよ。ただ言葉を変えて正しいように言っているだけ」
「……そう、ですね……」
「エトワールはさ、何が正しいとかそんなの考えなくていいんだよ。今こうしたいっていうことをすればいい」
リプカはエトワールが落としたナイフを手に取った。それを、彼女の目に映らないように、懐へと仕舞いこむ。
「だから今は、あなたにはナイフなんて必要ない。武器なんて、あなたにはいらない。戦う術も、知る必要ないよ」
まるで年下の子をあやすかのような、優しい声色。それは薬のように、エトワールを落ち着かせていく。
「ここでは、絶対にエトワールは死なない。だって、私がいるから」
「え……?」
「エトワールはもう、私の大切な友達。だから私は、絶対エトワールを守るよ!」
にっこりと笑ったリプカを、エトワールはしばしぼうっと見つめていた。唇の裏で、「友達」とつぶやいてみる。
「とも、だち……」
その響きがなんだか心地よくて、嬉しくて、つい、声に出してしまう。
リプカをみると、その呟きに大きく頷いていた。
「私……友達って、初めてです……!」
「私もだよ。じゃあお互いに、最初の友達だねっ」
「はいっ! よろしくお願いしますっ!」
友達、という言葉が、暗く沈んでいた心をくすぐる。これほどの笑みを浮かべたのは久しぶりではないかと思うほど、エトワールの顔いっぱいに嬉しそうな表情が広がっていた。
握手を求めるエトワールの手を、くすっと笑ってリプカは握った。
「そうだ、エトワール、友達らしいことしよっ!」
「はい。何をしますか?」
「まずはねー、おいしいもの食べよー!」
リプカに手を引かれ、小さく走り出す。そうしていると、いい匂いにエトワールの鼻が反応した。
「なんだか……おいしそうな香りが……!」
「でしょ。きっと気に入るよ!」
着いたところは一見普通の民家のようだったが、良く見ると看板が置いてあった。飲食店らしい。
木で出来た扉を開けて中に入ると、まだ朝だからかそれほど人はいない。
「おばさん、おはよう。あれちょうだい」
リプカに呼ばれて顔を出した女性に、エトワールは一礼する。『あれ』でなにかわかったのか、すぐにカウンターの奥の方へ行ってしまった。
「あれって、なんですか?」
「えっとね、あれはあれだよ」
「分かりませんよ……」
「つまり、お楽しみ」
悪戯っぽく笑った彼女を見て、こんな顔もするんだなと思った。初対面の印象では、彼女はもっと控え目な性格に見えたからだ。
「二人分でいいんだよね?」
何か紙に包まれたものを一つずつ両手に持って出てきた女性にうなずいて、リプカはそれらを受け取って店を出た。
「はい」
渡されたそれは、温かい。紙を開くと、どうやらそれはパンのようだった。
「では、いただきま――」
「待って。あっちで食べたい」
食べようとしたエトワールはリプカにぐいっと手を引かれ、大きく開いた口を不服そうに閉ざした。
「食べながら行く、でいいじゃないですか……」
「歩きながら食べるのは行儀悪いよ」
「むー……」
民家の間を通って、二人が出たのは建物が建っていない花畑のようなところだ。広いとはいえないが、決して狭くは無い。そのうえ木で出来たベンチが備えられていた。
腰を下ろしたリプカに習って、エトワールはベンチに座る。
沢山の花は綺麗だが、前方へ視線を向けると民家が視界の大半を占める。
「景色、いいでしょ。私の家が邪魔だろうけど」
「え? リプカさんの家、どこなんですか?」
「目の前で景色を邪魔してる家だよ。ここ、私の家の庭だから」
言われて見れば、庭くらいの広さだ。
相槌を打ってから再び紙を開き、エトワールはようやくパンに噛み付いた。
「……!」
温かくて柔らかいパンから、とろっとしたポタージュが溢れ出す。
咀嚼しながら輝いた銀の目をリプカに向けると、言葉を発さずともエトワールが伝えたいことが分かったらしく、微笑を返してくれた。
「おいしいでしょ。ちょっと食べづらいだろうけど」
「……ほんっとにおいしいです!」
「よかった」
幸せそうに頬張りながら、空を見上げた。雲ひとつ無い青空に、エトワールは笑みを深くする。
「なんか、いいですねこういうの」
「ん?」
「お花畑で美味しいものを食べながら青空を見上げれるなんて……幸せです」
「エトワール、俯いてばっかだったからね」
からかうようなリプカの語調に、エトワールは小さくこくりと頷いた。
「……少し、怖かったんです。空を見上げるのが」
「どうして?」
もう半分くらいの大きさになったパンを惜しむように、エトワールは少しだけ口にする。
「太陽を見ると、ヘイルさんを思い出すんです。月を見ても、ヘイルさんを思い出すんです。思い出すと……罪悪感で、押しつぶされてしまいそうで……」
「そっか。……エトワール」
呼ばれて、エトワールはリプカを瞳に映した。彼女は、澄み渡る空をじっと見つめたまま、エトワールへと言葉を紡ぐ。
「何があったか私は知らないし、聞く気はないけど……きっと悲しいことがあったんだよね」
「……はい」
「忘れろとは言わないよ。だって、大切な人だったんでしょ? じゃあ、絶対に忘れちゃ駄目だよ」
彼女の銀の瞳は、どこか遠くを見ているようだった。青空よりも、どこか、遠いところを。
「……忘れたら悲しみも消えるなんて、嘘だから」
「……」
「罪悪感ってことは、何か申し訳ないことをしちゃったんだよね? でもさ、エトワール。よく考えてみて。その人は、あなたがしたことを責めるような人なの?」
言われて、ヘイルのことを思い浮かべる。そして昨日、自分が考えていたことも。
そう、彼はきっと、償いなど求めない。
「……ヘイルさんは『君のせいじゃない』って言って、笑うような人だと思うんです」
「なら――」
「でもそれは、私が彼に甘えているから、そう考えているかもしれないじゃないですか……」
「……めんどうくさいなあ」
長い息と共に吐き出された、呆れたようなリプカの声。反射的に「ごめんなさい」と謝罪を口に出す。
すると、小さく頭を小突かれた。
「後ろ向きなことばかり考えてたら駄目だよ。そのヘイルさんが、うじうじしてるエトワール見たらむかつくかもしれないでしょ」
「……そう、かもしれません」
「死んでしまったらもう笑うことも泣くことも出来ないの。だから、生きている私達がその人たちの代わりに泣いて、笑わないと。そうやって、普通に生きることが一番、その人たちへの償いだと思うんだ」
いつからヘイルが死んでいると気付いていたのか、リプカはそう言った。
まん丸にした銀の瞳が彼女を映すと、彼女は自虐的に見える笑みを浮かべる。
「私も……一時期エトワールみたいになってたから。大切な人を失う気持ちは、分かるよ」
「……リプカ、さん……」
「もう、泣く必要はないの。謝る必要もないの。水をあげすぎたら植物は枯れちゃうでしょ? たくさん涙と謝罪を重ねても、意味は無いんだよ」
少し冷めてきたパンを、エトワールは噛み千切る。口の中で咀嚼して、飲み込んだ。まだまだ募るはずだった後ろ向きな言葉も全て、飲み込んだ。
ふうと息を吐いて、広がる青空を見上げる。
涼しい風。舞う花びら。
先ほどからずっとここにいたのに、今更それらに心が癒されていく。
すっきりしたからか、エトワールの童顔は普段よりも大人びたものに変わっていた。浮かべた微笑も、子供らしさが少し欠けている。
「……じゃあ私は、水をあげすぎて植物を枯らせてしまう駄目な人ですね」
「そうだね」
「……私、もっと、前を向かなければ……ヘイルさんに申し訳ないです」
苦笑したエトワールの声は、もう後ろ向きの響きを伴っていない。前向きかと問われるとまだ断言できるものではないが、それでも少し、前を向き始めた。
リプカが、自分の分のパンをエトワールに差し出す。
「あげる」
「えっ、でも、まだ私の分ありますよ?」
「足りないでしょ? エトワール、大食漢ってかんじだもん」
失礼な……とぼやきながらも、エトワールはリプカのパンを受け取る。
両手にパンを持っている姿がさらに大食漢らしさを増して、リプカの笑いを誘った。
「く、ふふっ……」
「なっ、なんですか?」
「なんでも、ないよ……っあはは……」
「絶対なんでもなくないですよね! 笑ってるじゃないですか!」
「なんでもないってば……っはははは!」
お腹を押さえて爆笑し始めたリプカを、エトワールは口をへの字に曲げてにらみつける。だが彼女がこちらを見ていないのだから、全くの無意味だ。
しばし爆笑する彼女に怒りの視線を送っていたが、笑いを止めることが出来そうになかったため不服そうな顔のままパンを頬張った。
一つを食べ終え、半分くらいあるもう一つを口の中に詰め込む。すると、横で笑い声がさらに大きくなった。
「あははっ……エトワール、リスみたいっ!」
「ひふはもっほはわいいへふ(リスはもっと可愛いです)!」
「何言ってるかわかんないよー!」
しばらくの間、二人の楽しそうな声が静かな村中に響いていた。
◆
それから二人は、夕暮れまではしゃいでいた。
木登りをしたり、リプカが捕まえた虫を見てエトワールが逃げたり。そこから追いかけっこが始まったり。
村に迷い込んだと思われるうさぎと会話をして、二人と一匹での追いかけっこをしたり。
うさぎを森に返してから、二人で追いかけっこをしたり。
「はあ……はあ……もう……無理、です……」
「わたしも……つかれた……」
走り回った二人は疲れきって、服が汚れることも構わず地面に寝そべっていた。といっても、もう遊んだせいで服も手も汚れている。
「はあ……エトワール、あしたも、遊ぼうね」
「はい。もう少し、疲れない遊びに……しましょう……」
「うん……」
酸素を求めるように、はぁはぁと息をしながらも二人は楽しそうに笑った。
まだ寝転んでいるエトワールに対し、リプカはゆっくりと体を起こす。
「じゃあ、私、訓練してくる……」
「えっ、今からですか……?」
「毎日しないと、なまっちゃうから」
可愛らしく手を振って、小走りで戦闘訓練場のほうへ向かっていく。その後ろ姿を見ながら、エトワールも起き上がった。
「まだ走れるなんて……」
感嘆のため息を漏らして、少し汚れた桃色の髪を揺らしながら家へと歩を進め始めた。
疲れていることが一目で分かるような前傾姿勢で歩いて、クレイの家の扉をゆっくりと開ける。
「ただいま、です……ふわあ……」
眠たげにあくびをして、玄関だというのに横になった。すると、まぶたがすぐに下がってくる。
「おかえりなさ――……おやおや」
小さな寝息を立て始めたエトワールを見て、クレイが微笑んだ。そっと彼女を抱えて、二階へと上がり始める。
◇
見知った家にいた。
けれど、どこだったか思い出すのに、時間が掛かる。
石造りの建物。天井から吊るされた、火にかけられた鍋。窓のそばに立てかけられた食器。木で造られた椅子とテーブル。
「エト」
――そして、どこか懐かしい、優しい声。
振り返ると、開いている扉の外に彼が立っていた。夜なのか、外は暗い。それでも月光と街灯に照らされて、彼の金の髪がきらきらと輝いて見える。
エトワールが大好きだった、彼の綺麗な笑顔が目の前にあった。
何故だか懐かしく感じる。彼にずっと会いたいと思っていた気がする。ようやく会えた――そんな嬉しさが、湧き上がる。
「ヘイル、さん……ヘイルさんッ!」
駆け出したい。
その思いに体が追いつかず、転びかけた。その小さな体が、支えられる。
顔を上げると、すぐ近くにヘイルの顔があった。彼は、困ったように笑った。
「ほんと……君は危なっかしいな……」
「ヘイルさん……」
「よかった」
「え?」
彼の手が、震えているのを感じた。笑っているのに、どこか辛そうな陰を見せる。そんな彼を不安げに見つめて、言葉の続きを待った。
「君が無事で、よかった」
「!」
彼の言葉で、エトワールははっとした。
これは夢だ、と。
彼はもう、死んでしまったのだということを思い出す。途端に、嬉しさが悲しみに変わりだす。
それに気付いてか、ヘイルがエトワールを強く抱きしめた。
「前に、僕は何も守れなかったって言ったよね」
「……はい」
「でも、今度は守れたよ」
涙がこぼれそうな蒼い瞳を、ヘイルは嬉しそうに細める。エトワールを安心させるように、優しく笑う。
忘れもしない彼の顔。彼の声。彼の、笑顔。
目の前にいるのは、夢だったとしても紛れも無い『彼』だ。
「エト、僕は……少しは、強くなれたかな」
不意に、エトワールの視界が揺らいでぼやけ始める。
あたたかいものが頬を伝って、視界を邪魔するものが涙だと分かった。
「っヘイルさん……ごめ――」
謝罪を発そうとした口は、彼の人差し指が押し当てられて留まった。ゆっくりと、彼は綺麗な髪を揺らして首を左右に振る。
「違うよ、エト。僕が聞きたいのはその言葉じゃない」
考えるまでも無い。なぜだか、彼の求めている言葉が分かった。そして、自分が本当に彼に言いたかった言葉も、分かった。
「ありがとうっ、ございますっ……!」
「……うん。ありがとう、エト」
ふと、周りにあったものがなくなっていることに気付く。テーブルも、椅子も、建物も、外の景色も。全てが、光のように消えて行っている。
見上げると白い光が、上へ上へと上がって行っているのが見えた。
ヘイルの姿も、ぼんやりとし始めた。今度は、涙のせいではない。
「ヘイルさんッ!」
「……エト」
彼を逃がさないように、強く、強く抱きついたエトワールの手が、彼をすり抜けた。
見張った銀の瞳で自分の手を映してから、彼をじっと見た。
行かないでくれと訴えるその目の中で、彼は笑った。
「君に会えて……良かった」
大好きな、彼の笑顔。
いつもと違って、陰りを見せなかった、彼の笑顔。
もうなくなってしまった。白い空間に、ただ一人残された。
それでも、なくなっていない。彼の笑顔は、エトワールの記憶の中に、しかと刻みこまれた。
その笑顔は――。
「ヘイルさん……本当に、あなたは……」
真っ暗な空の中で一際輝いている、月のようだ。




