第九話 おもいおもい罪悪が
何故、ということばかりが頭の中をひたすら掻き混ぜていた。
どうして自分は今逃げているのだろう。どうして大切な者を奪った男が傷付いてまで自分を庇ったのだろう。
どうしてヘイルが死んでしまったのだろう。
――どうして銀狼が、人を喰らうのだろう。
「……はあっ……」
もう走れない。だからエトワールは、民家と思われる建物に手を突いた。
駆けてきた場所は、ファラキルスがいた町だ。
日が沈んでいる今、町の中を歩いている人はいない。それでも、エトワールは警戒するように視線を忙しなく動かしていた。
(……私は、どうすればいいんですか……っ)
フェルドへの恐怖で引っ込んでいた涙が、再び溢れてきそうだった。
エトワールは、周りの人間が怖かった。
ナイシア族というだけで、先ほどのフェルドのように殺そうとしてくる人がいるかもしれない。
そんな考えを持っていることに気付いて、エトワールは、首を横に振る。
(ヘイルさんみたいに、私を受け入れてくれる人だって、いるはず――)
ずきん、と、穴だらけの心が音を立てた。
ヘイルは、ただナイシア族ということを知らなかっただけだ。
もし彼が、エトワールがナイシア族だということを知っていたら。彼は、それでもエトワールを受け入れたのだろうか。
(……ヘイルさんは……種族で差別するような人じゃ、ないです……)
無意識に空を見上げた。
そこに月は無かった。暗雲に覆われた空には、星すら浮かんでいない。
その光景は、死んでしまったヘイルと、彼にもう二度と会えない自分に重なる。そんな空から地面に視線を落とした。
(お父様……どこにいるのですか……?)
今一番会いたい人間。それは今一番信頼に足る人物。エトワールは、彼に会う術を探していた。
一族の村に行くと言っていたような気もするが、その場所も分からない。
そもそも彼は、ある一件が危険だからとエトワールを一人あの家に置いていったのだ。そのことが片付くまで、エトワールの前に現れることはないのだろう。
今となっては、それが何の話なのか、見当がついていた。
ジハードが言っていた。ナイシア族は国に反発して戦闘部隊を結成した、と。父が入ったという戦闘部隊は、それだろう。
つまり父は、この銀狼の件が片付くまで、国と戦っているということになる。
(……私は……どこに行けば、いいんですか……?)
くるっと、方向を転換した。
エトワールが足を進め始めたのは、走ってきた道だ。屠殺部隊本部があるサードニクスに繋がる森の中へ、再び足を踏み入れた。
道を外れて、川の方へ進み始める。川に沿って歩いていくと、橋のように倒れる木に乗っかった。その上を歩いて、川をまたぐ。
深い森の中へ進んでいく足取りは、重くはなかった。そこから一切の不安も見せない。
エトワールは、自分の記憶に任せて足を運んでいた。
この先に、自分が暮らしていた家があったはずだ、と。
(……行く場所なんて、私には一つしかない、ですよね……)
少し前までエトワールにとっての世界は、あの家と、その周囲の森。それが少しだけ広がっても、行く場所は結局自分の家だ。
「あ……」
ふと、気付く。
ヘイルにもらった桃色の布も、果物ナイフも、彼の遺体のそばに置いてきてしまったことに。形見となるはずのものを、彼と過ごした証であるものを、置き去りにしてしまった。
「っ……」
そんな自分を叱咤するように、小さな手を強く強く握り締めた。痛みなど感じないほど、心はそこになかった。
エトワールの意識は、ヘイルのことから少しも離れない。
(私は……どうすれば……ヘイルさんに償えるのですか……?)
きっと彼は償いなど求めない。君のせいじゃない、そう言って普段どおり微笑むだろう。
ここにあの桃色の布と果物ナイフがあれば、それを握り締めていたはずだ。それがない代わりに、エトワールは自身の手をひたすら震わせる。爪が食い込んで、血が流れ出しそうなほど力を込める。
森を進む足が、ぴたりと止まった。体の力がふっと抜けてしまったかのように、膝を突く。泥や土がつくことも構わず、エトワールは寝転んだ。
ここがどこなのか、あとどれほど進めば家につくのか、本当に家はこの先なのかすら分からないが、そのことを気にしていられるほどエトワールの頭は暇ではなかった。
パニックに近い状態の感情でも、エトワールの童顔は驚くほど無表情だった。
(あれ……)
頬を、生暖かいものが伝った。
枯れたと思っていた涙は、乾ききった瞳を潤すようにあふれ出す。それは目尻から零れて地面へと染み込んだ。
止まってくれそうにない涙を拭う気力もなくて、エトワールは瞼をゆっくりと閉じた。
非情なことに、暗くなった視界は、記憶を映すスクリーンになる。脳裏に焼きついて離れない『死』が、『赤』が、エトワールに瞼を開かせる。
瞳が映したのは、森。それでもエトワールが見ているのは、彼ら。
ジークフリートとクリームヒルト、そしてヘイル。
彼らが血を流す姿が、幻覚のように映される。
(……私みたいなのを何て言うのか……知ってます、私)
震え続ける手。だというのに、童顔は笑みを形作る。正直なのは、手か、笑みか。それは、止まらないものが語っていた。
(死神っていうんですよ。……ごめんなさい、ヘイルさん……)
ぎゅっと、固く閉じられた瞼から、止まらない涙が零れ落ちた。
◆
瞼を持ち上げてみて、エトワールは自分が眠ってしまっていたことに気付く。それと同時に、眠る前と場所が違うことにも。
柔らかいベッドに寝転んだ顔がじっと見つめるのは見慣れた天井だ。つまりここは、エトワールの家だった。
「私……どうして……」
「ようやく起きたか」
「!」
心が跳ねた。
聞き覚えのある声。近付いてくる姿は、以前まですぐそばにあった人のもの。会いたいと思っていた人が、目の前にいた。
短い赤い髪。凛々しい銀色の瞳。
彼は、ひげの生えた顎に手を当てて険しい表情を浮かべる。
「エトワール、お前はなぜ森で寝て――」
「お父様っ!!」
父・リヒトの言葉など完全に無視して彼の胸へと飛び込んだ。嬉しくてたまらないはずなのに、乾ききっていた瞳からは涙が零れた。
彼に向ける言葉も弱々しく悲しげなものになってしまう。
「お父様……っクリームヒルトが! ジークフリートが……っヘイルさんが……!!」
「エトワール……? とりあえず落ち着くんだ。落ち着いてから話してくれ」
こくりと頷いて床に座り込むと、目をごしごしとこする。荒れていた呼吸を落ち着かせて、エトワールはリヒトの目を真っ直ぐに見た。
どこか落ち着かせてくれる銀の瞳に、ほっと息を吐き出す。
そうしてエトワールは、ゆっくりと話し始めた。
突然現れたファラキルスという少年のこと。クリームヒルトが撃たれて死んだこと。ジークフリートがどうなったかは分からないこと。
そして、屠殺部隊について知ったことも、ヘイルに出会うも彼が銀狼に食われ死んでしまったことも。
短い期間であった多くの全てを話し終えると、ぽつりと、独り言のように言葉を投げかける。
「……私が……間違っているんですか? 銀狼は、彼らの言うとおり絶滅させなければならない存在なのですか?」
「……」
「銀狼を絶滅させなければやはり……また、ヘイルさんのように死んでしまう人が出てしまうのですか……?」
リヒトは、眉を寄せて顔をしかめた後、小さく頷いた。
「銀狼も人も、変わらないさ」
「どういう、ことです……?」
「人を殺す人間もいる。銀狼も、人を食わない奴と食う奴とに別れる。結局は個体差だ。全ての銀狼と分かり合うことも、全ての人と分かり合うこともできやしない。銀狼の全てが悪いわけではないんだ。絶滅させることを考えるなど、私は認められんな」
彼の瞳は、ここにないものへの明確な怒りを露わにして床に向けられていた。
エトワールは口を閉ざして、一人思案する。もう何が正しいのか分からない頭は、ぐちゃぐちゃのまま整理されない。
「人と銀狼は、分かり合えないのでしょうか……。彼らの言葉が聞こえる私達だからこそ、人と銀狼の間に立って、共存することはできないのでしょうか……?」
「……人は決まってこう言う。殺されてからでは遅いのだ、とな。だから彼らは、もう誰も死なぬように銀狼を絶滅させようとしている。人食いの銀狼も、人に害を与えない銀狼も関係無く、無差別に」
リヒトが遠まわしに何を言っているか、今のエトワールでも容易に理解できた。人と銀狼は分かり合えない。彼の目を見なくとも、どこか強い語調がそう語る。
エトワールはそれを、認められなかった。
「私は嫌です。銀狼が殺されるのも、人が殺されるのも……もう、見たくないです」
「大丈夫だ。そのために今我々が人を止めようとしている」
「戦闘部隊ということは戦うんですよね? 銀狼を殺させないために、人と争いを起こしているということですか? それでは、やっていることは国と変わらないじゃないですか……!」
リヒトが、黙り込んだ。
エトワールが彼に対してこれほど反抗的な瞳を向けたのは、初めてのことだった。それに、彼は僅かに動揺している。
「……エトワール」
不意に降りた沈黙は、少ししてリヒトの優しい声が取り去った。暖かい手が、優しく頭に載せられる。
「一族の村に来るといい。ここに一人でいるのは、危険だ」
エトワールの言葉への返答は何もないまま、彼は話を進めた。エトワールの銀の瞳が、彼から逸らされる。
「私は……」
「さあ、支度をしてくれ」
有無を言わさぬ態度にむっとしたような表情を浮かべるも、エトワールは身支度に取り掛かった。
◆
もともと荷物と言えるものはないエトワールは、何も持たずに心の整理だけを付けてリヒトの後ろを歩いていく。広がる景色は森の中。大分歩いてきたが、それでも森は森で、普段見ているものと大きな違いはない。
ナイシア族の村に彼が自分を連れて行かず、一人でここに残して行った理由は知っている。村に行けば皆戦う訓練をすることになるらしい。彼はエトワールを戦わせたくなかったのだ。
にもかかわらず、今更になって村に来いと言っている彼に、エトワールは少しの不満があった。小さな呟きとして口に出す。
「なぜ、今更……?」
独り言にも似た呟きは、何にも攫われることなくリヒトへ届いた。彼は振り返ることなくエトワールへ声をかける。
「一族の長が変わったからだ。……もうお前に寂しい思いも辛い思いもさせん」
言葉を返さず、俯いたまま歩いていると、不意に聞えた声に顔を上げた。
いつの間にこれほど歩いたのかと思うほど、森の開けた所に沢山の家が建っているのが目に入る。先ほどまでは、草木ばかりだったというのに。
「リヒト様! お戻りになられたのですね!」
村を囲う柵を通り過ぎて中へと足を踏み入れると、数人の村人が寄ってきた。ナイシア族の村というだけあって、皆瞳は銀に煌いている。
「そちらが、娘さんですか?」
「ああ。……エトワール、こっちだ」
じろじろと見てくる村人達を端から順に見ながら、エトワールはリヒトに手を引かれ、歩いていく。
(リヒト様……ということは、お父様は偉い人なのでしょうか?)
そんなことをぼんやりと考えながら、村の中で一際大きな家の前に立った。
木で出来た家は二階建て。他の家とは違い、周囲が柵で囲われている。その上、家を守るかのように二人の村人が立っている。
「ここは族長の家だ」
「族長さんの……」
「入るぞ」
村人二人はリヒトに何も言わず頭と武器を下げ、立ち入ることを許可した。リヒトに続いてエトワールも中へと足を踏み入れる。
木で出来た扉を開くと、床には高そうな絨毯が敷かれていた。踏むことを僅かに躊躇うも、踏まずに進むことは出来ないため上を歩き出す。
「戻られたのですね。ご無事でなによりです、リヒト」
木で出来た椅子に腰掛け、分厚い書物に目を通していた人物が顔を上げて微笑んだ。その微笑ははじめリヒトに向けられていたが、エトワールの方へ向くと一層笑みが深くなる。
恐らく族長なのであろう彼は、椅子から立ち上がり机の横を通り過ぎてエトワールの傍によると、膝を突いた。
灰色の長い髪を邪魔そうに払ってから、彼はエトワールの頬を摘まんで引っ張った。
「!?」
「子供というのは愛らしいですねー……癒されます」
「族長、分かっていると思うがそれは私の娘だ。あまり困らせないでもらいたい」
「ああ、済みません」
手を離した彼を、エトワールはじっと見上げた。二十も越えていないのではないかと思うほど、若く綺麗な顔立ち。戦うこととは無縁に見える、華奢な体。病的なまでに白い肌。
心配そうな視線を彼に向けつつ、エトワールは遠慮なく言った。
「お父様、こんな方が族長で大丈夫なのですか?」
エトワールの考えていることが理解できなければ、失礼としかとれないその発言に、当然リヒトが眉を寄せた。大きなその手をぐっと固めて、エトワールの桃色頭に落とす。
「いっ……!」
「言葉には気をつけろ」
「そうやってすぐ手を出すのは、あなたの悪い癖ですがね」
はあ、と大げさなため息を吐いて、族長がリヒトを非難してみせる。リヒトが口を噤んだのを一瞥してから、族長は再びエトワールに笑いかけた。
「僕は戦いませんよ。戦闘は専門外なんです。護身術しか使えませんしね。……ですから、心配は要りません。僕は皆をまとめたり、国王に手紙を出したりするだけです。戦闘は戦闘部隊隊長のリヒトと、その隊員に任せていますから」
どうやら彼はエトワールの言いたい事を分かっていたようだ。彼は、なにかを思い出したかのように突然あっと声を上げた。
父が隊長だということを不思議とすんなり受け入れてぼうっとしていたエトワールは、彼の声にびくっと驚きを示す。
「自己紹介がまだでしたね。僕はクレイと申します。よろしく、エトワール」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「ちなみに、これでも三十は越えているんですよ?」
ぎょっとしたエトワールを見て、その反応を見るのが楽しいのだと言わんばかりにクレイは笑う。
「さて、あなたの部屋に案内しましょう。こちらです」
「私は失礼する」
クレイに一礼して、リヒトは出て行ってしまった。エトワールは父を目で見送ってから、クレイに視線を移す。
彼はリヒトに続くように赤絨毯の上を少し歩き、曲がって絨毯から外れる。そこにあった階段を上がり始めた。
「父親と暮らしたいでしょうが、彼の家はそれほどのスペースがないので……」
「大丈夫です。私、一人には慣れていますから」
階段を上がると、二つの部屋があった。どちらも木で出来た扉だが、着色されており色が異なる。
クレイは、青い扉を指さした。
「こちらがエトワールの部屋となります。好きに使ってください。こちらの緑の扉の部屋は僕の部屋です。僕は主に一階にいますが、いなければここにいるものと思ってください。……それでは」
説明を終えると、彼は階段を降りてゆく。
エトワールは自分の部屋へ入ると、整理された綺麗な部屋のベッドに腰掛けた。そうして部屋を隅から隅まで眺めていく。
本棚、花瓶、小さな棚。
ガラスの張られていない、カーテンだけ備えられている窓から風が吹き込んでくる。
しんと静まっている室内に、自分の呼吸と風の音、外から聞える声だけが耳に届いて、エトワールはなぜか悲しくなった。
先ほどクレイに触れられた自分の頬に触れる。思い出すのは、やはり彼のことだ。
パン屋のテラスで触れた、彼の氷のように冷たい手だ。
――一人には慣れたはずだったのに……どうしてかな――
彼の言葉を思い出して、エトワールは小さく笑った。あの時の彼の気持ちが、今なら分かる気がした。
一人には慣れていた。それでもたった数日ヘイルと共に暮らしただけで、再び一人になるとこうも悲しいのか、と思う。
他人のぬくもりが恋しい。
「……ヘイル、さん……」
ぽつりと落とした独り言と同時に、水滴が手に降ってきた。
また泣いてしまっていることに気がついて、すぐに手でごしごしと拭った。いつまでも泣いてばかりではいられないと、自分に活を入れるように両頬を手で打つ。
よし、と小さな声で言ってから、エトワールは部屋を出て一階へと向かった。階段を降りる足音はどこか元気だ。
その童顔には笑顔が戻っていた。
「クレイさん!」
「ん?」
「散歩してきても、構いませんか?」
初めて訪れた村を回ることで、気分転換をしようと考えたのだ。
クレイは少し悩むように顎に手を添えてから、ふっと笑う。
「ええ、構いませんよ。一族の皆にも、リヒトの娘であるあなたの来訪は伝わっていますから、危ないことはないはずです」
「ありがとうございますっ」
「あなたと同じ年くらいの子もいますから、お友達になれると良いですね」
クレイに頷いてから、家を出る。
一人暮らしをする前は別の村で父を含むナイシア族たちと暮らしていた。その村よりも広く、人も多いこの村を、ついついきょろきょろと見てしまう。
ただ、広さが違うだけで周りは植物だらけのため、人々が暮らす石で囲われているような街ほどの衝撃はない。
クレイの家以外はどこも一階建てのようだ。外観も変わらず、慣れなければどこが自分の家か分からなくなりそうだ、とエトワールは思った。
村人がちらちらとこちらを見ては、何かを話している。ただ、悪口でないことは彼らの表情からして分かるため、エトワールは大して気に止めない。
「あのっ……」
いきなり声をかけられて、エトワールは驚きつつも振り返った。
そこには、自分とそれほど背丈の変わらない、黒髪の少女が立っていた。
「私、リプカっていうの。あなたは……?」
人見知りなのか、下を向いて少しおどおどしている。エトワールがきょとんとして彼女をじっと見ていると、彼女は返答を待つのがもどかしいのか手を忙しなく動かしていた。
「あ、えっと、エトワールです。よろしくお願いしますね、リプカさん」
「エトワール……。うん、よろしくね」
エトワールが握手を求めると、リプカは嬉しそうに笑って手を取った。
先ほどまで前髪で顔を伺うことは出来なかったが、彼女は人形のように可愛らしい顔立ちをしていた。
「リプカさんも、最近ここに来たのですか?」
「ううん、お父さんに連れられて、戦闘部隊が結成されたときから。だから、いつもあっちで戦闘訓練を受けてるの」
リプカが、村の奥の方を指差す。
その辺りに民家はなく、村を囲う柵が見える。柵の手前には槍や剣などの武器が置かれており、それを手に持って戦っている村人の姿があった。
「リプカさん、戦えるのですか?」
「前は全然だったけど……訓練したから。戦えるようになったよ。でも剣とか槍とか、重いものは使えないの。私はせいぜいナイフくらい」
「すごいです。私……武器を持っても振るうことすら出来ませんから」
銀狼の前で、ただ怯えて果物ナイフを握り締めていた自分を思い出す。今更になって、戦う術を自分が身に着けていたらよかったのになあと、微かな後悔が湧き上がる。
「……私」
「エトワール? どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」
今すぐにでもあの場所に戻って、あの桃色の布と果物ナイフを取りに行きたくなった。自分にとって大切なものだというのに、それすら捨て置いたままにしている。
そんな自分に対する苛立ちと、彼に対する罪悪感ばかりが募り始める。
「ごめんなさい、リプカさん。少し気分が良くないので……私、家に戻りますね」
「え……うん。また明日ね」
控え目に笑って、控え目に手を振るリプカ。彼女に手を振り返すエトワールの笑顔は、作ったものだった。
彼女に背を向けて今の自分の家へと足を踏み出す。
どうしても、表情が暗くなってしまう。どうしても、彼のことを思い出して胸が苦しくなる。目が、熱くなる。
――エト、覚えておいて。大切なものは、失ってから気付くんだ――
本当に、その通りだと思う。言われずとも、あの二匹の銀狼を失った時点で気付いていたというのに。
家に入り、クレイが何かを聞いてきたが、それすら耳に入ってこないほどぼうっとしていた。彼に何かを返すことなく、そのまま自分の部屋へこもり始める。
ベッドの上に寝転んで、窓の外へ目をやった。眩しい陽光に目を細めた直後、彼の声が聞こえた気がした。
――でも君は太陽の方が似合ってるかな――
「っ……!」
太陽を見たくなくなって、エトワールは布団を被ってうずくまる。
(そんなわけ、ないです……っこんな、あなたがいないだけでうじうじしている私が、太陽なわけっ……ないです……!)
忘れることなど出来ない、ヘイルの顔。声。仕草。
無邪気な子供のように月を指さした彼の笑顔も、どこか悲しげな微笑も、頭から離れない。
「私……」
これは、推測だ。実際にどうだったかなど、分からない。
たった数日ともに暮らして、たった数日言葉を交し合って、たった数日見つめ続けただけの彼に、本当にこの感情を抱いていたのか、分からない。
それでも、きっとそうなのだろうと、エトワールは思った。
「ヘイルさんのことが……好き、だったのですね……」
これは、推測だ。本当に恋をしていたかなど、分からない。
あの日彼の家に押しかけなければ、こんな感情を抱かずに済んだはずだ。あの日彼の家に住まわせてもらわなければ、こうはならなかったはずだ。あの日彼と狩りに行かなければ、彼は死なずに済んだはずだ。
初めて恋をした人に対する重い罪悪感が、ひたすらにエトワールの胸を締め付ける。




