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聞こえる

掲載日:2026/07/05

 コン。

 コン。

 コン。


 聞こえた。


 また、あの音だ。


 仮眠中だというのに……。


 音……。


 音か……。


 睡魔で混濁する意識のまま、どうでもいいことを考える。


 音とは、そもそも何だ?


 もし、そんなことを問われたなら、空気の振動だ、と私は答えるだろう。


 鼓膜を揺らし、神経を伝わり、脳で知覚される。


 それが、音だ。


 だが。


 しかし。


 一方で。


 もしも、世界から人間が消えたらどうなる?


 誰も聞いていない森の中で、木が倒れたとき。


 それは本当に、音がしているのだろうか。


 その音は、人間に認識されずとも、音だといえるのだろうか?


 コン。

 コン。

 コン。


 この音が聞こえるたびに、私は少し嫌な感覚に襲われる。


 しかし、聞こえてくる。


 音。


 この音が、なくなってくれたらいいのに。


 コン。

 コン。

 コン。


 ああ……うるさい。


 睡眠を邪魔された私は、起き上がる。


 総合病院の夜勤中。


 壁時計を、見た。


 午前三時十一分。


 また、この時間か。


 この病院で、最も患者が死にやすい時間帯。


 この病院で、働く人たちは皆、そう言う。


 実際に、根拠などない。


 しかし、この病院で長く働いていると、その時間だけ空気が変わるように感じることは少なくない。


 静かになる。


 いや。


 あの音がすると、他の音がなくなるのだ。


 静寂にも強弱があるのなら、この静けさはおかしい。


 ちがう。


 私が、音を聞こうとしていないのかもしれない。


 私は、通路へと出て暗い廊下を歩いた。


 ナースステーションには、看護師が二人。


 このフロアで、明るいのはここだけだろう。


「院長先生」


 若い女性看護師が、私に声をかける。


 その顔は、不安に染まっていた。


 私は、それに気づかないふりをする。


「何?」

「また……聞こえました」


 私は、意図して苦笑を浮かべる。


「また?」

「はい……またです」

「私は、聞こえないけどな」


 そう言った時、もう一人の看護師が私を見た。その顔は、嘘をつくなと私に言っている。


 お前も、聞こえているくせに。


 誤魔化すように、口を開いた。


「どんな音?」


 尋ねた私に、音を聞いたという看護師が視線を彷徨わせて、答える。


「ノックです」


 やはり、それか。


 誰もいない病室から、ノックが聞こえる。


 それは、ナースステーションの近くの三一一室。


 コン。

 コン。

 コン。


 必ず三回。


 だが部屋を開けると誰もいない。


 患者もいない。


 空室だ。


「疲れているんじゃないか? ご苦労様」


 私はそう言い、トイレへと向かう。


 途中、三一一室の前を通る時、聞こえた。


 コン。

 コン。

 コン。


 私は、夜勤が続けば幻聴くらい起きると周囲に話して、この不思議な現象を誤魔化してきた。


 しかし、三階フロアで夜勤をした人たち全員が、この音を聞くことへの説明にはなっていない。


 それは、私が一番、理解している。


 だが、何をどう説明しろと?


 幽霊がいる? ここは病院だ。人が死ぬことは、避けられない。救急で運ばれてきて、そのままという人だっているのだ。本当に、この世界に幽霊とかいう非科学的なものがいるならば、ここにはたくさんいるだろう。それで、どうしたらいい?


 いちいち、生きている私たちにちょっかいを出すなと叱ればいいのか?


 馬鹿らしい。


 トイレに入り、用を足した。そして、手洗いで手を洗いながら、鏡に映る自分を見る。


 ひどい顔だ。


 ようやく、仮眠がとれたのに……。


 水を止めた時、だった。


 コン。


 なんだ?


 トイレまで、音が届くようになったのか?


 コン。


 違う。


 この音は、三一一室じゃない。


 コン。


 振り向く。


 トイレのドアは、閉じられている。


 開くも、誰もいない。


 廊下は無人。


 少し先で、ナースステーションだけが明るかった。


 コン。


 今度は近い。


 耳元。


 いや。


 耳ではない。


 頭蓋骨の内側。


 脳の奥から聞こえる。


 そんな感覚だった。


 私は、思わず耳を塞いだ。


 音が、止んだ。


 いや。


 止まったのではない。


 聞こえなくなった。


 まるで耳を塞いだから、聞こえなくなったように。


 頭の中で、鳴っていたはずなのに。


 矛盾している。


 私は、背筋に冷たいものを感じた。




 -・-・-・-・-・-




 カルテ整理中に、おかしな入院記録を見つけた。


 三か月前。


 この病院で奇妙な事件が起きていた。


 十三人の患者が、同時に発狂した。


 原因不明。


 全員が、同じ証言をしている。


『誰かがノックしている』

『耳の奥の病室から』


 耳の奥の病室。


 妙な表現だった。


 誰がこれを? ったく……私の名前が書いてある……誰の悪戯だ?


 閉じようとしたが、その一文が目に入った。


『患者らは、自分の頭蓋内部に病棟が存在すると訴える』


 私は、笑おうとしたが、無理だった。


 昨日の。


 音。


 昨日の、私の、脳の中の音。


 三一一室から、聞こえてくると思っていた、あの音。




 -・-・-・-・-・-




 コン。

 コン。

 コン。


 また……睡眠を邪魔された。


 私は起き上がり、汗で濡れた額を手の平でぬぐう。


 コン。

 コン。

 コン。


 再び音がした。


 私は、立ち上がる。


 音の方向が分かった。


 三階、ではない。


 下。


 地下だ。


 これは、きっと地下からだ。


 現在は、使われていない。


 古い書類が、保管されているだけ。


 ナースステーションに行くと、無人だった。


 私は、懐中電灯を手にとる。


 階段を下りる。


 湿った空気。


 埃臭い廊下。


 誰もいない。


 だが。


 コン。

 コン。

 コン。


 音は続く。


 二階から一階、一階から地下へと降りると、音は大きくなってきた。


 倉庫として使われる部屋が並ぶ地下、その通路の奥、突き当りの部屋だ。


 そこから、この音が聞こえてくるのだ。


 私は、どういうわけか、その部屋の鍵を持っていた。


 偶然だろうか。


 扉を開ける。


 中は空だった。


 ベッドだけ。


 患者はいない。


 だが。


 壁は真っ黒だった。


 懐中電灯で照らすこの部屋の壁は、真っ黒だった。


 いや……いや? いや……ちがう。


 黒く塗られているように見えるのは、びっしりと文字が書かれているからだ。


 私は、壁に近づき、懐中電灯に照らされた文字を読む。


【聞こえていても信用するな】

【聞こえていても信用するな】

【聞こえていても信用するな】


 私は、固唾を呑みこむ。


 その時。


 背後で鳴った。


 コン。


 振り向く。


 誰もいない。


 コン。


 今度は近い。


 コン。


 さらに近い。


 コン。


 耳の中。


 いや違う。


 もっと奥。


 頭蓋骨の内側。


 脳の裏側。


 そこに扉がある。


 そんな気がした。


 あり得ない。


 だが確信した。


 扉がある。


 そして。


 今。


 その扉を。


 誰かがノックしている。


 コン。

 コン。

 コン。


 私は壁から離れた。


 逃げようとする。


 部屋の扉は、いつの間にか、閉じられていた。


 コン。

 コンコン。


 音が、聞こえる。


 いや、音がしている。


 誰かが、扉を叩いている音。


 声が、聞こえた。


『開けて』


 男? の声だった。


 若い。


 男だけど、高い声だ。


『院長先生』


 私は、耳を塞いだ。


 声は続く。


『ずっと待ってた』


 頭の中が痛む。


 声は確実に内側から聞こえる。


 脳の裏。


 見えない場所。


 そこに病室がある。


 そして誰かが閉じ込められている。


『先生』

『先生』

『先生』


 私は、走る。


 部屋のドアへ、思いっきり体当たりをした。


 ドアは悲鳴をあげて開き、私は地下の通路へと倒れこむ。


 懸命に立ち上がり、通路を走る。


『聞こえているでしょ?』


 声が、続く。


 走った。


 階段を駆け上がった。


 一階から二階、二階から三階へ。


 汗だくになって、ナースステーションへ飛び込んだ。


 だが。


 誰もいなかった。


 看護師も。


「誰か! いないか!?」


 私は、思わず声をあげていた。


 しかし、反応はない。


 いや、音がしない。


 音がない世界。


 なんだ?


 どういうことだ?


 ナースステーションの中で、呆然と立つ。


 モニターが、目にとまった。


 それは、心電図だった。


 心電図が、ずらずらと並んでいる。


 全て正常。


 全て同じ波形。


 全て同じ心拍数。


 六十六。


 六十六。


 六十六。


 六十六。


 気味が悪い。


 その時。


 モニターの、患者名に気付いた。


 全員。


 同じ名前だった。


 黒瀬修司。

 黒瀬修司。

 黒瀬修司。

 黒瀬修司。


 全て自分だった。


 心拍が速くなる。


 無造作に置かれていた、カルテを開く。


 患者名……黒瀬修司。


 三十八歳。


 痛み刺激を与えても全く覚醒しない状態。


 私は、立ち尽くした。


 ページをめくる。


 入院期間。


 三か月。


 あり得ない。


 そんなはずがない。


 その時。


 背後から声がした。


『先生』


 振り向く。


 女性が一人、立っていた。


 音を聞いたと、私に言ったあの看護師だ。


「君、どこにいたんだ!?」


 思わず怒鳴った時、彼女は微笑む。


『やっと、この時がきました』


「この時?」


『忘れたの?』


 彼女は、笑う。


 私は、呆然と立つ。


 彼女は、薄く唇を開き、声を漏らす。


『先生は、ずっと眠ってる』


 彼女が、近づく。


『聞こえてたでしょ? ずっと』


 コン。

 コン。

 コン。


 ノックが鳴る。


『あれは外から』


 彼女が、言う。


『みんなが、先生を起こそうとしてたの』


 私の背後で、無数のドアが開く音がした。


 振り向く。


 病院の廊下が、変形している。


 だだっ広い病室には、無限のベッド。


 その全てに。


 私が、寝ていた。


 老人の私。


 子供の私。


 若い頃の私。


 包帯で顔が隠れていても、その男は私だ。


 ひどく痩せた顔をした男は、私だ。


 全てのベッドに、私は寝ていた。


 私は、眠っている。


 全ての、私は、眠っている。


 看護師が、耳元で囁く。


『音って何だと思う?』


 私は、答えられない。


『音が聞こえているなら、それは、あなたが生きているっていうこと』


 彼女が、微笑む。


 コン。

 コン。

 コン。


 最後のノックが響く。


 その瞬間。


 私は、思い出した。


 病院も。


 医師も。


 患者も。


 全部夢だった。


 私は、眠り続けている。


 私は、交通事故に遭った。薄れていく意識の中で、救急車で運ばれていく記憶が最後だったのだ。


 看護師が、病室にただひとつある扉を開いた。


 向こう側から。


 眩しい光が差し込む。


 私は、両目を大きく開いた。


 病室の、ベッドの上だ。


 視界には、目を見開く白衣の父、その横に涙を流す母がいた。


 そして、婚約者の美咲も。


 皆が、泣いている。


 看護師たちが、父の指示で、あわただしく作業を始めた。


 奇跡だと、父の口が動いた。


 皆が、私に話しかける。


 だが。


 私は、気付いてしまった。


 誰一人。


 声を出していない。


 口だけが、動いている。


 声が、聞こえない。


 いや……いや? いや……違う。


 音がない。


 世界から、音が消えている。


 いや。


 違う。


 音とは。


 自分が聞いていた音とは。


 看護師が、言った。


 音が聞こえているということは、私が、生きていることだと。


 つまり、生きていれば、音が聞こえる。


 だから。


 私は?


 音は、しない。


 美咲が、私に顔を近づける。


 彼女は、あの看護師と同じ顔をしていた。


 彼女が、私に何かを言った。


 聞こえない。


 しかし、口の動きで意味はわかった。


『おかえりなさい』


 音は、消えている。


 そこで。


 突然。


 聞こえた。


 コン。

 コン。

 コン。


 それは、脳の奥から聞こえる。


 ああ、これはまた夢なのだ。


 もう一枚、夢が捲れただけなのだ。


 そう認めた時、婚約者の声が聞こえた。


「おかえりなさい」


 この世界で、私は生きるのだ。


 壁の時計が、目に入った。


 三時十一分。


 コン。

 コン。

 コン。


 脳の裏側で、また、あの音がした。


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