聞こえる
コン。
コン。
コン。
聞こえた。
また、あの音だ。
仮眠中だというのに……。
音……。
音か……。
睡魔で混濁する意識のまま、どうでもいいことを考える。
音とは、そもそも何だ?
もし、そんなことを問われたなら、空気の振動だ、と私は答えるだろう。
鼓膜を揺らし、神経を伝わり、脳で知覚される。
それが、音だ。
だが。
しかし。
一方で。
もしも、世界から人間が消えたらどうなる?
誰も聞いていない森の中で、木が倒れたとき。
それは本当に、音がしているのだろうか。
その音は、人間に認識されずとも、音だといえるのだろうか?
コン。
コン。
コン。
この音が聞こえるたびに、私は少し嫌な感覚に襲われる。
しかし、聞こえてくる。
音。
この音が、なくなってくれたらいいのに。
コン。
コン。
コン。
ああ……うるさい。
睡眠を邪魔された私は、起き上がる。
総合病院の夜勤中。
壁時計を、見た。
午前三時十一分。
また、この時間か。
この病院で、最も患者が死にやすい時間帯。
この病院で、働く人たちは皆、そう言う。
実際に、根拠などない。
しかし、この病院で長く働いていると、その時間だけ空気が変わるように感じることは少なくない。
静かになる。
いや。
あの音がすると、他の音がなくなるのだ。
静寂にも強弱があるのなら、この静けさはおかしい。
ちがう。
私が、音を聞こうとしていないのかもしれない。
私は、通路へと出て暗い廊下を歩いた。
ナースステーションには、看護師が二人。
このフロアで、明るいのはここだけだろう。
「院長先生」
若い女性看護師が、私に声をかける。
その顔は、不安に染まっていた。
私は、それに気づかないふりをする。
「何?」
「また……聞こえました」
私は、意図して苦笑を浮かべる。
「また?」
「はい……またです」
「私は、聞こえないけどな」
そう言った時、もう一人の看護師が私を見た。その顔は、嘘をつくなと私に言っている。
お前も、聞こえているくせに。
誤魔化すように、口を開いた。
「どんな音?」
尋ねた私に、音を聞いたという看護師が視線を彷徨わせて、答える。
「ノックです」
やはり、それか。
誰もいない病室から、ノックが聞こえる。
それは、ナースステーションの近くの三一一室。
コン。
コン。
コン。
必ず三回。
だが部屋を開けると誰もいない。
患者もいない。
空室だ。
「疲れているんじゃないか? ご苦労様」
私はそう言い、トイレへと向かう。
途中、三一一室の前を通る時、聞こえた。
コン。
コン。
コン。
私は、夜勤が続けば幻聴くらい起きると周囲に話して、この不思議な現象を誤魔化してきた。
しかし、三階フロアで夜勤をした人たち全員が、この音を聞くことへの説明にはなっていない。
それは、私が一番、理解している。
だが、何をどう説明しろと?
幽霊がいる? ここは病院だ。人が死ぬことは、避けられない。救急で運ばれてきて、そのままという人だっているのだ。本当に、この世界に幽霊とかいう非科学的なものがいるならば、ここにはたくさんいるだろう。それで、どうしたらいい?
いちいち、生きている私たちにちょっかいを出すなと叱ればいいのか?
馬鹿らしい。
トイレに入り、用を足した。そして、手洗いで手を洗いながら、鏡に映る自分を見る。
ひどい顔だ。
ようやく、仮眠がとれたのに……。
水を止めた時、だった。
コン。
なんだ?
トイレまで、音が届くようになったのか?
コン。
違う。
この音は、三一一室じゃない。
コン。
振り向く。
トイレのドアは、閉じられている。
開くも、誰もいない。
廊下は無人。
少し先で、ナースステーションだけが明るかった。
コン。
今度は近い。
耳元。
いや。
耳ではない。
頭蓋骨の内側。
脳の奥から聞こえる。
そんな感覚だった。
私は、思わず耳を塞いだ。
音が、止んだ。
いや。
止まったのではない。
聞こえなくなった。
まるで耳を塞いだから、聞こえなくなったように。
頭の中で、鳴っていたはずなのに。
矛盾している。
私は、背筋に冷たいものを感じた。
-・-・-・-・-・-
カルテ整理中に、おかしな入院記録を見つけた。
三か月前。
この病院で奇妙な事件が起きていた。
十三人の患者が、同時に発狂した。
原因不明。
全員が、同じ証言をしている。
『誰かがノックしている』
『耳の奥の病室から』
耳の奥の病室。
妙な表現だった。
誰がこれを? ったく……私の名前が書いてある……誰の悪戯だ?
閉じようとしたが、その一文が目に入った。
『患者らは、自分の頭蓋内部に病棟が存在すると訴える』
私は、笑おうとしたが、無理だった。
昨日の。
音。
昨日の、私の、脳の中の音。
三一一室から、聞こえてくると思っていた、あの音。
-・-・-・-・-・-
コン。
コン。
コン。
また……睡眠を邪魔された。
私は起き上がり、汗で濡れた額を手の平でぬぐう。
コン。
コン。
コン。
再び音がした。
私は、立ち上がる。
音の方向が分かった。
三階、ではない。
下。
地下だ。
これは、きっと地下からだ。
現在は、使われていない。
古い書類が、保管されているだけ。
ナースステーションに行くと、無人だった。
私は、懐中電灯を手にとる。
階段を下りる。
湿った空気。
埃臭い廊下。
誰もいない。
だが。
コン。
コン。
コン。
音は続く。
二階から一階、一階から地下へと降りると、音は大きくなってきた。
倉庫として使われる部屋が並ぶ地下、その通路の奥、突き当りの部屋だ。
そこから、この音が聞こえてくるのだ。
私は、どういうわけか、その部屋の鍵を持っていた。
偶然だろうか。
扉を開ける。
中は空だった。
ベッドだけ。
患者はいない。
だが。
壁は真っ黒だった。
懐中電灯で照らすこの部屋の壁は、真っ黒だった。
いや……いや? いや……ちがう。
黒く塗られているように見えるのは、びっしりと文字が書かれているからだ。
私は、壁に近づき、懐中電灯に照らされた文字を読む。
【聞こえていても信用するな】
【聞こえていても信用するな】
【聞こえていても信用するな】
私は、固唾を呑みこむ。
その時。
背後で鳴った。
コン。
振り向く。
誰もいない。
コン。
今度は近い。
コン。
さらに近い。
コン。
耳の中。
いや違う。
もっと奥。
頭蓋骨の内側。
脳の裏側。
そこに扉がある。
そんな気がした。
あり得ない。
だが確信した。
扉がある。
そして。
今。
その扉を。
誰かがノックしている。
コン。
コン。
コン。
私は壁から離れた。
逃げようとする。
部屋の扉は、いつの間にか、閉じられていた。
コン。
コンコン。
音が、聞こえる。
いや、音がしている。
誰かが、扉を叩いている音。
声が、聞こえた。
『開けて』
男? の声だった。
若い。
男だけど、高い声だ。
『院長先生』
私は、耳を塞いだ。
声は続く。
『ずっと待ってた』
頭の中が痛む。
声は確実に内側から聞こえる。
脳の裏。
見えない場所。
そこに病室がある。
そして誰かが閉じ込められている。
『先生』
『先生』
『先生』
私は、走る。
部屋のドアへ、思いっきり体当たりをした。
ドアは悲鳴をあげて開き、私は地下の通路へと倒れこむ。
懸命に立ち上がり、通路を走る。
『聞こえているでしょ?』
声が、続く。
走った。
階段を駆け上がった。
一階から二階、二階から三階へ。
汗だくになって、ナースステーションへ飛び込んだ。
だが。
誰もいなかった。
看護師も。
「誰か! いないか!?」
私は、思わず声をあげていた。
しかし、反応はない。
いや、音がしない。
音がない世界。
なんだ?
どういうことだ?
ナースステーションの中で、呆然と立つ。
モニターが、目にとまった。
それは、心電図だった。
心電図が、ずらずらと並んでいる。
全て正常。
全て同じ波形。
全て同じ心拍数。
六十六。
六十六。
六十六。
六十六。
気味が悪い。
その時。
モニターの、患者名に気付いた。
全員。
同じ名前だった。
黒瀬修司。
黒瀬修司。
黒瀬修司。
黒瀬修司。
全て自分だった。
心拍が速くなる。
無造作に置かれていた、カルテを開く。
患者名……黒瀬修司。
三十八歳。
痛み刺激を与えても全く覚醒しない状態。
私は、立ち尽くした。
ページをめくる。
入院期間。
三か月。
あり得ない。
そんなはずがない。
その時。
背後から声がした。
『先生』
振り向く。
女性が一人、立っていた。
音を聞いたと、私に言ったあの看護師だ。
「君、どこにいたんだ!?」
思わず怒鳴った時、彼女は微笑む。
『やっと、この時がきました』
「この時?」
『忘れたの?』
彼女は、笑う。
私は、呆然と立つ。
彼女は、薄く唇を開き、声を漏らす。
『先生は、ずっと眠ってる』
彼女が、近づく。
『聞こえてたでしょ? ずっと』
コン。
コン。
コン。
ノックが鳴る。
『あれは外から』
彼女が、言う。
『みんなが、先生を起こそうとしてたの』
私の背後で、無数のドアが開く音がした。
振り向く。
病院の廊下が、変形している。
だだっ広い病室には、無限のベッド。
その全てに。
私が、寝ていた。
老人の私。
子供の私。
若い頃の私。
包帯で顔が隠れていても、その男は私だ。
ひどく痩せた顔をした男は、私だ。
全てのベッドに、私は寝ていた。
私は、眠っている。
全ての、私は、眠っている。
看護師が、耳元で囁く。
『音って何だと思う?』
私は、答えられない。
『音が聞こえているなら、それは、あなたが生きているっていうこと』
彼女が、微笑む。
コン。
コン。
コン。
最後のノックが響く。
その瞬間。
私は、思い出した。
病院も。
医師も。
患者も。
全部夢だった。
私は、眠り続けている。
私は、交通事故に遭った。薄れていく意識の中で、救急車で運ばれていく記憶が最後だったのだ。
看護師が、病室にただひとつある扉を開いた。
向こう側から。
眩しい光が差し込む。
私は、両目を大きく開いた。
病室の、ベッドの上だ。
視界には、目を見開く白衣の父、その横に涙を流す母がいた。
そして、婚約者の美咲も。
皆が、泣いている。
看護師たちが、父の指示で、あわただしく作業を始めた。
奇跡だと、父の口が動いた。
皆が、私に話しかける。
だが。
私は、気付いてしまった。
誰一人。
声を出していない。
口だけが、動いている。
声が、聞こえない。
いや……いや? いや……違う。
音がない。
世界から、音が消えている。
いや。
違う。
音とは。
自分が聞いていた音とは。
看護師が、言った。
音が聞こえているということは、私が、生きていることだと。
つまり、生きていれば、音が聞こえる。
だから。
私は?
音は、しない。
美咲が、私に顔を近づける。
彼女は、あの看護師と同じ顔をしていた。
彼女が、私に何かを言った。
聞こえない。
しかし、口の動きで意味はわかった。
『おかえりなさい』
音は、消えている。
そこで。
突然。
聞こえた。
コン。
コン。
コン。
それは、脳の奥から聞こえる。
ああ、これはまた夢なのだ。
もう一枚、夢が捲れただけなのだ。
そう認めた時、婚約者の声が聞こえた。
「おかえりなさい」
この世界で、私は生きるのだ。
壁の時計が、目に入った。
三時十一分。
コン。
コン。
コン。
脳の裏側で、また、あの音がした。




