第3話「聖女候補の泣き顔」
権謀術数が張り巡らされたこの学園において、噂は金貨のごとく回っていく。けれど悪貨が良貨を駆逐するといわれるように、いつだって欺瞞は真実の中へと混ぜ込まれていた。
昨日の礼法実習で何があったのか、正確に知っている者は多くない。けれど朝の回廊では、もう「聖女候補が怯えた」「ルミアがまた何か言った」という断片だけが、悪意をもって流通し始めていた。
(…それもこれも、わたくしが弱いから。お父様、お母様、ルミアはヴァルドシュタイン家の娘として至らぬ点ばかりです)
私は憤りを押し殺し、講義棟の中央階段へ続く廊下を歩く。感情を表に出さずに済んだのは、現状よりも自分自身の未熟さへ意識が向いていたからだ。
『弱い人間の言葉なぞ誰も耳を貸さぬ。正義を示すなら誰よりも強くあれ』
それはお父様が私に教えてくださったこと。私が正義を成し遂げるために必要なもの。
こうした状況に置かれたのも、自分が弱いからだと納得できる。恥ずべきことではあるけれど、その認識はかえって私の足取りを軽くした。
(…人が多い。それに、この雰囲気…はぁ、いやになりますわね)
二限と三限のあいだ、この時間にしてはいつもより混み合っていることに気付く。同時に、そこを行き交う人間の目に宿る意思の違いにも。
昨日の件を見た者、見ていないのに聞いた者、どちらでもよい者…その全部が、通り過ぎるついでに面白いものを探している。人の輪の中心にあるパールホワイトの輝きを見れば、それは一目瞭然だった。
(…あれは、リオネ? なぜ一人で、あんなに)
聖女候補…『正しさの象徴』として扱われる少女。
その肩には書類鞄とは別に、講話用の薄い冊子と礼法実習の記録束が積まれている。明らかに一人で持つ量ではない。
(…昨日の今日で…!? まずい…!)
彼女は聖女らしい純白の心を持ちつつも、そうあるにはあまりにも芯が脆弱だった。だからこそ、手伝うふりで押しつけた誰かがいて、その裏側の悪意に気付かず、あるいは知っていても断れなくて…そう思った直後、斜め前から来た上級生の袖が、彼女の肘をかすめた。
それはわざとだと断じるには、あまりにも小さく無駄のない動きだった。すべての所作が台本通りであるかのように。
「…あっ…!?」
冊子が床へ散る。記録用紙がほどけ、数枚が人の靴先に滑り込んだ。
リオネは咄嗟にしゃがみこもうとして、今度は抱えていたインク壺を落としかける。周囲から細い悲鳴と、期待したような息が漏れた。
彼女はその光景が自分を中心に起こった出来事だとすぐには認識できなかったのか、驚いた声を漏らしたきり固まってしまう。
(…遅かった…なにをしていますの、あの子は…何より、わたくしは…!)
助けに入る者はおらず、哀れむ顔だけが増えていく。誰かが小声で「かわいそう」と呟き、別の誰かが「また目をつけられたのかしら」と応じる。
まだ何も起きていないうちから、半ば完成した報告書だけが先に配られていく様子が頭に浮かんだ。そしてその流布を阻止できなかったことに、リオネよりも自分への苛立ちを募らせる。
騒動の外側で、誰かが小さく折った紙片を開いているのが見えた。昨日の席次表を写したメモだ。
誰がどこに座り、誰がどこで青ざめたか…そんな走り書きひとつで、無関係な出来事同士はいくらでも線で結ばれる。たとえ私が望まなくとも、私やリオネは渦中の人間として扱われ…悪意の道具として翻弄されるのだろう。
…そして、もしも。私のライバル…あの子にまでも、線が結びついたら?
あの忌々しい能天気な微笑みが頭に浮かんだ刹那、私は人垣を割って前へと進んでいた。
「立ち止まって見ているくらいなら、道を空けなさい。ルミアリエルが通りますわ」
私がそう宣言すると同時に、何人かがびくりと震えて道を空ける。周囲の喧騒もすっと落ち、私とリオネの一挙手一投足に注目が集まっていることを理解した。
失敗はできない。大丈夫、私はヴァルドシュタインの末娘。これ以上、家名に泥を塗りたくない。何より、ライバルに笑われたくない。
床へ散った紙を一瞥し、踏まれそうな数枚をたぐり寄せながら伝えるべき言葉を探した。リオネの瞳に宿るペールアクアの光は、湖に映った月のように揺らいでいた。
「…聖女候補様、泣く前に枚数を確認なさい。提出印のある紙とない紙を分けて、汚れたものはその場で抜く。混ざれば、紛失の言い訳に使われます」
口にしてから、しまった、と思った。
この場を収め、彼女の落ち度を減らすにはこれが一番早い。けれど命じるような口調になったことも、責めているように聞こえる形になったことも、きっとこの光景を待ち望んでいた邪気を喜ばせる。
「わ、私、私は…」
「言い訳ならあとで聞きます、だから今は確認を…」
ダメだ、焦るな。
大きく揺さぶられたリオネの目を見つめ、努めて冷静に言葉を探す。こんなとき、あの要領のいいライバルなら…もっと適切な言動を選べるのだろう。
違う、責めたいわけではない。一枚でも隠されれば、それだけで彼女の失敗にされる。だから先に数えるべきだと伝えたいだけなのに。
私の口から出る言霊は、いつだってレイピアのような形をしていた。細く、無駄がなく、何より鋭い。
「リオネ様、ルミア様は急いで順番を立て直そうとしているだけですよ。ですから、まずは落ち着いてくださいね」
そんな刺突剣を鞘で覆い隠すように、晴天の空みたいな柔らかい声音が割って入る。
気付いたらラフィエラが私の半歩前へ出るようにして、しゃがみ込んで床の紙を拾い上げる。その手つきは、奇しくも私の髪を梳くレイナの手つきに似ていた。
そしてリオネに目線を合わせ、丸みのある微笑みを浮かべた。
「提出印のある紙は大事です。だから泣いてしまうとインクが滲みますし、まずは枚数を確かめましょう? リオネ様は印のあるものだけ見ていてください、ないものと汚れたものは私がよけますのでお任せください」
「…ラフィエラ…」
それは自然と口をついて出た言葉だった。けれど、ひどく鋭さを失っていた。
ラフィエラはそれを喜ぶように、にこやかに言葉を継ぐ。
「皆様、通路を塞がないようにお願いいたします。記録紙は踏むと角が潰れて、あとで保管できなくなりますので…故意でなくとも責任問題に発展しかねません、どうかご協力を」
さっきまではギャラリーに徹していた令嬢たちも、そこでようやく事態の収拾に動く。
誰かが落ちた冊子を拾い、別の誰かが落ちそうなインク壺を支える。その動作は誰もが気遣いと優雅さに溢れているけれど、私には『責任回避の動き』にしか見えなかった。
だとしても…この場で一番リオネを慮っていたのは、一番最後に訪れたラフィエラなのだろう。
リオネはようやく集め終えた紙を、一枚ずつ確かめる。その指先は細く、自身の震えによって崩れ落ちそうなほど頼りなかった。
「…えっと、七枚、あります…」
「提出印がついたものは?」
「…四枚です」
「ならば結構、残りは再筆で処理なさい」
「…すみません」
リオネは涙に濡れた目で私を見る。その奥にあるのは怯えだけではなく、理解しかけて届かないような戸惑いにも見えた。
…なぜ私は、こういう場面においてはライバルに勝てないのでしょう?
私が事態収束について評価を下すと、やはり彼女はまた涙を浮かべそうになる。安心させようとした自分の行動が裏目だったと知り、胸の奥が重くなった。
けれど、これ以上ラフィエラの翻訳に甘んじたくない。さあ、言うのです、ルミアリエル…あの憎き“翻訳”がでる前に…!
「大丈夫ですよ。ルミア様は『なくなっていなくて安心した』とおっしゃったんです…“補佐役”のわたしが言うんですもの、間違いありませんよ。ね?」
…お父様、お許しください…。
私の言選り速度は、ラフィエラの翻訳速度にまたしても負けた。
揚げ句の果てに補佐役という『すでに終わったはずの間柄』まで持ち出され、褒められるのを待つ犬めいて見つめてくる。
「…なくなっていないのなら、手続きはやり直せますから。やり直しがないに越したことはありませんが」
「ですね、やり直しがあればリオネ様の負担になりますし…優しいルミア様は、そういう無駄も無くしたいんですよ」
「…あ、ありがとう、ございます…」
…この駄犬! 余計なお世話ですわ!
もはや厚かましさすら感じる優しさに、思わず怒鳴りたくなる。
だけどヴァルドシュタイン家の女として、事態収束への尽力は認めないといけない。それがもどかしくも、私にひくついた笑みを浮かべさせた。
「やっぱり厳しいわね」
「聖女候補様が泣きそう…」
「怖かったでしょうに」
しかし周囲では、もう別の意図が呼吸を始めている。
その息遣いは私の耳にも届き、唇を引き結ぶ。仮にここで反論しても、『聖女候補へ詰める悪役令嬢』という証拠にでっち上げられるだけだ。
ラフィエラは相変わらず聞こえていないふりが上手く、拾い集めた紙束を何事もなかったかのように整えていた。
「ルミア様の言葉は、皆様が勝手に誤解して鋭く仕立て上げられます。それは補佐役として悲しいことです」
「…余計なことを言わないでくださいまし。それと、補佐役はもう終わったはずですが」
「これは現状の整理ですよ」
…本当にこの子は、私の機嫌を取ろうとしているのか、それとも火消しをしようとしているのか、わからなくなる。
それでもラフィエラの言葉が周囲のでっち上げを柔らかく訂正したのか、ひそひそ話のトーンは少し落ちていった。
「ご心痛でしたね、リオネ様」
騒ぎが収まりかけたころ、廊下の端で控えていた王太子付きの側近が、何事もなかったような顔で歩み寄ってきた。
…昨日、柱の陰で「証言」を集めろと言っていた男だ。
「急に責め立てられて、さぞ驚かれたでしょう。見ていた皆さんも」
「い、いえ、責め立てたというほどでは…」
「ええ、もちろん。ですが、聖女候補殿が怯えていらしたのは事実でしょう?」
声だけ聞けば、慰めているようにしか聞こえない。だけど彼は、リオネ本人ではなく…周囲の令嬢たちへ向けて言葉を置いていた。
その一言で、曖昧だったものの輪郭が決められていく。
迷っていた令嬢が、小さく頷いた。それは、大きな決定打になった。
「そう…見えました」
「ありがとうございます。では、そのように記録しておきます」
いま起きたことは、床に散った紙を拾っただけ。けれど彼らはそこから「聖女候補が怯えた場面」を切り出し、「悪役令嬢が追い詰めた」という構図に落とし込むのだろう。
真実を見届ける前から形を整えようとする側近をにらみつけそうになって、私はやめた。その態度すら利用される。
「ルミア様」
ラフィエラは拾い集めた紙束を抱えたまま、私に小さく語りかけた。
彼女の持つ紙には角の折れたもの、インクのしみたもの、靴跡のついたものが混ざっていて、ここで起こったことをそのまま物語っているように見えた。
「もう、人の口にだけ頼るのはやめにしませんか?」
「…どういうこと?」
「起きたこと全部、ですよ。時刻も、場所も、誰が何を言ったのかも…こちらで残すんです」
思わず彼女の顔を見る。そこに、先ほどまでの誰かを気遣う柔らかさは消えていた。
「記録、ですか」
「ええ。証言の形は向こうが整えてくれます、それならこちらは事実を順番通りに整える…少なくともこの書類たちは、今日ここでこのような姿にされてしまいました」
紙束をたぐるラフィエラの手は、やっぱり優雅で優しい。その様子に以前の茶会で袖を引かれたことを思い出し、私は目立たない程度に首を振った。
「たとえまた席を落とされたとしても、今度は事実でもって戦えます」
「…そこまでしてくれなくとも結構です。自分から首を突っ込むおつもりで?」
「もちろんです、補佐役ですから」
「認めていませんが」
「認めてもらえるまでがんばりますよ。ですから、今日もぜひ一緒に図書館へ。この事実の最初の一行を、正しく、そして共に紡ぎましょう」
あきれて息をつく。そうすることしかできなかった。
それは、断らないと同義でもあった。
だって…私は、我が一族こそが正義。なれば彼女の『正しく書く』を断る理由が、どこにあろう?
回廊の向こうでは、まだ誰かが「聖女候補様がかわいそう」と囁いている。その声はひどく軽いのに、あとでどれほど重く扱われるのか…もう私は知っているから。
だから放課後の図書館を思い浮かべ、この書類たちの無念を晴らすことに決めた。




