第2話「席次表の刃」
指定色のワンピースにブラウスを羽織り、校章のブローチを留める。レイナに「今日もお似合いです、誰よりも」と褒められたその装いは、王立貴族学園の定めるドレスコード…言うなれば制服だった。
中央回廊を行き交う生徒たちも皆よく似た格好をしている。けれどヴァルドシュタイン家の名を背負う私の服は、布の質も装飾も、それに恥じぬ品位で整えられていて、ただ歩くだけでも誇らしかった。
だからこそ、掲示板前だけ空気の質が違うと気づいた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
(…今日も騒がしいこと。いったい何が…)
中央回廊は講義棟へ向かう者も温室棟へ寄る者も、一度は通る場所だ。いつもなら賑わいの一部でしかないざわめきが、今日は壁際の掲示板を中心に、妙に薄く尖っている。
礼法実習や茶会当番の席次表が貼り出されたその前で、私の姿に気づいた人の波が、目に見えない刃で切り分けられたように左右へ退いた。
衆目を気にしないようにしていても、わかる。今、私へ向けられているのは…昨日までの遠慮がちな視線ではない。昨日の処刑台へ集められていたものと同じ、無配慮で、結果だけを見定める目だ。
(…ヴァルドシュタインの席…なるほど、そういうことですか)
昨日の青い封蝋が、今朝には席次表の形へ変わった。その事実を理解すると同時に、指先がこわばる。
今週の礼法実習における席次と役割が家名順に整然と並ぶ中、誇り高きヴァルドシュタイン家…私の席は、またしても家名に泥を塗りかねない位置へと移されていた。
中央卓ではなく、補助卓の端。給仕役と記録役の動線が交差し、人の出入りが最も多い場所。座っているだけで落ち着きのなさまで観察される席だ。
「本当に下げられたのね」
「殿下のお考えが見えますわ」
「でも、あそこまで露骨だと…」
後ろから聞こえる囁きは長続きしなかった。私が振り向くことなく、ただ結果を受け止めているからだろう。
それでも場の息遣いは正直で、掲示板と私の存在を確認した令嬢たちは挨拶もなく、昨日のオレオンのように一瞥だけくれてから去っていく。
席が下がるということは、ただ座る場所が変わるだけではない。どこまで近寄ってよい人物か、その目安を皆に知らしめるということ。
…変わってしまったのね、私も。オレオン、あなたも。
「おはようございます、ルミア様。今朝もお会いできて幸せです」
だけど、私の側には変わらない存在もいる。たとえば、レイナとか。
…そして、この怨敵。掲示板の空気を陽光へと塗り替えるような声の持ち主、我がライバルことラフィエラ。外ハネの揺れるミディアムボブを弾ませながら、そこが定位置であるかのように私の隣へ並び立った。
「…なるほど、そういうことでしたか」
「察しが良くて助かります。では、私はこれで」
「ルミア様、お待ちください。わたしも自分の席を確認しております」
「それがわたくしが待つ正当な理由たりえるとでも?」
「『たとえ相手が間違っていたとしても釈明はさせる、それが高貴な者が持つべき慈悲』。私の推し…失礼、ルミア様の金言です」
「…ぐぬぬ…」
…本当にこの子は変わらなくて、そして何を考えているのかわかりかねますわね…。
ラフィエラは私の言葉──悔しいけれど、ちゃんと口にした覚えがある──を詩集のように引用し、笑顔のまま掲示板を確認する。それもゆっくりと。
その様子は苛立たしいことにまた周囲の視線を集めたけれど、一人だったときより明らかに性質が違った。ラフィエラの天真爛漫さに、貴族階級特有の毒気が抜かれたというべきか。
「進行補佐欄が空白…なるほど、これはちょうどいいですね。ルミア様、僭越ながらこのラフィエラ、わたしがあなたの補佐に入らせていただきます」
「…は?」
「今回の補助卓は家格差が大きいうえ、初参加の方もいらっしゃいますよね? でしたら実習規程第三項、進行補佐を一名追加できますから」
「できますけれど、通常は教員か礼法委員が適切です」
「でしたら仮登録で構いません。承認はあとで通しますので、まずは進行を乱さない形を取りましょう」
「ですから、わたくしの話を…」
…この流れ、まずい…。
ラフィエラは私の置かれた状況を悲観するでもなく、侮蔑することもなく。まるで演劇のように胸へ左手を当て、右手を差し伸べてくる。
「ラフィエラ様が補助卓へ…? なぜ?」
「ご自分の席を移られるの?」
「そこまでする必要が…だけど、妙に楽しげですわ…」
勝手に始まった私たちのオペラは、この場の空気をさらに塗り替え、別の意味で呼吸が詰まりそうになる。
この女…ラフィエラ・セラフィーナ・ド・アストレアは。私の言葉を翻訳するだけでなく、ときに引用し、自分に都合のいい形へ整えて、私の世界へ踏み入ってくる。
…忌々しい…! 忌々しいですわ、アストレア侯爵家令嬢…!
「これは実習、滞りなく進めることが最優先です。ルミア様もかつて…」
「わ、わかりました! 仮登録でもなんでも好きにすればいいでしょう!」
「うふふ、やりました…失礼。本日はこのラフィエラ・セラフィーナ・ド・アストレアがルミアリエル・エルネスティーヌ・フォン・ヴァルドシュタイン様の補助をさせていただきます。可能であれば、これからも、ずっと」
「…戯れ言を! さっさと礼法委員に報告なさい、わたくしの補佐をする以上、失敗は許しませんわよ!」
アストレアの侯爵令嬢が自分から一段低い席へ降りるなど、いくらでも好奇の目と憶測を集める。にもかかわらず、ただ事態を収めるために妥協した私へ、ラフィエラは騎士のように恭しい礼をした。
…ずっと? ふざけないでくださいまし…!
制度を利用してまで私の隣に収まろうとするラフィエラ。その真意が最後までわかりそうにない自分の愚鈍さに腹を立て、その場をのしのしと離れた。
当然ながら、この女はいそいそと半歩後ろをついてきた。
*
講義棟へ向かう途中、回廊の脇道から小さな話し声が聞こえる。
掲示板から離れてすっかり静かになった空間では、そうしたやりとりも労することなく耳に入った。
「リオネ様、いつも無理に笑わなくてよろしいのです。もしあの方に何か言われたら、怖かったとだけおっしゃればよいだけ」
「で、でも…私、まだ何も…されて、ません…」
「だからこそですわ。お優しいあなたは、つい平気なふりをなさるでしょう? さすがは“聖女候補”、身も心もお美しい…しかし、それだけでは」
思わず足を止める。ラフィエラも『待て』を命じられた忠犬のごとく、私の動きにわずかな遅れも見せず反応した。植え込みの影になった細い通路の先に、日差しを反射するほどまばゆいパールホワイトの、胸下まである長い髪が見える。
リオネ・ヴィオレッタ・ド・グレイヴ。聖女候補として名が広まり始めた男爵令嬢だ。彼女の前には、上級生と思しき令嬢が二人、やわらかな顔で立っている。
…その柔らかさが優しさからではなく、自分の悪意を隠すために貼り付けられたものだとすぐに気づく。声音も同じで、相手を気遣うように静かでありながら、返事だけを切り取る刃のような鋭さを隠していた。
(…怖かった、とだけ言えばいい…事実はいらぬ、形だけ整えればどうとでもできる…)
リオネは困ったように指先をもつれさせている。否定したいのに否定の仕方を知らない、初雪よりも脆い表情だった。真っ白な肌に青みが差し、その隠し切れない善良さが、悪意の尻尾を私に掴ませようとする。
「…行きますわよ」
これはラフィエラに言ったのではなく、自分に言い聞かせたまで。
そうでもしなければ、この女の察しの良さを認めたみたいで癪だった。
けれど本当に腹立たしいのは、すぐに助けられない自分の不甲斐なさのほうだ。
私が今ここで姿を見せればどうなるかくらい、考えるまでもない。上級生に心配される聖女候補を追い詰めに来た悪役令嬢──そういう絵が完成するだろうから。
(ならばどうしますか、ルミアリエル・エルネスティーヌ・フォン・ヴァルドシュタイン…決まってます)
聖女候補を悪用するような禍々しい宗教画は、この手で破り捨てるまで。
その決意を示すように、あえて聞こえるほど大きめの足音を立てて歩いた。ほどなく、リオネを包む悪意は聞こえなくなった。
*
「異議があります。給仕先導は輪番制のはずです、初参加者をいきなり先導役に置くのは規程違反でしょう。まして聖女候補だからと順番を飛ばすのは、公平性に欠けます」
礼法実習の教室では、先ほどの席次表どおりに卓が組まれていた。白布の上に茶器、菓子皿、記録用紙が置かれている。
補助卓は中央から少し外れ、全体の様子がよく見える代わりに、誰かが失敗すればいちばん目につく位置にある。そして役割表には、リオネの名が給仕先導の欄へ入っていた。
教室へ足を踏み入れた瞬間、何人もの目が一度だけ私とリオネの名札を往復した。
初参加で、なおかつ聖女候補…目立たせるには都合がよすぎる。失敗しても、怯えた顔をすれば周囲が勝手に物語を補ってくれるだろう。
「ルミアリエル様、それは…」
「見学席へ下げなさい、と申し上げているのではありません。監督役をつけ、手順確認を先に済ませるべきだと言っているのです。失敗の責任だけ本人に負わせる配置は、実習ではなく見世物ではなくて?」
言い切った瞬間、何人かが息を呑む。
礼法委員が、ぎくりとこちらを見た。私はその視線を真正面から受け止め、今日も“正義”を示すために悪役たらんとした。
リオネは目を丸くしている。助けられたとは、たぶん思っていない。ただ自分の名をめぐって話が進んでいることに困惑し、また指先をもつれさせていた。
…あの仕草も、いつか控えさせねばなりませんね。
「ルミア様のおっしゃるとおり、『順番を守って、教える側の責任を明確にしましょう』という方針にすべきですね」
悪役令嬢の登壇へ合わせるように、ライバル令嬢の声が響く。
ラフィエラの声が届くだけで、周囲の呼吸は元通りになりつつあった。
「リオネ様だけに失敗を背負わせる形では、実習記録としても不適切です。今日の補助卓にいる私が進行補佐を兼ねますので、どうかよしなに」
「…承知しました。その形で進めます」
礼法委員はかすかに迷っていたものの、やがて記録用紙の役割欄を訂正する。リオネの名の横に『監督付き』と書き込み、その隣へラフィエラの名を足した。
ラフィエラはそれへにこやかに頭を下げたあと、私にだけ聞こえる声で囁く。
「『手順は選ばれし誰かのものじゃない、すべての人間が公平に使うものであるべき』…ですよね、ルミア様?」
「…今は礼法の授業中、得意げな顔は控えるように」
「あら、これは失礼を…あまりの感動に、本音が漏れてしまいました」
「感動? あなたの感性、やっぱり理解できませんわね…」
…やはり、レイナよりもよっぽどこの子のほうが理解できない。
またしても勝手に私の言葉を引用し、どこへ向けたのかわからない感動を伝えてくる。その顔は、まるで戦いを制した人間みたいに誇らしげだった。
まあ、いい。わからないことを考えるよりも、今は目の前の実習に集中するだけ。
以降は大きな混乱もなく、リオネもまた監督役の指示どおりに動き、失敗らしい失敗もなかった。そのかわり、教室じゅうの視線がリオネと、異議を唱えた私たちのあいだを忙しく往復していた。
*
終礼後、資料を返却するために廊下へ出たところで低い声が聞こえる。
私たちはリオネのときと同じように、また足を止めて様子を窺う。
「…今の件、見ていた令嬢を何人か押さえておけ」
「どの部分を?」
「聖女候補殿が怯えていた、そこだけで十分だ。言葉はいくらでも整えられる」
柱の向こう、王太子付きの側近が二人で淡々と話している。片方は小さな手帳を開き、もう片方は通りかかった生徒に何食わぬ笑顔を向けていて、まったく威圧感はない。だからこそ、余計に手際がいい。
そうすることがずっと前から決まっていて、手順通り進めているように。
「となると…あのとき、ルミアリエル様に厳しく言われて怖かった、と。そう“証言”できそうな方から順に…」
(…証言? 聖女候補を使ってまでわたくしを…)
足を止めたまま、指先だけを握り込む。左手の紋章は、驚くほど冷たい。
実際に起きたことより、どう言わせるか。
その段階に、もう入っている。
「ルミア様。今日も図書館、ご一緒しませんか?」
「…いやだと言ったら?」
「そうですね…とりあえず泣いてしまいますから、胸を貸していただければ」
「…それくらいなら図書館へ付き合います。なので、甘える相手を間違えないように」
声も言葉も軽いのに、ラフィエラの目は笑っていなかった。
それに怯えたわけじゃない。けれど、今日も私は図書館へと向かう。
掲示板で感じた空気はまた鋭さを取り戻し、私の喉元を狙う。その前に。
席次表の刃とラフィエラの言葉をかわすように、私はまた音を立てて歩き出した。




