白い部屋
目を開けると、白だった。
壁も、床も、天井もない。
白い霧の中に、ただ自分だけが立っている。
音がない。
風もない。
自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
「……また?」
アスは小さく呟いた。
死んだのか。
それとも、気絶しただけか。
白い場所にいる時点で、どっちでもおかしくない。
アスは、さっき起きたことを一つずつ並べる。
古い木造の小屋。
桃色の髪の少女。
胸元の紋章。
頭が割れる痛み。
仮面の集団。
光の剣が身体に絡みつく感触。
アルフレッドとかいう、やたら美形の男。
そして――「捕えろ」。
「……意味わかんねえな」
言いながら、アスはふと気づく。
そういえば。
さっきから、言葉が通じている。
会話が成立している。
詠唱の内容も、意味として理解できた。
(日本語圏?)
(いや、そんな都合よく……)
(でも、通じてる)
考えた瞬間、また胸がざわつく。
アスは額に手を当てた。
……そこ。
指先に、微かな凹凸が触れた。
皮膚の表面じゃない。
もっと奥から浮き上がるような感触。
「……ある」
確かに、紋章――刻印がある。
その感触に、見覚えがあった。
いや、正確には――“知ってる”。
それは漫画の中の記憶なのに、
自分の皮膚が覚えているみたいに、確信が走った。
「……キョーヤ」
声が漏れる。
竜環のエイドス。
キョーヤは竜族の末裔――という設定で。
竜族の力が覚醒したタイミングで、
身体に印が現れる。
悪党に妹を傷つけられて、
キョーヤが泣きながら覚醒する――あの名シーン。
読んでて「うわぁ……!」ってなったやつ。
(あれと同じ)
(俺の額に、ある)
アスは指先を額から離せない。
「……俺が、キョーヤ?」
「竜族の末裔?」
言ってから、すぐ自分で否定したくなる。
ありえない。
設定だ。漫画だ。
そんなのが現実に――
アスは白い空間をぐるぐる歩き始めた。
歩いても景色は変わらない。
足音すら、白に吸われる。
(でも、少女の胸の印も同じ系統だった)
(俺の印もある)
(竜環のエイドスに似すぎてる)
「んなわけないよなー……」
笑ってみる。
笑い声も、白に溶ける。
「いや……」
白い空間で、自分の声だけが返ってくる。
「いや……いやいや」
問答を何度か繰り返して、
アスはとうとう足を止めた。
腹を括る。
冷静に考えなくても、
デーモンがいて、魔法っぽいのがあって、光の剣が浮いて、空に人が浮いて、イケメンが詠唱してた。
現実にあるわけがない。
異世界。
そう呼ぶしかない。
「……認めたくないけど、認めざるを得ない」
アスは白の中で大きく息を吐いた。
次に、ふと頭をよぎった。
(現実世界で、悲しむ人は……?)
考えた瞬間、妙にあっさり答えが出た。
――いない。
気に留めてくれる人間が、いない。
親は尽くしてくれた。
生活はさせてくれた。
でも、いつの間にか出来の良い弟に夢中で、
自分は「不良にならなければそれでいい」みたいな扱いだった。
期待されない。
叱られない。
褒められない。
ただ、そこにいるだけ。
何者でもなかった。
その事実が、白い場所でやけに鮮明だった。
胸の奥が、軽くなる。
同時に、怖くなる。
(……自由だ)
(……ほんとに自由なのか?)
アスは握り拳を作った。
わくわくする。
この世界で、楽しみ尽くしたい。
でも、同じくらい怖い。
社会から完全に切り離される恐怖。
帰れないかもしれない恐怖。
その両方が、胃のあたりでぐちゃぐちゃに混ざる。
――そのとき。
白の奥から、闇が滲んできた。
墨を落としたみたいに、
静かに、でも確実に、白を塗り替える。
「……え」
アスが後ずさるより早く、
白い空間は黒い空間に変わった。
黒の中に、形が生まれる。
直線。
角。
薄い光の帯。
次の瞬間、そこは――
アパートの廊下だった。
コンクリの壁。
ドアが並ぶ。
天井の蛍光灯が、冷たく光っている。
見慣れた景色。
――一人暮らししていた自宅アパート。
「……は?」
アスの喉がひくついた。
廊下の先の一室が、カチャ、と音を立てて開く。
ドアの隙間から、男が顔を覗かせた。
見覚えがある。
いや、見覚えどころじゃない。
知ってる。
知りすぎてる。
アスの心臓が、嫌な跳ね方をした。
男は廊下を見回し、アスを見つけると、口角を上げた。
「……おい」
その声だけで、背中が冷える。
アスは、言葉が出ないまま立ち尽くした。




