第九話「もう一度、構える」
その日も、グラウンドには、いつもの四人がいた。
篠山陵人が黙々とキャッチボールを続け、原口大地が軽いノックの準備をしている。香川雄大はキャッチャーミットを手にはめながら、ふと一人の背中に目を向けた。
——三枝航平。昨日、バットを構えながら、それでも振ることができなかった男。
だが今日は違った。
三枝の手には、しっかりとバットが握られている。目はまっすぐ、前を向いていた。
「三枝、今日は振るのか?」
原口が半分笑いながら声をかける。
「……振るよ。たぶん、まだ怖い。でも、それでも振らなきゃ、前に進めない」
その言葉は、弱さの裏返しではなかった。
むしろ、怖さを隠さないまま立ち向かう、剥き出しの決意だった。
香川は頷き、ボールを持ってネット前に立つ。
空気が張り詰める。
(……怖くても、逃げなければ、意味が変わる)
香川は軽くトスを上げた。
三枝はバットを構える。
が、手がわずかに震えている。
バットのグリップを握る指先が、乾いたように冷たく、爪の内側が白くなるほど力がこもっていた。
一球目。
ボールが弧を描いて近づいてくる。
その瞬間、体がビクリと反応した。首が、肩が、かすかに後ろへ逃げる。
——だけど、足は止まらなかった。
バットが振られる。空を切る乾いた音だけが残る。
「……今の音、悪くなかったな」
香川が自然に、そう言った。
三枝は口をきゅっと引き結び、次の球を待つ。
二球目、トスされたボールが、バットの根元に当たる。ゴツン、と鈍い音がネットに響いた。
三枝が、少しだけ笑った。
昨日までの顔とは違う。何かが剥がれ落ちたような、透明な表情だった。
「怖さは消えない。でも、打ったときの感触が……少しだけ勝った気がする」
三枝のスイングは、まだ鈍い。
腰も遅れ、芯には当たらない。けれど——その一振りは確かに、過去を断ち切るための一歩だった。
グラウンドの外では、石田吉定が腕を組みながらその様子を見ていた。
黙って、表情も変えず、ただ三枝の動きだけを追っていた。
(いい目になったな)
そう心の中で呟いた。
言葉にしないが、わかっている。
——過去に何があろうと、一歩踏み出したやつは強い。
——傷ごと前に進めるやつは、チームの核になれる。
三枝は黙々とトスを受け続けた。
ボールは少しずつバットの芯に乗りはじめ、打球が軽やかにネットに弾けた。
風が吹き抜ける。
桜の花びらが、一枚だけ舞っては消えた。
そして夕方。練習が終わったあと、香川と三枝は並んで校門を出る。
制服の襟を立てている三枝が、ぽつりと口を開いた。
「……ありがとうな」
「え?」
「お前が何も言わずに、ただボールを投げてくれたから。俺……振れたんだと思う」
香川は少し笑った。
「俺も、人にガミガミ言われて立ち直るタイプじゃないからさ。何も言わないで隣にいる方が、たぶん合ってる」
沈黙が、ふたりのあいだを埋める。
夕日が背中を押すように坂道を照らす。
「……打てなかった日から、ずっと立ち止まってた。自分が野球部にいていいのかも、わからなかった」
「でも、来たじゃん。今日。グラウンドに」
「……ああ。逃げないって決めたから」
その声に、迷いはなかった。
止まっていたバットが、ようやく振られた。
その音は小さく、けれど確かに、**“心の奥の、誰にも触れられなかった場所”**を揺らしていた。
——十四の夏。砕けた骨とともに、自信も失われた。
——けれど今、十六の春。音が戻ってきた。
ほんのかすかな音だった。
でも、香川はそれをずっと忘れないと思った。
なぜならそれは、誰の応援も歓声もない静かな放課後で鳴った、
「再生の音」だったからだ。