表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/12

第九話「もう一度、構える」

その日も、グラウンドには、いつもの四人がいた。


篠山陵人が黙々とキャッチボールを続け、原口大地が軽いノックの準備をしている。香川雄大はキャッチャーミットを手にはめながら、ふと一人の背中に目を向けた。


——三枝航平。昨日、バットを構えながら、それでも振ることができなかった男。


だが今日は違った。

三枝の手には、しっかりとバットが握られている。目はまっすぐ、前を向いていた。


「三枝、今日は振るのか?」

原口が半分笑いながら声をかける。


「……振るよ。たぶん、まだ怖い。でも、それでも振らなきゃ、前に進めない」


その言葉は、弱さの裏返しではなかった。

むしろ、怖さを隠さないまま立ち向かう、剥き出しの決意だった。


香川は頷き、ボールを持ってネット前に立つ。

空気が張り詰める。


(……怖くても、逃げなければ、意味が変わる)


香川は軽くトスを上げた。


三枝はバットを構える。

が、手がわずかに震えている。

バットのグリップを握る指先が、乾いたように冷たく、爪の内側が白くなるほど力がこもっていた。


一球目。


ボールが弧を描いて近づいてくる。


その瞬間、体がビクリと反応した。首が、肩が、かすかに後ろへ逃げる。


——だけど、足は止まらなかった。


バットが振られる。空を切る乾いた音だけが残る。


「……今の音、悪くなかったな」

香川が自然に、そう言った。


三枝は口をきゅっと引き結び、次の球を待つ。

二球目、トスされたボールが、バットの根元に当たる。ゴツン、と鈍い音がネットに響いた。


三枝が、少しだけ笑った。

昨日までの顔とは違う。何かが剥がれ落ちたような、透明な表情だった。


「怖さは消えない。でも、打ったときの感触が……少しだけ勝った気がする」


三枝のスイングは、まだ鈍い。

腰も遅れ、芯には当たらない。けれど——その一振りは確かに、過去を断ち切るための一歩だった。


グラウンドの外では、石田吉定が腕を組みながらその様子を見ていた。

黙って、表情も変えず、ただ三枝の動きだけを追っていた。


(いい目になったな)


そう心の中で呟いた。

言葉にしないが、わかっている。


——過去に何があろうと、一歩踏み出したやつは強い。

——傷ごと前に進めるやつは、チームの核になれる。


三枝は黙々とトスを受け続けた。

ボールは少しずつバットの芯に乗りはじめ、打球が軽やかにネットに弾けた。


風が吹き抜ける。


桜の花びらが、一枚だけ舞っては消えた。


そして夕方。練習が終わったあと、香川と三枝は並んで校門を出る。

制服の襟を立てている三枝が、ぽつりと口を開いた。


「……ありがとうな」


「え?」


「お前が何も言わずに、ただボールを投げてくれたから。俺……振れたんだと思う」


香川は少し笑った。


「俺も、人にガミガミ言われて立ち直るタイプじゃないからさ。何も言わないで隣にいる方が、たぶん合ってる」


沈黙が、ふたりのあいだを埋める。

夕日が背中を押すように坂道を照らす。


「……打てなかった日から、ずっと立ち止まってた。自分が野球部にいていいのかも、わからなかった」


「でも、来たじゃん。今日。グラウンドに」


「……ああ。逃げないって決めたから」


その声に、迷いはなかった。


止まっていたバットが、ようやく振られた。

その音は小さく、けれど確かに、**“心の奥の、誰にも触れられなかった場所”**を揺らしていた。


——十四の夏。砕けた骨とともに、自信も失われた。

——けれど今、十六の春。音が戻ってきた。


ほんのかすかな音だった。

でも、香川はそれをずっと忘れないと思った。


なぜならそれは、誰の応援も歓声もない静かな放課後で鳴った、

「再生の音」だったからだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ