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第八話「止まったバット」

放課後の明光高校グラウンド。まだ春の名残を引きずる空気のなか、打球音だけが乾いたリズムを刻んでいた。


パチン。

パチン。


簡易ネットの前で原口が軽やかにバットを振る。篠山が手首のスナップで球を上げ、香川がそれをネットの裏で見守る。


三人の間には、小さな連帯感が育ちつつあった。誰もが器用なわけじゃない。だが、それでも確かに前へ進もうとする空気があった。


その輪の外。

ベンチの片隅、グラウンドを見つめている男が一人いた。


三枝航平。

彼はバットを持ったまま、立っていた。だが構えることも、歩み出すこともない。ただ、目だけが、仲間のスイングの行方を追っていた。


「三枝、打たないのか?」


香川が声をかけると、三枝は一瞬だけ目を動かし、かすかに首を振った。


「……いや、今は見ていたい。先に、みんながどう打つか知りたいだけ」


その声には、誰も触れてほしくない傷の膜が張られているようだった。香川はそれ以上、追及しなかった。けれど、石田は遠くから視線を向けていた。


しばらくして、原口のスイングが一区切りつく。


「……次、三枝の番だな」


香川が改めて声をかける。


三枝はわずかに頷いた。そして、まるで重しを引きずるような足取りでバッターボックスへと向かった。


篠山が軽くトスを上げる。

ボールは緩やかに弧を描いて三枝の前に落ちる——が、バットは動かない。


二球目。

三枝は体をのけぞらせていた。ボールはミットに収まり、グラウンドにかすかな音が跳ねた。


三球目。


パタン。


バットが砂の上に落ちた。


「……無理だ」


小さな声だった。けれど、確かにその場の空気を変えた。


香川が駆け寄ると、三枝はキャッチャーマスクを取り、顔を伏せたまま言った。


「十四のとき……クラブチームの試合で、顔に死球を受けたんだ。ヘルメットの隙間から直撃で……頬の骨が砕けて、救急車呼ばれて……それから、バットが振れなくなった」


三枝の目は、遠くの何かを見ていた。時間を超えて、戻れない場所を。


「それまで、バッティングだけは自信があった。打つことで、自分の価値を感じてた。でも……あの日から、球が来るたびに体が勝手に逃げるんだ。頭じゃわかってても、体がもう……ダメで」


香川は何も言わなかった。けれど胸の奥に、何かが刺さっていた。


——バスケを辞めた日。

——ミスをして、罵倒され、逃げた自分。


種は違っても、同じ“痛み”の根を感じていた。


少し離れた場所。原口がポツリとつぶやいた。


「それでも……グラウンドには来たんだな、あいつ」


石田はタバコの火をつけることもなく、指で潰して言った。


「踏み出さなきゃ、振れねぇまま終わる。だが……踏み出せば、また動き出すこともある」


練習は、それきり終わった。


三枝のスイングがバットに乗ることは、最後までなかった。


けれど、香川には見えていた。


帰り支度をする三枝の手。

その手が、バットを握る指が、ほんのわずかに、強くなっていたことを。


夕暮れがグラウンドを赤く染める。

風が吹く。影が伸びていく。


誰にも見えない場所で、一つのバットが、止まったままの時間をそっと揺らしていた。


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