第四話「最初の練習」
四月の終わり。明光高校の校庭には、じわじわと初夏の気配がにじみ始めていた。強すぎない陽射し、けれど確実に季節が進んでいることを告げる風。生徒たちの制服の袖も、少しずつ腕まくりが増えてきた。
その日、放課後。
香川雄大は、部室の重たい扉を開けた。ギィ、と鈍い音を立てて開いた室内には、長い時を経て眠っていた道具たちが、無造作に置かれている。
油の染みが残るミット、剥がれかけたグリップテープのバット。どれも使い込まれてはいたが、完全に朽ちたわけではない。
「これ、全部……昔のやつかな」
ポツリとつぶやいた香川の背後から、篠山陵人が顔を出した。
「古いけど、まだ使えそうだな。むしろ、雰囲気あっていいかもな。名門の残骸ってやつ?」
「……そういう言い方、ちょっと切ないけど」
二人は苦笑した。整備されつつあるグラウンド、そしてこの部室。すべてが“再出発”の象徴だった。
「じゃあ、今日は軽くキャッチボールして、最後にノックやって終わりにしようか」
顧問の石田吉定が現れ、ゆるく声をかけた。
口調は投げやりに聞こえるかもしれない。けれど、その目はずっと二人の動きを追っていた。明らかに“指導者”の目だった。
「香川、お前はキャッチャーだな。構えは適当でいい。逃げるなよ」
「……わかりました!」
香川はグラブをはめ、篠山と向かい合った。久々にボールを受ける緊張感が、胸の奥を刺激する。
篠山は、軽く息を吸い込み、ボールを握った。短く助走をとって、右手を振り抜く。
ズバッ。
空を裂くような音。香川のグラブに重みが伝わった。
「っ……」
痛みのある衝撃だったが、手応えもあった。
「お前、野球経験あるな」
石田が声をかける。
「中学でピッチャーやってました。っていうか、それしかやったことないです」
「外野は?」
「やったことありません」
「じゃあ今日は、やってみろ」
篠山の眉がぴくりと動く。「外野、ですか?」
「ああ。キャッチャー一人じゃノックにならんし、ピッチャーがボールを追いかける姿ってのも、面白ぇからな」
篠山は、軽く口を引き結んだ。明らかに不満の色があった。
ピッチャーは自分のアイデンティティ。それを否定されるようで、どこかむずがゆい。
けれど、それでも言い返さなかった。
「……わかりました」
石田はノックバットを手にし、グラウンドの中央へと歩く。
「よーし、行くぞ!」
最初の打球は、左中間に大きく跳ねた。篠山は一瞬遅れてスタートし、ぎこちなく走る。体の動きが固い。捕球姿勢も甘く、やっとの思いでボールに追いついた。
「遅い! それじゃ投手の足運びだ。外野はもっと、ボールに食らいつくんだよ!」
「はいっ!」
息を切らしながら返事をする篠山。その額には汗がにじんでいた。
「いいか、篠山。投げるだけが野球じゃねぇ。捕る、走る、打つ――全部やって初めて、投げる意味がわかるんだ」
その言葉に、篠山は何も言わなかった。ただ黙って、次の打球に備えた。
一方、香川はキャッチャー練習に取り組んでいた。
膝を落とし、構えたミットに集中する。だが、久々の球は簡単に捕れない。ボールは時折ミットからこぼれ、足元で弾ける。
(やっぱり、まだ全然ダメだな……)
それでも香川はやめなかった。何度でも構え直した。小学生時代の感覚が、少しずつよみがえるのを信じて。
「もっとミットの角度を意識しろ。あと、キャッチするより“受ける”意識だ」
石田の助言が飛ぶ。
「“受ける”……?」
「ミットを止めるんじゃねぇ。球の力を吸収するんだ。殺すイメージで、包み込め」
「……はい!」
香川は再び構え直し、ボールを受けた。
ズン。
一球ごとに、少しずつミットの中で音が変わる。乾いた音から、重みのある音へ――
(……少しだけ、手応えが出てきた)
その頃には、篠山もだいぶ外野の動きに慣れてきていた。
最初はギクシャクしていた体の動きも、次第にスムーズになっていた。
——ピッチャーだからって、守備ができないわけじゃない。
汗をかき、ボールを追いかけるたびに、そんな意識が彼の中に芽生えはじめていた。
夕陽が、グラウンドを橙色に染める。
空を仰ぐと、雲ひとつない空。かすかに冷たい風が吹き抜ける中、三人の影が長く伸びていた。
「よし、今日はここまでだ」
石田がノックバットを肩に担ぎながら言った。
「……どうせやるなら、本気でやれよ。俺もそうする」
それだけ言って、石田はポケットから煙草を取り出した。火をつけ、深く一口吸い込むと、黙って夕陽を見つめた。
その後ろ姿を見て、香川は思った。
——この人は過去を語らない。でも、逃げているわけじゃない。
——あの背中には、確かに“野球”が残っている。
部員はまだ、たった二人。監督もいない、仮顧問だけの野球部。
けれどこの日、明光高校野球部は、間違いなく“最初の練習”を終えた。
それは、地味で、誰の目にも映らない、小さな一歩だった。
でも、香川にはわかっていた。
——この一歩が、何かを変えていく。