第三話「知ってる名前」
石田吉定――その名前を初めて聞いたはずなのに、どこか引っかかる。
放課後のグラウンド。香川雄大はスコップを両手に握り、地面を均していた。陽の光は少しずつ傾き始め、長く伸びた自分の影が、硬くなった土の上に落ちている。篠山陵人は部室で古い道具の整理をしており、今は別行動だ。
「……石田、吉定……」
口の中でその名前を何度か転がしてみる。
頭の中にふと浮かんできたのは、小学生の頃に見たある雑誌だった。古本屋で見つけた「ドラフト予想選手名鑑」。使い古されたその冊子の一角に、確かにその名前があった。
――石田吉定(東都大学リーグ・外野手)
――「守備と勝負強さに定評あり、玄人好みの打撃スタイル」
記憶の中の文字が、今でもはっきりと浮かぶ。あのときは、単に「変わった名前だな」と思っただけだった。でも今、目の前でその名前の持ち主が、煙草をくゆらせながらグラウンドを眺めている。
偶然にしてはできすぎている――いや、これは偶然じゃない。
意を決して、香川は口を開いた。
「……先生、昔、ドラフト候補でしたよね?」
石田は、小さく肩を揺らした。半ば予想していたかのような反応だった。
「どこで聞いた」
「聞いたんじゃなくて……昔、読んだんです。小学生のときに。『ドラフト予想選手一覧』って本に、名前が載ってました」
その瞬間、石田の表情がわずかに変わった。目元に一瞬、緊張が走る。
香川は、その小さな変化を見逃さなかった。
「よく覚えてたな」石田は静かに言った。
「なんか……珍しい名前だなって。だから印象に残ってて。でも、まさか目の前にいるなんて」
「そりゃまあ、昔の話だ。20年以上も前のな」
石田は、煙草を口にくわえたまま、目を細めて空を見上げた。その横顔には、言葉にできない重みがあった。
「でも、なんでプロに行かなかったんですか? 雑誌では期待されてたみたいだったのに」
その問いに、石田の表情がわずかに曇った。
風が一陣、グラウンドの隅をなでるように吹いた。シャベルを持つ香川の手に、砂埃が当たった。ほんの数秒の沈黙。その間に、石田は煙草を地面に押しつけて火を消した。
「理由なんて、山ほどあるさ」
やや声を落として、石田が言った。
「肩を壊した。メンタルが弱かった。運がなかった。……あるいは、そもそも、そういう場所に立つ器じゃなかった。そんなとこだ」
それはまるで、聞かれるたびに使ってきた“定型文”のような答えだった。けれど、香川にはすぐにわかった。
――この人、本当の理由を言っていない。
言いたくないんじゃない。知られたくないのだ。
「でも……それでも先生は、今、僕たちの顧問をしてくれてます。嬉しいです」
香川は素直にそう言った。
石田は小さく鼻で笑った。
「別に顧問って肩書きに誇りを持ってるわけじゃねぇよ。校長に頼まれたんだ。あの人、見る目あるんだわ。“お前、まだ現役の目してる”とか言われてな。……弱ぇんだよな、ああいうの」
「でも、先生……」
「……昔の話はもういいだろ。今は今だ」
話を切るように言ったあと、石田は腰を下ろし、拾ったボールを手のひらで転がし始めた。
「お前たち、なんで野球なんてやろうと思ったんだ? 今どき、高校野球なんて、報われるとは限らねぇのに」
香川は少し考えてから、答えた。
「……報われるかどうかより、やりたいかどうかです。僕は、中学では野球ができなかった。でも、ずっと……やりたかったんです」
「なるほどな」
その言葉に、石田の視線が少し柔らかくなったように見えた。
しばらくの沈黙。
そのとき、グラウンドの反対側から篠山が戻ってきた。手には錆びついた金属バットが2本。
「こっちはこっちで、骨董品の山だったぞ。バットもグローブも、半分は使えねぇ」
「そのへんは俺に任せろ。ツテがあるからな。とりあえず、部費は校長から引き出してみる」
「さすが顧問」と篠山が軽く言った。
石田はニヤリと笑い、立ち上がった。
「よし。今日はこのへんで上がるか。明日も放課後、また来い」
「グラウンド整備、まだまだですよ」
「若いんだから、ゆっくりやれ。時間はある」
それは“やる気がない”ようでいて、どこか“信頼”のようなものも感じさせる言い方だった。
夕焼けがグラウンドを赤く染めていく。
香川はその光の中で、石田の背中を見つめた。
——この人は、過去に何かを失った。
——そして、それをずっと心にしまってきた。
けれど今、再びこの場所に戻ってきた。
香川は確信した。
この人は、本気だ。
例えそれが、口では何も言わなくても。