第二話「野球部の顧問は」
「部室、こっちだってよ」
昼休み。香川雄大と篠山陵人は、案内図を手に校舎の隅の古い平屋に向かった。そこは、かつての倉庫を改装した仮設の部室だった。
ギィ……と、重たい鉄の扉を開けると、ホコリの匂いが鼻をついた。
「……ホコリくせぇな」
「でも、グラウンドは整備されてたし……ちゃんと準備されてるっぽいな」
中は殺風景だった。使い古されたグローブ、軟式と硬式が混ざったボール、割れたヘルメットに、スコアブックらしき紙束。古びた用具が無造作に山積みにされている。
「これ……全部昔の道具か?」
「たぶんな。でも、こういうの、ワクワクすんだよな。まだ何も整ってない感じ」
「……確かに。ここから始めるって感じがする」
そのとき、後ろの扉がギィ……と開いた。
「おい、勝手に入ってんじゃねぇよ」
振り向くと、スーツにくたびれたジャケット、無造作な髪と緩めたネクタイの男が立っていた。手にはファイルを持ち、目つきだけが妙に鋭い。
「……誰ですか?」香川が思わず一歩引きつつ尋ねる。
「新入部員か? 俺が顧問だ。石田吉定、社会科の教師な」
「え……?」
「マジで……?」
「香川と篠山、だったな。校長から聞いてた。今日からお前らの“世話係”ってことになる」
「先生、野球やってたんですか?」
「ちょっとな。草野球だけど。“星雲スターズ”ってチームで、選手兼監督。42まで現役だった」
「42まで!?」香川が目を丸くする。
「無駄に頑丈だったんだよ。肩も膝もガタガタだけどな。教員になってからは部活と無縁だったが、校長に頼まれてさ。“お前、まだ現役の目してる”って言われて……断れなかった」
篠山が少し身を乗り出す。「で、今はやる気あるんですか?」
石田は数秒間黙ったあと、ふっと笑って言った。
「ねぇよ。勝たせられるとも思ってない。でも……やりてぇって奴がいるなら、背中くらいは押してやってもいいかな、とは思ってる」
香川の胸が少し熱くなった。
「十分です。僕ら、まずは練習できる場所が欲しいだけです」
「じゃあ明日から、放課後1時間、グラウンド整備。俺は部室で寝てるから、やるなら勝手にやれ」
「寝るんですか……」
「おっさんの体力は貴重なんだよ。あとで手伝ってやるから安心しな」
石田はボールケースを横にどかして、折りたたみのパイプ椅子を引っ張り出して座り込んだ。
「ま、今の明光に野球部が必要かどうかは、俺にはわからん。でも、お前らみたいな変わり者が二人も動いてるなら……何かにはなるかもな」
「変わり者、か……」篠山が苦笑した。
香川はふと思い出す。——中学時代、野球部がなくて入ったバスケ部。新人戦のとき、緊張でディフェンスの立ち位置を間違えた。試合後、先輩に言われた言葉が今も耳に残っている。
「お前、マジで下手くそだな。やる気あんの?」
あのとき、返す言葉はなかった。ただ、数日後に「受験に集中したい」と言って部を辞めた。本当は違った。あの空気が怖くて、悔しくて、逃げただけだった。
——でも、野球は違う。
あの頃。少年野球チームでキャッチャーとして味わった、ストレートがミットに吸い込まれる感覚。
試合に勝って、みんなでガッツポーズした瞬間。
忘れていたようで、忘れたくなかった記憶。
「……明日、グラウンド行きます」香川が静かに言った。
「俺も。まずはやれることから、だな」篠山が続く。
「おう。じゃあ、よろしくな。部員1号と2号」
そう言って石田はファイルを投げ出し、椅子の背にもたれた。
——野球エリートではない。
でも、草の根で野球を続けてきた男の目には、確かに“まだ終わっていない”光があった。
グラウンドはまだ荒れている。部員は、たった二人。
けれどその日から、明光高校野球部は静かに、正式に、“再起動”を始めた。
そして石田吉定という、少しだらしなくて、でもどこか懐の深い顧問が——
のちに香川たちにとって“不可欠な存在”になることを、このときまだ誰も知らなかった。