8話
時刻は21時過ぎ、この時間ならクリスは自室でくつろいでいる。肌に悪い、という理由で彼は夜更かしをしない。22時を過ぎれば眠ってしまうので鈴香はクリスの部屋に急いだ。クリスの自室に入ったことはあるが必ずレイラが部屋の隅に控えていた。未婚の男女が部屋で2人きりになるのは外聞が良くないからだ。これから鈴香がやろうとしてることをクリスが知ったら、軽蔑されてしまうだろうか。
(そうなったらクリス様は心置きなく私を追い出せるし、成功しても互いに気まずくなるからクリス様も引き留めることはしないはず)
どっちに転んでも鈴香にとっては都合の良い状況になる。鈴香は意を決してドアをノックする。
「はーい、誰かしら?」
「…クリス様、私です。スズカです、夜遅くにごめんなさい」
「え!」
部屋の中からガタン、ガタン、という音が聞こえダダダ、とドアに駆け寄る足音がするとドアが開かれる。
「ちょっと、部屋を片付けていたのよ。さあさあ、入って」
出迎えてくれたクリスはシャツにトラウザーズ、上に黒いガウンを羽織っており、湯浴みの後だからか銀髪がほんのり湿っている。こんな遅い時間にクリスに会うのは初めてで、当然湯浴み後の無防備な姿を見るのも初めてだ。はだけたガウンの隙間から鍛えられた胸板が覗いており、色気が溢れていて直視することも難しい。緊張やら何やらで心臓の鼓動が早くなっていくが、悟られないように笑顔を貼り付け部屋の中に足を踏み入れる。クリスは少しだけドアを開けて鈴香を中央に設置されたテーブルに案内してくれた。ガチガチに強張った身体でどうにか椅子に腰を下ろし、そわそわと落ち着かない心地で視線を部屋の壁に向ける。
彼は少し待っていて欲しい、と部屋の奥に引っ込むと10分後、ポットとティーセットを持って来た。彼自らお茶を淹れてくれる。騎士養成学校時代は寮生活だったから、身の回りのことは大体出来ると言っていたことを思い出す。
「これ、眠れない時に飲むと良いお茶なの」
どうやらクリスは鈴香が眠れないから部屋に来たと思い込んでいるらしい。鈴香が何をしようとしてるのか、想像すらしてないのだ。裏切るような真似をしようとしてる自分に嫌悪感が湧いてくる。
「で、どうしたのかしら?眠れなくて暇だった?だとしても、こんな時間に男の部屋に来るのは感心しないわね〜。もしかして、わたしのこと男って認識してないとか?あんまり油断してるとパクッと食べられるわよ?なーんてね、じょうだ…」
軽快に喋っていたクリスは急に黙ってしまった。突然鈴香が立ち上がり、きっちり着込んでいたカーディガンを脱ぎ捨てたからだ。その下に来ているのは胸元が大きく開いたナイトドレス。薄手のドレスなので身体のラインがはっきり出て、豊満な胸の谷間もガッツリと見えるデザインだ。これはクリスデザインではなく、レイラがこっそり混ぜていたものだ。こんな破廉恥なデザインのドレス、着る機会なんて永遠にないと思っていたのに。
鈴香は恥ずかしさでどうにかなりそうだったが、どうにか耐える。クリスの視線は一貫して鈴香の目に注がれていて、胸元は一度も見ない。彼は何処までも紳士的だった。絶対に軽蔑されている、と絶望した。クリスは怪訝な顔で尋ねる。
「…スズカ、どうしたのかしら?風邪引くから上着を」
クリスは立ち上がり自分のガウンを脱ぎ、鈴香にかけようとするがその前に言い放った。
「私…この邸を出て行こうと思ってます」
「んんん!?え、なんで!?気に食わないことでもあった!?」
鈴香の発言に、いつも穏やかなクリスからは考えられないくらい慌て始めた。いきなり上着を脱ぎ始めた時よりも動揺している。そんなクリスと対照的に鈴香は淡々と、何故そう考えるに至ったを説明した。
「これ以上、厄介になるのが心苦しくて。でも、出て行く前にお礼をしないと、と思ったんですけど、良いアイデアが思いつかなかったんです…私、何も取り柄がないけど胸だけは大きいって言われてて。だから、みずぼらしくはないと思うんです。あ、でも私声がわざとらしくて萎えるらしいんで、不快にさせてしまうかもしれません。だから道具みたいに扱ってもらって、全く構わないので。それくらいしか、私には出来ないので」
自分の口から出た言葉が己の心をナイフとなってザクザクと刺してくる。刺された傷口から血が滲むかのように、痛みが襲いかかってきた。鈴香はずっと俯いている。とてもじゃないが、クリスの顔を見ることが出来ない。自分の発言に、何て下品なんだと引いていた。
鈴香は態とクリスに軽蔑され、嫌悪されるような言葉を選んでいた。はっきりと嫌われてしまえば、なんの未練も残すことなく…そう、あの日飛び降りた時と同じようにこの邸を出て行ける。クリスは鈴香に対し可愛いと頻繁に冗談を口にしていたが、こんな品性の欠片もない陰気な女なんて一瞬で見限るに決まっているのだから。
死刑宣告を待つ囚人の気持ちで、クリスの口から放たれるであろう罵倒を恐怖で小刻みに肩を振るわせながら待っていた。どのくらい時間が経っただろう。もしかしたら、1分も経っていないかもしれない。緊張とプレッシャーと恐怖の中、時間感覚が狂いつつあった鈴香の耳にクリスの声が届く。
「…色々言いたいことはあるけれど…スズカ、今すぐその口を閉じなさい」
ゾッとするほど怒りを内包した低く、静かな声が。聞いたことのないクリスの声に鈴香の背筋にゾクリ、と冷たいものが走った。恐る恐る顔を上げると、険しい表情、普段は柔和な色を帯びている青い瞳には激しい怒りの炎が宿り、その鋭い視線は真っ直ぐ鈴香に向けられている。
「そして、自分で自分を傷つける行為は、自分を貶める言葉を吐くのは辞めなさい。今のスズカは自分の身体をナイフで傷つけているのと変わらないのよ?身体でお礼?道具みたいに扱え?冗談でもね、そんなこと口にしたら絶対に駄目」
「でも、私それくらいしか価値が」
「はい今のも駄目。でも、は禁止〜」
要するに反論は受け付けないと、とんでもない理不尽を突きつけられたが、クリスの全身から発せられる圧と怒りのオーラを前にすっかり萎縮してしまった鈴香はただただ、彼の命令に従うしかなかった。
「はーい、これからお説教の時間よ〜」
にっこりと笑いながら額に青筋を浮かべるクリスを前に鈴香の表情は引き攣っていた。