5話
鈴香はこの日からクリスの邸で世話になることになった。クリス自ら案内してもらったが邸はとにかく広く、何処もかしこも手入れが行き届いている。しかしクリス曰くこれでも貴族、それも王族の住む邸としては小さく、使用人も必要最低限らしい。使用人の殆ども通いで、住み込みはレイラを含めたごく一部だけだという。そんな使用人達は皆鈴香に優しい。常に笑顔でこちらを敬ってくれ、何か言う前に察して行動してくれるというプロフェッショナルぶりを見せつけてくれる。
迷いびとと言いつつも得体の知れない女である鈴香が王弟であるクリスの邸に居候するなんて、不満を抱く人間が居ても不思議ではない。絶対1人は不満を露わにして、嫌がらせの1つでもされるのでは?と身構えていた。実家の使用人がまさにそうで、敬うどころか嫌がらせをして堂々と悪口を言ってきたこともある。妹に協力して鈴香が妹を虐めたと嘘の証言をした使用人もいた。両親に理不尽に罵倒される鈴香を皆して笑っていた。鈴香にとって使用人は信用出来ない存在だった。
やはり不安なのでそれとなく、遠回しに「突然やって来た自分の世話をさせられるのは不満ではないのか?」と思い切って若いメイドを捕まえて聞いてみた。するとメイドが自分の態度に問題があったのかと、怯えたように謝り出してしまった。
「違う違う、ほら私って得体が知れない不審者でしょ。そんな人間に仕えるのって不満じゃないのかなーって気になっただけで、あなたに何かあるとかじゃないよ」
メイドは説明するとあからさまにホッとした後、質問に答えてくれた。
「不満なんて、そんなのありません!迷いびと様は王族に匹敵する高貴な方、寧ろお仕え出来ることに感謝を申し上げたいくらいです!それにスズカ様は私のような下っ端にも優しいし、黒髪と黒い瞳は神秘的で美しくて恐れ多くも憧れているんです」
物凄く褒められ、恥ずかしくて居た堪れない。鈴香は曖昧に苦笑いを浮かべた。
「優しいって、普通じゃない?」
「いえいえ…ここだけの話高位貴族の中には使用人を同じ人間だと思ってない方、多いんですよ。私の友人が働いてる邸の夫人とご令嬢なんて気に入らないことがあると使用人に折檻するとか」
「そんな酷い人が居るの?」
「居るんです。でも、クリストファー殿下はとても温厚でお優しい方で、最初はちょっとビクビクしてたんですけど不安はすぐ消えました。主人が良い方だと使用人の雰囲気も良いんです。本当に一生この邸にお勤めしたいくらいで。とにかく、スズカ様に不満を感じてる人なんてこの邸には絶対居ません!」
年下のメイドに力説されると鈴香の中の不安が薄れていく気がした。それからもそれとなーく使用人を観察してみたが、やはりメイドの言う通り鈴香を侮っていたり見下した態度を取る者は居ないように見えた。レイラも常に鈴香の側に控え、何かと忙しいクリスに代わり気を配ってくれる。鈴香は初めての経験に感動を覚えることになった。
クリスは自分のことを更に詳しく教えてくれた。普段は王城の王立騎士団に勤務していて、役職はなんと騎士団長。本人はドレスのデザイナーを目指してのんびり暮らすつもりだったが、やはり周囲に反対されたらしい。騎士の道を選んだのも趣味のこともあって半ば無理矢理決められたとか。それでも周囲を恨んだことはないという。
「剣術の訓練も騎士養成学校での生活も苦じゃなかったわ。まあ喋り方で絡んでくる奴らを叩きのめしてたら、いつの間にかトップの成績で卒業してたの。結構性にあっていたのかもね」
それで団長にまで昇り詰めているのだから、才能もあったのかもしれないが…
「凄いです。クリス様が努力された結果なのでしょうね」
鈴香にはクリスが眩しく見えた。クリスは自分の意思で選んだ道ではないのに、驕ることなく努力して結果を残している。鈴香とは何もかもが違い、隣で話してることすら恐れ多いと感じてしまう。
しかし、クリス本人は他愛もない返しか出来ない鈴香の言葉にいたく感動しているようで、嬉しそうに表情を綻ばせた。高貴な身分なのに、近寄りがたい雰囲気がなく馴れ馴れしく話しても良いのでは、と錯覚してしまうほどだ。実際、クリスは鈴香が距離のある話し方をすると悲しそうにするので必然的に、タメ口は無理だとしても友人に接するような気安い話し方になっていった。
クリスは鈴香のことをとにかく知りたがった。
「スズカの好きな食べ物は?何でも言ってねシェフに伝えるから。そうそう、お米もあるのよ」
「あるんですか?」
「あるのよーそれが。あれ美味しいわよね」
迷いびとの知識を元に稲を開発し、米として流通し始めたのがここ100年ほど前のこと。米を使った料理も国中で食べられているらしい。日本人なのでパンより米派の鈴香は少し考えたのち、オムライスと答えると作ってくれるという。しかも卵がとろとろなやつ。実際食べたらとても美味しく、食に興味がなかった鈴香は食事が楽しみになっていた。
クリスは仕事で遅くなったり、遠征で遠出をする時以外は鈴香と食事を摂るようにしている。今までずっと1人で食事を摂っていたから、人と食べるのはどうも慣れない。食事中、クリスは鈴香によく話しかけてくる。言葉に詰まったり、上手い返しが出来なくても馬鹿にしたり蔑んだりしない。ただ食事をして話しているだけなのに、空っぽだった心が満たされていく不思議な感覚に陥る。クリスは鈴香の好みや趣味は聞いてくるが、元の世界でどのように暮らしてたかは尋ねてこない。楽しい思い出より辛い思い出の方が圧倒的に多ので、もし尋ねられたら不自然な態度を取って心配させてしまう。だから何も聞いてこないクリスに感謝していた。
クリスは鈴香の趣味も知りたがり、読書が好きと知ると邸の書庫の本を自由に呼んで良いと許可してくれて、気になる本があれば何でも取り寄せると言ってくれる。そして本だけではなく、クリスは鈴香の部屋を飾る小物や装飾品も手配し始めた。
鈴香の部屋は最初に寝かされていた客間をそのまま使わせてもらっている。シンプルな部屋だったがクリスがファンシーで可愛いぬいぐるみをたくさんプレゼントしてくれる。贈られたウサギやクマ、猫に犬、皆首に綺麗な石を付けていた。何とこれらはクリスがデザインしたものだという。クリスはドレス、ぬいぐるみや人形のデザイナーとして界隈では有名らしい。
「もうね、反対されても己の道を突き進んだわ。変人って言われることも多いけど兄や姪っ子達、うちの使用人や同僚は理解してくれるから全く気にならない。本業だって手を抜いてないし文句をつける隙を与えてないから、頭の硬い年寄り共はいつも悔しそうなの。それでもうるさい輩には100倍にして返してるわ」
ふふん、と意地悪気に笑うクリス。強い人だ、と鈴香はクリスを心の底から尊敬した。鈴香には周囲の悪意を跳ね除けて、正面から戦う力はなかった。諦めて、俯いて黙っているだけだった。やはり彼は鈴香には眩しすぎる存在だ、と再認識してしまう。
クリスは邸から出ない鈴香にドレスも贈り始めた。初めは既製品かつコルセットを使わないタイプのドレスを十着、それからは鈴香の顔立ちや雰囲気に合わせたオーダーメイド(クリスデザイン)のものが届けられるようになり、鈴香はあまりの量に圧倒されてしまった。着せ替え人形のように次々とドレスを着せられ、ほぼ全てにクリスは「似合ってるわ、可愛い!」と好意的なコメントをくれる。本当に良い人だと思う。
鈴香はずっと邸に籠り読書をしたり、頼み込んでエルドバード王国について知りたいと招いてもらった教師に勉強を教わっていた。こんなにドレスを貰っても着る機会がない、と言えば。
「そうね、そろそろ外に出てみましょうか。わたしがいる時はわたしが。それ以外の時はレイラと護衛を連れて行ってね、必ず」
というクリスの言葉で鈴香の初めての外出が決まった。レイラがやっと思う存分鈴香を着飾ることが出来る、と張り切り出す。その勢いに鈴香は押され気味であり、レイラ含めた侍女達にされるがままになっていった。