2話
(…ん?)
薄らと目を開けると視界に広がるのは知らない天井。パチパチ、と何度も瞬く。鈴香の目がおかしくなければシャンデリアが見える。英国だか、あの辺りの国の城を紹介しているテレビでしか見たことないやつだ。
そして鈴香はとてもフカフカしているベッドに横になっている。一人暮らしで使っていたシングルベッドと比べ物にならないくらい寝心地が良い。目が覚めたばかりなのに、また眠ってしまいそうだ。チラチラと目だけで周囲を見渡す。どうやらベッドは上からレースの布で覆われているようだ。
(これ天蓋って言うんだっけ…テレビでしか見たことないよ…)
そもそも何故鈴香はフカフカベッドで寝ているのか。確か屋上から飛び降りたと思ったら、物凄い美形が目の前にいて…。
「そうだ、キスされて、気絶したんだ。いやあれ人工呼吸だし、キスじゃないし」
ブンブンと頭を振る。これは夢なんだろうか。とっくに死んであの世にいる鈴香に神様が慈悲で見せてくれる夢。ならば納得出来る。銀髪碧眼の美形なんて現実に存在しないし、あまつさえキス(人工呼吸)されるなんて夢でなければあり得ない。
「夢でも良いや、あんな綺麗な人にキスされるなんて。神様なんて信じてなかったけど、結構良い夢見せてくれるんだ」
あまりに不憫な鈴香を憐れんでのことだとしても、今の鈴香は満たされていた。これなら何の未練もなく天国に行ける。
「この夢、いつ醒めるのかな」
鈴香が呟くとコンコン、とドアをノックする音が響く。「入るわよー」という声と共に2人の人間が入ってくる。1人はさっきの美形、後ろにはメイド服を着たこれまた赤毛を一つに纏めた美しい人が控えていた。
「あら?目が覚めたのね?良かったわー!医者からは衰弱が激しいって言われていたから、目が覚めないんじゃないかって心配してたのよ〜」
素早く駆け寄って来たのはさっきの美しい人。
(あれ、この人声低い。よく見ると喉仏が)
そういえば、さっきこの美人声低いなーとぼんやり思っていたが今やっと分かった。男だ、この人。目が覚めたばかりで頭が混乱していたからか、こんな簡単なことに気づかなかったのだ。人工呼吸されて、気絶してしまった理由も本能的に彼が男だと悟っていたからかもしれない。彼はメイドより頭一つ分背が高く、身を包む黒を基調とした軍服のような服の上からでも分かるほど身体が鍛えられているのが分かった。かといって筋肉隆々というわけでもなく、バランスよく鍛えられておりスラリとした体躯は端正な顔立ちと共に目を惹かずにはいられない。
(私、この人と…)
ボーッとしている鈴香の顔をズイ、と男は覗き込む。突然至近距離に美の暴力を浴びた鈴香は仰け反った。
「ぼんやりしてるけど、あなた本当に大丈夫?またお医者様呼んで診てもらったほうが」
「だ、大丈夫です!あの、助けていただいてありがとうございました。私、何で自分がここにいるのか分からなくて」
医者を呼ぼうとする男を止めた鈴香は、自分が何故ここにいるのか分からないことを告げる。男は近くにあった椅子をベッドの横に持って来て座ると、やや考え込んだ後口を開く。
「…そうよね、何でここにいるか分からないわよね。あなた、ここではない別の世界から来たんでしょう?」
突然問いかけられた質問の意味が理解出来ず鈴香は黙りこくった。別の世界?夢ではないの?もしくは天国?と頭が混乱する中どうにか言葉を絞り出す。
「…別の世界?夢ではないんですか?」
「夢じゃないわ、すぐには信じられないだろうけど現実なの。ここはエルドバード王国という国」
「…?そんな国ありませんよ…え、まさか本当に」
知らない国名を聞かされると段々と美しい人の語ることが現実味を帯びて来た。試しに頬をつねる痛かった。夢じゃない、と鈴香は衝撃を受け「頬をつねるのダメよ、あざになるわ」と何故か美しい人に怒られてしまった。
美しい人は現状を理解しきれない鈴香に懇切丁寧に説明をしてくれる。
「黒い髪に黒い目の人間が何の前触れもなくこの世界に現れることは良くあることなのよ。わたしたちは『迷いびと』と呼んでるわ」
「迷いびと」
「数百年くらい前から突然現れる迷いびと。彼らはニホンという島国からやって来たと話していたわ。この国と違い魔術がなく科学が発展している国なんでしょう?話を聞くだけでも興味深い国ね、行ってみた…ごめんなさい話が逸れたわね」
「いえ…数百年前?その時代は江戸時代、科学なんて存在してません」
「他の迷いびとも同じことを言っていたわ。どうやら迷いびとがやってくる時間軸は全員ほぼ変わらないようなの。ヘイセイ、レイワという時代からやって来ているらしいわ」
数百年からやって来る日本人、しかし来る時代は近代から。どういう仕組みなのか全く分からないが、彼らも未だ全容を解明出来ていないらしい。迷いびとには特殊な能力が備わってるわけではない。しかし、迷いびとが降臨した地域では大災害が起こらない、人の命を次々と奪う恐ろしい疫病が流行らない、農作物の収穫量が多くなる、等といった現象が起きる。恐らく迷いびとは悪しきものを寄せ付けず、恵みをもたらす存在なのでは?という説が囁かれていた。だから衣食住に困らない生活を保証されるし、大抵の望みは叶えてもらえるらしい。居るだけで幸福をもたらす神の遣い、などと大仰な呼び名もあるとクリスは語る。
(空気清浄機みたい、私の身体汚いものを浄化するオーラとか出てるのかな?全く分からないけど)
ますますファンタジーな世界だな、とぼんやりと考える。一気に説明されても理解するのに時間を有していると、ハッと男が何かに気づいたような顔をした。
「やだわ、わたしったら自己紹介もせずにダラダラと一方的に説明ばかり。ごめんなさいね。改めまして、わたしはクリストファーよ。クリスって呼んで?」
ニッコリ微笑む美しい人、改めクリストファー(クリス)からはそれ以外の呼び名は認めない、という無言の圧を感じる。鈴香にとって初対面の異性を呼び捨てにするのはハードルが高いのだが無理とは言えない雰囲気だ。
「わ、分かりました。クリス…さん。あ、私は伊集院鈴香と言います」
「スズカ…あなたスズカって言うのね。綺麗な名前だわ」
噛み締めるようにクリスは鈴香の名を繰り返す。名前を褒められ、鈴香の頬が照れ臭さからほんのり赤くなる。名前を気にしたことはなかったが、褒められれば嬉しいなんて単純な性格をしてると思う。
「それでね、スズカ。目を覚ましたばかりのあなたに告げるのは酷だと思うけど…こちらの世界に来た迷いびとが元の世界に帰った事例はない。はっきり言うと、あなたはもう帰れないってことなんだけど…」