1話
もう疲れた、と鈴香は自分の住んでいるマンションの屋上から呟く。今の鈴香は柵に寄りかかっているのではなく、柵を乗り越えて雲一つない、ムカつくくらい綺麗な夜空を見上げていた。
鈴香は今まで自分なりに努力してきたと思う。自分ではどうしようもない理由で両親に嫌われ、当てつけのように妹を可愛がる様を見せつけられ、使用人に軽んじられ学校に通えば根も葉もない噂で孤立させられても歯を食い縛って生きてたのに、理不尽に全部奪われた。鈴香の元には何も残っていない。この先生きていてもあいつらは絶対邪魔をする。何もしていない鈴香を異常に憎み、貶めようとしてくる。もう猶予はない。このマンションも裏から手を回されて引き払われてしまう。
最初は会社を解雇されたことから始まった。明らかに不当解雇だと、取り消してくれと、どんなに頭を下げても無駄だった。次は恋人に捨てられた。鈴香を支えると言ってくれた彼の顔が嫌悪に染まり、蔑むような目で睨まれたことは脳裏に焼き付いている。
どんどん居場所が奪われていく恐怖が身体を蝕んでいく。このままでは最終的に、鈴香は意思のない人形のように扱われて死んだように生きるだけだ。
全てがどうでも良くなった鈴香は信頼出来る人に子供の頃からつけていた日記と遺書を送っておいた。SNSに投稿するなり週刊誌に売るなり好きにしてくれと書き加えて。あいつらは人間性が終わっているが忌々しいことに権力を持っている。鈴香が何の対策もせずに己の生い立ちを暴露しても、あいつらの名を恐れて揉み消されてしまう。その後に待っているのは凄惨な報復だ。病死ということにして殺されるくらいならマシだ。海外の特殊性癖の金持ちに売られ、死んだ方がマシな目に遭わされるかもしれない。でも、もう鈴香に恐れるものはない。これから誰も手を出すことの出来ない場所に行くのだから。あいつらが築き上げたものを壊して、醜い本性を白日の元に晒してやる。雲の上から、あいつらの絶望する様を見物してやるのだ。
全くといって良いほど恐怖心がない。きっと鈴香は人として大事なものが欠けているのだ。やはりあいつらと血が繋がっているのだと悍ましくなった。
鈴香はジャンプするような身軽さで屋上から飛び降りた。凄まじい速さで地面が近づいてくる。下はアスファルト、落ちたらまず助からない。下手に助かったら、その状態ですら奴らは利用しようとする。だから、一瞬のうちに向こうに行きたかった。
ああ、でも。鈴香は地面に激突する直前、願った。
(もし生まれ変わったら、誰か私のことを…)
こうして鈴香は24年の人生に幕を閉じた。
「…ねえちょっと!あなた大丈夫!?」
(…)
鈴香が目を開けると天国かと思ったら、見たことのない人が必死で叫んでいる。なんか全体的にキラキラしている。陽の光が髪に反射して、とても綺麗だ。
(…髪の色、銀色…?それに目の色が青い…コスプレ?…)
綺麗なのは髪だけではなく、顔もだ。顎の下で切り揃えられた銀色の髪、海を想像させる深い青の瞳に形の鼻筋の通った端正な顔立ち。鈴香が見たことないくらい美しい人だ。思わず見惚れてしまう。
「急に湖に浮かんで来たけど…一体何処から…溺れたのかしら?っ…水飲んでいたら危ないわね…!」
(水…何、私屋上から落ちた…え)
鈴香は自分の状況がやっと分かった。全身ずぶ濡れで美しい人に抱き抱えられている。美しい人の向こう側には大きな西洋風の邸が見えて、そして鈴香は湖のようなところにいた。
(え、何、何処)
混乱して固まった鈴香を美しい人は真っ青な顔になって湖から引き上げて、草の上にそっと寝かせる。すると、徐に美しい人の顔が近づてきて…柔らかいものが鈴香の唇に触れた。
(………!!!!)
キス、されている。いや、この人は鈴香が溺れて気絶していると思い恐らく人工呼吸を施してくれているだけだ。他意はない、タイハナイ、タイハナイ。
「…あら、え!ちょっと!しっかりしてちょうだい!!誰か医者を!早く呼べ!」
キャパオーバーで意識を失う前の鈴香の耳に残ったのは、雄々しい叫び声だった。