第60話 似合わぬこと(その2)
階段をしずしずと滑り降りた来た魔女。巨人がたちまち近づき、
「おお、オーリィ様よくぞ……」と、主の帰還を喜ぶ従者の言葉を、魔女はごく僅か頷くのみですぐに片手で制する。そして彼には目をくれない。オーリィのその態度にテツジはたちまちその意を汲み、彼女の背後に回り込み控えて跪く。
オーリィはそのまま、人の歩数にして二、三歩ほど、メネフとコナマの前に進み出る。伸び上がっていた体がするすると沈み、蛇体を長く地に這わせるその姿を、二人も覚えている。それはあの村の入り口で、巨人の従者に自ら示してみせた恭順の姿。そして深く頭を垂れて。
「大師様、殿下。ただ今戻りました。これまでのわたしの勝手な振る舞い、どうか……」
とそこに、今度はゾルグが駆け寄る。
「やっ、こりゃあいけねぇ!わっしにもまだ下げる頭が残っておりやすよ!
……大師様、殿下。魔女様は一時癇癪を起こされただけでゲしてね?あれからすぐにお心を直されて、とうにわっしと一緒に戻るお気持ちだったんで。それが、ご案内するはずのわっしがあの体たらくで、今まで道にお迷いになられてたんでさ。そりゃまったく、わっしの落ち度でゲす」
とりなすゾルグ。オーリィの下げる頭の重さを、少しでも軽くしようと言うのだろう。すると彼にも魔女は答えながら。
「ああゾルグ、お前はお許しをいただけたのね?良かったわ……いえわたしこそ。
あの時ゾルグがついてきてくれなかったら。わたしはもう、とっくに悪魔の仕掛けた罠にかかって死んでいたはず。これが一時悪魔の虜になったのも、わたしの身代わりにその罠にかかったようなもの。やっぱり元はと言えば、すべてわたしの咎。
はっきりとここで、御二方に謝罪致します。そして今度こそ、御命に従い戦うことをお誓い致します。
どうかわたしにも、今一度同行をお認め下さいませ」
やれやれ、どいつもこいつも。メネフは頭を掻きながら思う、似合わねぇマネばかりするもんだ。
——しゃらくせぇ。
「お顔をお上げ下さい、魔女殿」
「……え?」
メネフのその言葉に声に驚き、思わず伏せていた顔を上げ彼を見返すオーリィ。そしてその近さに驚く。さっと音もなくしなやかに、いつの間にメネフはほんの鼻先まで近づき自らも跪いていたのだ。
「魔女殿、お忘れでございますか?古城の前庭で共に戦った時、私は申し上げたはず。私も、父も兄も、そしてノーデルの民は皆、貴女に大恩があるのだと。それはまだまだ、到底お返しなど出来てはおりませぬ。
その上更に。貴女はこの私の無礼な申し出に敢えて応じ、この戦にその偉大な御力を添えて下さっている。
……今、我らと共に此処に立って下さっている!
些細な咎など何でありましょう?重ねてお願いすべきは、この私の方でございます。
どうか魔女殿。私にとは申しませぬ、大師コナマ様に、父に兄にノーデルの民に!もう一度その御力をお貸し下さい!!」
「え……あの、殿下……?」
戸惑うオーリィ。すっかりきょとんとした顔だ。すると、主と共に謝罪をとそれまで背後でじっと謹厳に控えていたテツジが、たまらずくつくつと笑い出す。
「くく……わははは!殿下、またか!」
そして思わず振り返った主オーリィに、穏やかに微笑みを返して。
「オーリィ様、殿下自慢の隠し芸ですよ。まったく上手いものです」
「……だろ?」たちまちメネフも素に立ち戻り、
「なぁオーリィちゃん?言っちゃ悪ぃがそういうのは、オレの方が断然上手だぜ?口でオレに勝とうなんて、百年早ぇや!
いいかい?あんたは強いが、勝負の仕方は考えた方がいい。
……いいんだよ!今まで通り偉そうにふんぞり返って、キンキン文句も言って、そんでバンバン火の玉をぶっ放してくれ。オレはあんたにゃ、これからもそうしてて欲しい。どうだ?」
表面はおちゃらかしながら、メネフはやんわりと一本釘も刺す。無論オーリィにはわかる、それは彼が自分の謝罪を真剣に受け止めてくれた証。
なるほど敵わない。素直に兜を脱いで、やがて魔女は頬を緩める。
「……そう?そうね殿下、その方が楽だわね。なら遠慮なく!これからもそうさせてもらうわ!」
今は晴れやかな顔に戻って、ずいと高く伸び上がりメネフを見下ろすオーリィ。それだよと、パチリと片目をつぶって見せるメネフ。
そして彼は、そっと後ろを振り返る。
そこには、何を思うのか。一連の光景を見つめながら身じろぎもせず立ち尽くしている、アグネスの姿があった。
(さぁどうだ?)
メネフが敢えて再び披露した「猿芝居」、それはただオーリィを慰めるためばかりのものではない。
アグネスにも、彼女を除く自分たちと、魔女オーリィとの心の繋がりを知らしめること。
(簡単には説明出来ねぇ、してやれる暇も無ぇ。でもなアグネス?このオーリィちゃんは、オレたちのオーリィちゃんなんだ……)
わかってくれるか?と。
メネフのその視線は、魔女と聖騎士のその対峙を皆にも意識させる。見れば、コナマが自然にアグネスの足元に寄り添う。一方、魔女の背後でテツジがゆっくりと立ち上がり、その耳元にそっと奏上する。
「名はアグネスです」と、ただその一言。巨人の声は深く低く落ち着いている。自分の心を和らげようとしている、魔女もまたその意を汲んで。
「ありがとうテツジ。そうね、確かさっき、そう呼ばれていたようだったわね。
……大丈夫、知っているわ。わたしも見ていたから」
階下からここに来るまでに、ゾルグの口から皆も知らされていた。オーリィもシモーヌも、ゲゲリの力で先程の戦いを見せられていたということを。
「教皇の娘、聖騎士アグネスね?わたしがオーリィ、沼蛇の魔女オーリィよ。わたしのことは、みんなに少しは聞いていたかしら?」
先に名乗り、相手に呼びかけたのはオーリィ。その響きはやや暗く澱む。湧き上がる込み入った感情を埋め鎮めている声。
答えるアグネスも感情を押し殺す。こちらは固い、一言一言木の枝を折るようだ。
「……アグネスだ。会うのは初めて、だがオーリィよ。『アルケーノ伯爵家の魔女』のことなら。私は誰に聞かずとも知っていたぞ」
魔女の眉が僅かに震える。
「……リンデル人ね?」
「そうだ。元は、な!今は猊下の直参として、その身許にあるが……」
「……?」
奇妙だ、それは今言うべきことでもなかろうに?口にしてしまったアグネス自身が、自分の言葉が場違いだと気づき、すぐに言い淀んでしまう程に。
だがすぐにオーリィは思い直す。自分が彼女から聞くべきは、彼女と語らうべきは、むしろそういうことではないか?
そのまま押し黙ってしまいそうなアグネスに向かって、オーリィは一呼吸ほど心を整え言葉を探してから。
「……そうねアグネス。まずわたしから、一つ先にはっきり言わせてもらうわね。
わたしは魔女。教会にとってわたしは敵、そしてわたしも教会を憎んでいる。いろんな事がありすぎたの……事実も気持も変えられない。わたしは変われないのよ。
だからいいこと?僧兵のお説教なんて無駄よ、わたしに聞く耳なんてない。でも!
アグネス。わたしは教会の聖騎士ではない、お前という一人の人間のことが知りたいわ。
お前が一人の娘として、女として、人間として!わたしに思うところがあるのなら……いいえ、リンデル人だったならあるはずでしょう、あるに決まってる!
わたしは、それは聞かなければならないわ。聞いて……許しを請わなくてはならないのよ。たとえ許してもらえなくても。
さ、言いたいことがあるのでしょう?言ったらいいわ。なんでも聞かせてもらうから。
……ね?」
重ねて促すその声は、姉が妹に呼びかけるもののよう。アグネスがぎくりと魔女の顔を見直すと、その恐るべき蛇の眼はしかし、柔らかく穏やかに輝いて。
(これは、まさか……)
魔術で自分をたぶらかそうと?だが抗えない。ひるむ間もなく、アグネスは語りはじめた。
「私は……教会が廃したリンデル公爵家、その血を引いている。嫡流からずっと遠い、埋もれ草のか細い血縁だが、それでも……」
何故自分は、今この事を口にする?アグネスはその時、自らを訝っていた。誇り高い彼女が、誰にも決して口にしてこなかったその秘密、その気持ち。だが言葉は喉から溢れる。
「公爵家の血を引くのは母の方で、父は平民だった。公爵家の裔とはいえ、母はそれほどまでに零落していたのだ。そしてその父は、国の南の田舎村に私と母を残して、一人都で出稼ぎの衛兵をしていた。そして……
八年前、父は死んだ。わかるな?」
(父の仇なのね……私は、この娘の)
オーリィは、ほ、と小さく溜息をつく。自分の罪の証人がこんなところにも。意外ではない、やっぱりと心中独りごつ。
一方、アグネスの声は低く密やかで、慎重。むしろ、オーリィを気遣うようだ。それもアグネス自身には、何故なのかわからない。言い始めてしまったことも奇妙だが、この事を言い始めてしまったのなら。いっそ魔女の罪を責め立てることも出来るはずなのに。
はたと気付く。
(私は、聞いてもらいたいのだ……魔女にも、他の皆にも、自分のことを……!)
それはこの際、正しいことなのか?ちらりと迷うアグネスの瞳に、またもオーリィの蛇の眼が映り込む。その視線はいよいよ自分を励ますよう。アグネスの唇が開く、息が通り、舌が自然に動く。
「都から遠く離れて暮らす私の母にも、父の死はすぐに伝えられた。ただし、ただ戦死とそれだけ……何と戦ったのかはまったく知らされずに。そして亡骸も返ってこなかった。魔女に都が焼かれたことは、国の、いや教会の恥。事実が広がることを恐れたのだろう。
だが噂で事は後からすぐに伝わった。当然だな、隠しきれるようなことではない」
アグネスの声は明瞭だが、さらに密やかになる。言葉を選んでいるのだ、魔女に対して。
「ただ魔女よ。私はな?都に現れた魔女のことはずっと……御伽噺だと思っていた。その時私は八歳。確かに幼かったが、さりとてもう、まるでものがわからぬという歳ではない。蛇身の魔女が炎で都を焼いたなど、到底本気には出来なかった。母から魔女への恨み言を聞かされる度に私は……それは母が、夫を失った悲しみのあまりすがる幻想なのだと。そう思っていた。
不思議だな。今明らかにこうしてお前を目の前にしても……お前はまだ、まるで幻のようだ」
本当に不思議だ。メネフから初めて魔女の存在を知らされてから。彼女はずっと自分を恐れていた。魔女に出会ったら、自分はどれほどうろたえ激昂してしまうのかと。
「本当に不思議だ、お前という魔女は」
はっきりわかる。自分は今、この魔女に甘えている。「聞かせてもらう」という魔女の言葉は、アグネスに最後まで残っていた頑なな部分に密かに触れ、じわりと溶かしていたのだ。
「二年後、私が十歳の時。急に母が……私と共に、教会に召し出された。父の死後、いまだ独り身を守っていた母を……猊下の第三妃にすると……
母は美しい方だ。私という子を成した後も、そして今でも。ただもちろん、それで猊下に見初められたなどという単純な話ではない。
リンデル公爵家ゆかりの人間が、今後も教会に逆らえないように。主だった者はまず処刑、そして末葉の者もその全てを手元に置いて虜囚として人質として押さえつけておく。そして公爵家が教会に完全に屈服したことの証として、草に埋もれていたはずの母を、敢えて……母の美貌は、飾り物として、晒し者としてうってつけであったから……
ああ、憶えているぞ!教皇府に入城したときのあの行列……見たこともないような豪華な馬車で、しかし天蓋は無しで。乗せられた母と私に向けられたあの目!見世物小屋の道化、いやいっそ、獣を見るようなあの……」
アグネスの携えている神槍が、その時パチリと、ごく小さく煌めく。
(……何?)(ああこれは……)気づいたのは、オーリィとコナマ。他は誰も、語るアグネス自身もそれに気づいていないようだ。
「何故だ……憶えていたはずなのに……忘れていた……あの時私は、恥辱と怒りに震えていたはずなのに!どうして……あの気持を何故……今まで忘れて……」
また一つ、槍が瞬く。
「母と引き離された私は、教皇府の城の一室を与えられて、始めはただそこに閉じ込められていた。だがある時、司祭たちに呼び出されて言われたのだ。
『神に仕える者としての修行を始めよ』と」
(教会の司祭も、そんなにめくらばかりではないはず)
コナマは思う。
(この子の中に眠っていた力に気づいたのだわ。そして企んだのでしょうね、この子が自分たちにとっていっそう便利な道具になるように……)
「『お前が誉れを立てればそれだけ、母の立場も良くなる』と……」
(この子のお母さんを人質にして、逆らえないようにして……)
「聖騎士見習いとして、必死に武芸と術を磨いた。十二の時、初めて賊との戦いに駆り出されて、死ぬ思いをしながらどうにか勝利して戻った私は……大勢に囲まれ称賛されて……ああ、その時だ!あの怒りを忘れてしまったのは!!」
(今度はおだてあげる。苦しい戦いの後だもの、その毒は、心に沁みないはずがない……)
アグネスの足元に寄り添うコナマは、対面するオーリィの顔を伺う。瞳に憐憫と自責、それはアグネスに対して。唇には苦々しい憤り、それは狡猾な教会に対して。魔女もどうやら自分と同じことを悟ったのが見てとれる。そして再び、アグネスの顔を下から覗き見上げる。
「そんなことを幾度か繰り返して。やがて私は『聖騎士団の雌獅子』などと呼ばれ……いい気になって!いつのまにか、私は……
教会の……母を締め上げ辱めを与え続けている、教皇の!その走狗になっていた!!なぜだ、なぜ今まで私はそのことに!!」
槍が激しく煌めいた。今度はその場の皆すべてがそれに気づく。
「そう……もしかしてあなたね?」
オーリィは、輝く槍に問う。
「……ねぇベネトリテ?」
槍はたちまち、その穂先を大きく眩く輝かせる。一瞬、黄金色の光がその場の皆を包み、すぐに消える。目の眩みから立ち直った皆の顔を、オーリィはさっと見回した。
「コナマさん。みんなの呪いも解けたのではないかしら?
そしてアグネス!あなたには二重にかかっていた呪いを。今彼女が解いてくれたのだわ。
……ああベネトリテ!」
「や、オーリィちゃん?そのベネトリテってのはいったい?呪いってのは?」
アグネスの告白に固唾を呑んでいたメネフだが、オーリィの呼ぶその謎の名は、どうしようもなく彼の心を揺さぶった。急き込む彼を、しかし魔女は軽く制する。
「殿下それは後できちんと、少し待って頂戴。
……アグネス!」
オーリィはアグネスの間近にするすると滑りよる。アグネスは待ち受け、じっと退かない。魔女はそのまま、またも跪く。
「似合わないことは、お互いこれで最後にしましょう。ただわたしにとっては、これは大切なけじめ。いいわね殿下?もう一度だけ。
アクネス。私は今、あらためてあなたに謝罪するわ。
あなたを縛ってきたもの、そこにどれだけ他の人間の悪が絡み合っていたとしても。その最初の結び目はわたし、わたしの犯した大罪がそれ。
わたしはリンデルの都を焼いて、大勢の人々の命を奪った。そうアグネス、あなたの父の命も。そしてあなたの母は辱められ、あなた自身は誇りを見失わされた……たとえ手を下したのは教会であるにせよ、わたしはその者たちの企みにきっかけを与えてしまった。
私、沼蛇の魔女オーリィは、クロエ・ドゥ・アルケーニュは……今こそ!
あなたの前にこうして跪きます。どうか、お許しを」
アグネスは気づく。自分の掌に握られた槍のぬくもり。それはただ自分の体温なのか、それとも。
「魔女オーリィ殿、顔を上げられよ」
アグネスの言葉は、いまだ低く静か。
「貴女の謝罪、確かに聞かせてもらった。だが私は……正直まだ得心出来ぬ。私が果たして、真に貴女の謝罪を受けるにふさわしい者であるのかどうか、それがな。
私はこの槍に、これからそれを問いたいと思う。
なれば魔女殿よ。過ぎし事はもう一度、時と場を改め語り合おうではないか、とことんな。ただしそれは!
……この戦を終えてから。いかに?」
跪いていた魔女が、再び大きく伸び上がる。
「……いいわ、望むところよアグネス!魔女と聖騎士、けんかはいったん棚上げね。
すべては!この戦を一緒に越えてから!!」
(こりゃあ……上手くいったってことか?)
おやおやと、思いがけない二人の姿に驚く様子のメネフ。安堵は無論、だがどうにもわからないことが多すぎる。
「坊や」
そんな彼を、コナマが足元に近づき見上げながら。
「二人とも、『似合わない』のではないわよ。見違えたの。人はね?いつでも変われるものだから」
「なるほど?」フンと満足げに鼻を一つ鳴らす。
「なら、オレたちはそれに合わせりゃいいってことか」
そこにパタパタと軽い足音。
「みんな、お話は、終わった?兄貴に教わった道の先、少し見てきた。わなも全部外してある。行こう!」
あいかわらず自分の調子でまめまめしく働いてきたらしいベン。彼と仲間たちに、メネフが号令する。
「よし、行こうぜ!」
「どうだいシモーヌ?仕上がったかい、ケック!」
「……見ての通りだ」
鳥に宿った古い神と蝙蝠の白魔の前に、悠然と立ち上がる巨大な影。
「これを使って奴らを仕留める……今度こそ」
「いいね。しっかりおやり。ケックケック」
「……啼いてみよ」
シモーヌが片手を高くかざして命ずると、それは。
声の代わりに轟と吹雪を吐いて応じた。
(続)




