第58話 リンデルの魔女たち・紅蓮
「魔女よ!お前のせいだ!お前があの時いっそ、リンデルを丸ごと滅ぼしてくれていたら!娘は、クロエは!」
「……クロエ?」
かつての自分と同じ名前。その名を聞き当惑を眼に浮かべるオーリィ。魔女をなじり一気に怒りを吐き出した後、シモーヌは唇から虚しい笑いを漏らす。今度はたちまち悄然と肩を落として。
「ハハハ、妙な偶然だな!……なぁに、たいしておかしくもない。『クロエ』はリンデルの女にはありふれた名ではないか?何もおかしくはない……ほんの少しだけ、名のせいでやつらに目を付けられるのが早まったかもしれないが……ハハ、そこまでは言わぬ……いずれ時間の問題であった。リンデルが教会にすっかり支配されて、魔女狩り役人どもの監視と捜索の目が張り巡らされた中で、なお一年も!
狂女である娘をかくまえたことが……今となっては余程不思議だ……一年!
あの日々は忘れ得ぬ……恐ろしかった、でも楽しかったよ……一層娘が愛おしく思えて……いつ奪われるかも知れぬと思えば、余計に……ああクロエ!」
シモーヌが両手で自分の胸を掻き抱く。愛おしげに切なげに、まるでその中に誰かがいるように。
「あの子は……正気ではなかったけれど。優しくて大人しくて、笑顔の清らかな子だったわ……狂っていたからいつまでも幼くて、花が好きで小鳥が好きで、いつも私にお話をねだって……一緒に歌って……
愛していたわ、本当に愛していたのよ、私、あの子をね。狂っていたけど、それだけ。わたしは知ってるわ、あの子は誰よりも清らかだった……清らかだったのよ!」
オーリィは息を呑む。シモーヌの、悲痛に身を捩りながらもなお柔らかな声と姿。これが、と思う。彼女がかつて、ただの一人の母であった頃の姿。
だがしかし、それは一瞬。妖魔はその姿を再び悪鬼に立ち戻して。
「やつらはとうとうやって来た。私の娘も私も共に捕縛されて……そして引き離され別々の獄に入れられた。何もわからぬはずの娘が、それでも!ただならぬ不安に泣き叫んだ顔が……私が見た、生きている娘の最後の顔……」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
(……狂人は悪魔に心を許し取り憑かれた者、すなわち魔女。それが教会の教義。
ふん、いつもの欺瞞だ。
教会は教会の神を全能と定めた。だが神が全能であるならば、その力で救えぬ者は無いはず、あってはならない。もし救えぬ者がいるとすれば、それは自らの意志で神に逆らっているから、魔女であるから。
……己の無力を、罪なき者の咎としてなすりつける。何たる卑怯な理屈!
この理屈のせいで、心を病み治る見込みのない者は、教会に魔女として裁かれる。いまいましい限りだが、それはここノーデルでも同じ。ただわが国では大師様のご指導の下、専門の役人が狂人を救護院でかくまい養っておるし、そもそもノーデルでは教会に十分な力が無い。余程手のつけられない狂騒な者はともかく、民の間に隠れて生きるおとなしい狂人を、逐一探し出せるほどの力は持っていない……持たせるものか、今後もな)
胸中で噛み潰した苦い虫を、プイと吐き捨てるような侯爵。だが胸の苦さは変わらない、むしろいや増し。
(奇妙なことに。首都エルリンデルを中心とした北部リンデルの一部に於いても、リンデル公の治世の元ではまだ、狂人に対する追求は甘かったようだ。
すでに我が国よりも遥かに教会権力が強大であった、公国時代末期のリンデル。だがそれゆえに、実は教会に反感を抱く者も少なくはなかった。国主リンデル公をないがしろにし我が物顔にふるまう教会に、面従背服でいる気風が、当時のエルリンデル市民の間にはまだまだあった。おそらくその空気がミラ家の母娘を守っていた。近隣の民もみな、クロエという狂少女の存在に目をつぶっていたのだろう。
だが、教会の直轄統治下となっては……しかも魔女オーリィの起こした大事件をごまかし、民の声をもみ消そうと目の色を変えていた、当時の教会の支配下では!
誰もかばってやることなど出来なかった。密告されたのだろうな……)
侯爵が今手にしている紙の束。リンデルにおける数多の魔女裁判、その写し。もちろん彼のあの「秘密の伝手」でこっそりと入手したもの。侯爵はそれをまた読み解こうとして、しかし止まる。片手で額を覆い、両こめかみを震える指で抑える。思う、再び仔細に読むに耐えない。
(おお、なんたる非道卑劣の数々!むごい。どうしたら人が人に、かくも酷薄になれるものなのか?)
だが今だけは、その記録にだけは向かい合わなければならない。ばさばさと手早く紙を繰る。そして侯爵は意を決し、ある文面にくわと眼を見張る。
【ミラ家の娘クロエなる者。常に奇怪なる言のみを為す。悪魔に心を許し、魔女になりたるがゆえに。悪魔と交わりし印もあり、刑吏これを調べ、認む。獄死。
その母シモーヌなる者。同じく魔女なり。始めそれを認めざるも、クロエの死骸を見せられし時たちまち言を変え、自ら魔女たることを認む。磔刑。】
(……【悪魔と交わりし印もあり、刑吏これを調べ、認む】?馬鹿な!
齢十二歳の、それまでミラ家の奥座敷にてひっそりとかくまい養われてきた娘が、誰かと、男と交わった?違う!
『魔女は乙女たり得ない』、それが教会の言ってきたこと。クロエが魔女であるという嘘の証拠を固めるために、その刑吏が……そしてそれでクロエは死んだのだ、だから処刑ではなく『獄死』と……!そしてそのむごい死の様を、母に見せつけた……!
おお汚らわしい、本当に汚らわしかったのは、どちらだ!!)
侯爵はむかむかと胸にからむ憤気をようやくこらえて。
(このわずか数行の記録。これを、莫大な同じような記録の中からわしが見つけられたのにはわけがある。もちろん母シモーヌという名が目に止まったからだが……
もう一つ。この続きだ。
【なおシモーヌ・ミラの処刑の後、その死骸は娘クロエ・ミラのものと共に消える】
こんな記述は、他のどの裁判記録にもない。そして聞いたところでは、リンデルに存在する原本ではこの一行が、線で消され隠されていたという。
……まさしくそれが事実だからだ。そして二人の亡骸はどこに?
いや……それは今や、明瞭だ……少なくとも母の方は……!)
侯爵は再び、暗澹たる瞳を北の空に向けた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「だから魔女よ!私は決めた、誓ったのだ!
誰よりも清くあったクロエの、穢れの濡れ衣を晴らすと。私の娘クロエこそがこの地上で誰よりも清くあった、その証を立てると。そのために……
他の全ての人間どもを、不死怪物の穢れで穢し尽くしてやると!
……否!
元より穢れた人間どもの偽りの外様を剥ぎ取って、穢れたクズの本性を剥き出しにさらしてやるのだと!下衆どもをその魂にふさわしい、腐りかけの木偶の坊の姿に戻してやるのだと!どちらが穢れているのか、明らかにしてやると!
人間ども……ただ攻め滅ぼすなど、到底足りぬ……安らかな死など与えぬ、クズ怪物となって永遠に彷徨い蠢けと!そう宣告してやるのだと!
そのために!私はゲゲリの力を借りて、今の蝙蝠になったのだ!!
……魔女よ」
シモーヌの口元に、あの皮肉な嗤いが戻ってきた。
「お前は侯爵の間で、私を火炙りにすると言ったな?ハハハ!遅い遅い、八年も遅い!それをやるなら八年前に済ましておくべきだったのだ!
……今更?愚図にも程があろう?そしてこの私を、よりによってことの元凶の一人であるお前が裁くつもりだと?図々しい!何もわかっていなかったくせに!
ああ愚か愚か、愚か者!だから私はあの時お前を嗤ってやったのだ、これが嗤わずにいられるものか、アハハハハハハハ!
……いや魔女よ!お前の最も滑稽なところは!
それ程の力を持ちながら、しかし、それ程愚かでありながら。尚もくだらぬ人間どもの味方であると、その庇護者面が出来ると思っているところだ!
お前にはそんな器用な真似は出来ぬ、どうせこれからも!その力を持て余し間違いを繰り返すのみ!
なぁ魔女よ?ならばいっそ、人間の味方などやめてしまえ。楽になるぞ?
ゲゲリがお前に勧めた話、あれは確かにお前にとって悪い話ではない。なるほどゲゲリもよくわかっている、お前に出来ることなど、あれが関の山だ。
私はな?もちろんお前にも積もる恨みがある……お前さえ魔女として世に現れなければ、あの子は……戦ってお前も倒す、それが私の望みだ。だがお前がゲゲリの話を受け入れて、私に服従するというなら……
おお、それもまたよし、だ!そうなれば私は、お前を手元に置いて……これからもずっと嗤ってやれる!
どうする魔女よ?アハハハハハハハハハハ!!」
オーリィの蛇の瞳が揺らめき、やがて涙が頬を伝い落ちる。シモーヌの言葉、その物語は氷の刃、胸を臓腑をえぐるよう。そして血の代わりに溢れ出るのは憐憫、屈辱、後悔、慚愧……魔女がしまい込んでいたありとあらゆる苦の感情。
(勝った)
萎れる魔女の顔を、妖魔はずいと覗き込んだ。残酷な悦びに唇が歪む。
だが一転。頬に涙の流れるままに、しかし魔女はかっと目を見開いて!
「シモーヌ、お前の言うとおりね。わたしには、人間だった頃の穢れも、愚かさも過ちも、罪も、無力さも……全部この体と魂にこびりついたまま。魔女になってもそれは、なにも変わりはしない……わたしは変われなかったわ。
……でも……でも、だからこそ!!
わたしは、わたしが持っていて、これからも増やしてしまう醜い汚いものを、この背に全部背負っていく!自分の責めを、自分で負っていく……わたしはかつて、この左腕にそう誓った……
そうよシモーヌ!お前のように、全て誰かに投げつけてぶちまけたりはしない!!
そしてお前がこの世に現れたのが、わたしのせいだと、わたしの咎だと言うのなら……わたしは!お前も倒して!わたしの罪の帳簿に加えて全部背負っていく!!
よくわかったわ。わたしはお前とは違う、お前を認めるわけにはいかない……わたしはやっぱり戦わなければいけないんだわ、お前とね、シモーヌ!!」
涙をうち払い、今は再び、決然と闘志に燃える瞳を向けてくるオーリィ。シモーヌもたちまちその嘲笑を収め、断固として。
「これ程説き諭してやってもか?おお沼蛇の魔女オーリィよ、度し難く救い難き愚か者め!
……望むところだ!私は元より、お前に惜しむところなど何もない、ならば戦い倒すまで!!」
魔女と魔女との、その論による戦い。決着はつかず、両者が力による清算を心に期した、その時。
「やれやれ、ようやく話はお終いかい?クワァ〜ック、あくびが出ちまうね」
「え?……ケイミーさん?」
いや違う!我に返った思いのオーリィが捕える暇もなく、鳥はヒョコヒョコと跳ね飛んでシモーヌの足元に。
……ケイミーの体が、あちら側に移っている!
「まさか?」こちらも同じくぎょっと身を固くしたシモーヌに向かって、鳥は大きく首を反らしその顔を覗き込んで。
「そうだよ、あたしだよ。ハルピュイアもたまには悪くないね、いい依代だ。よだかの体よりだいぶ喋りやすいし、ケック!
……このしゃっくりみたいなのが無けりゃもっといいんだがねぇ?こりゃ自然に漏れんだね、ケック!」
「ゲゲリ!」「よだか、貴様!」
一体いつから?ああそういえば。吸血群獣とメネフ達の戦いの最中も、ケイミーはただ静かにじっとしていた……ケイミーが?今にして気がつく、それは全く不自然。
戦いが始まり、オーリィもシモーヌもそちらに注意を奪われた、その隙に。この老獪な神はケイミーの体に滑り込んでいたに違いない。
そしてゲゲリは、ケイミーの顔の上では今まで誰も見たことのないような陰険なしかめ面を作って。
「ああくだらない!まったく、黙って聞いてりゃとんだ小田原評定にこんにゃく問答だ!ぐずぐず付き合わないで、とっととこうすりゃよかった、クワック!
オーリィ!この石頭の大馬鹿者!魔女になれた値打ちがまるでわかってない!
シモーヌ!お前もお前だ、何をグズグズ、オーリィのことが言えるもんか!
……よぉくわかったよ、お前らはまだまだ嘴の黄色いヒヨコだって。あたしが尻を叩いて躾けてやらなきゃ、らちが明かないってね!ああケックケック、ケックだよ!」
愕然とする二人に、考える間を与えずゲゲリは畳み掛ける。
「で?話は済んだんだね?済んだんなら!ここからは本気を出してもらおうかい。
……ま、すぐに一緒の場所に移してやって勝負、とはいかないか。それじゃいくらなんでも天秤が釣り合わないよ、やっぱりコナマがいなくちゃね。
この鳥はあたしが預かる。オーリィ!シモーヌと一緒に待ってるよ。どこにって?この城のてっぺんさ、そこで決着をつけてもらう。鳥は勝った方にくれてやる!
オーリィ!今までの戦いはしょせん全部、シモーヌの道楽で時間稼ぎ。こいつの用意したホントのとっておきが、てっぺんで待ってる。お前とコナマと、他の有象無象どもでそいつをどうにかして、どうにか出来たら!
……わかってるねシモーヌ、その時こそお前の出番だ!さあ行くよシモーヌ、クワアック!!」
床を一跳ね、羽ばたいたかと見えた次の瞬間には、ケイミーの、否、ゲゲリの姿は消えていた。
「おのれ!」
怒りの形相で一目、天井を睨み上げたシモーヌだったが、逡巡は刹那。たちまちその体を包む陽炎のゆらめき。
「シモーヌ!」
「聞いての通りだ魔女よ、かくなる上は……すぐ来い、待っている!!」
言い残して虚空に消えたシモーヌ。その最後の顔にオーリィは見た、ケイミーを奪ったゲゲリへの苦い屈従の影。
「シモーヌ……ええわかったわ!すぐにみんなと行ってあげる、待っていなさい、ゲゲリ!!」
宿敵であるはずの蝙蝠の白魔と、しかしこの時は、同じ怒りを滾らせながら。魔女オーリィは再び、あの火焔のドラムを打ち鳴らしはじめた。
——その狂熱のリズム。魔女たちの最後の戦いへの前奏曲——
(続)




