第53話 鼠の女皇と穴の主(その3)
「来る!さぁ、みんなは止まらず走って!」「アグネス!」
謎の壁に向かって退いていくメネフ一同、だが鼠の群は一筋の濁流となって迫り来る。最早捕捉される寸前だ。
だがそこで、アグネスは一人、足を止め立ち向かう。
「神よ御力を!かぁぁぁぁ!」
アグネスの体全体からほとばしる火花、それはダンダレルを倒した時と同じ、黄金色の神聖力。すると見よ、今にも襲い掛かろうとした吸血獣たちが、それに慄いてたちまちわっと散り逃げたではないか。その隙に踵を返し、アグネスも再び壁に向かう。
「アグネスの神聖力はね」
テツジの太い腕の中に抱かれ運ばれるまま、コナマが皆に言う。
「私のものとは質が違うの。癒しの力が無い代わりに、破邪の力、魔を祓う力に大きく傾いた力。あの子が本気を出せば、弱い魔物なら近寄ることも出来ないわ」
「どおりでバリバリバチバチするわけだ!だったら……」
声を明るくしたメネフに、しかしコナマは釘を刺す。
「いいえ。いくらあの子でもあの力をあんな風に使っていたら、たちまち尽きてしまう。坊やも今まで見てきたでしょう、刺して一瞬だけ流し込んで倒す、それが本当の使い方なのだもの」
ならどうすりゃ、と問いかけて、しかしメネフはそれを飲み込んだ。コナマはもう彼を見ていない、その視線の先に彼も目をやる。
(そこであの壁が、てか?わからねぇ!何があるってんだあそこに?!)
メネフもまた、ただ走る。彼の義手の指でいよいよ激しく踊る、あの金属片の音を聞きながら。
一方。
「ちっ、【主】のやつ!あんなこけおどしにビビりやがって!」
歯噛みする魔将軍、だが彼もまた見透かしている。
「だがまあ、あんな派手な術はそう長くは続くモンじゃねえだろ。いや?だったら……」
ゾルグのカイゼル髭がピンと反り上がる。ほくそ笑んだのだ。
「あの小娘にはつまらねぇ借りがあったっけ。とっとと返しちまわなきゃな」
ゾルグの手には今、どこからか携えて来た新しい得物がある。槍斧だ。
「今度はおれが長物で相手してやろうじゃねぇか、えぇ、小娘ぇぇ!」
「ふむ?教皇の娘め、味をやる……妙だな?」
遠く離れていながら、今や目前に手に取るように広がる戦場の光景。見つめるシモーヌは一つ小首を傾げる。
「前にやつを倒して捕まえた時は、あれ程の力は無かったが?」
すると。
〈コナマだよ、あいつが稽古をつけたのさ〉
「……そんな暇があったか?」
〈もちろんあの娘には力があったのさ、最初からね。だが人間ってのは、どいつもこいつも!自分たちがちゃんと持ってるはずの力が使えない、持ってることにも気付かない!亀の子みたいに自分で自分に蓋をして閉じこもってる。
……コナマがその蓋をちょいと開けてやったんだ。ありゃぁ、あたしが鍛えて名前をくれてやった神裁大師だ、それ位わけはないんだよ」
ゲゲリの声は妙に自慢げ。シモーヌは訝る、ならば何故、その面倒な邪魔者でしかない神裁大師を、この神は魔城に入りこませたのか?
……いや、よい。白魔は牙を噛みしめる。
(やはり私は、あの男を見習わねばならぬ。あの男が私にそうしているように……たとえ相手が神であろうと、私も己を押し通しだし抜くまで!
——いいぞ、征け魔将軍!私にもっと手本を見せよ!!)
その傍らで。
「テツジ!コナマさん!殿下!……くっ!!」
思わず両手を掲げ全ての指先に炎を灯しながら、すぐに魔女は唇を噛みしめる。わかっている、どれだけ目前にはっきり迫ろうと、自分の力はその場には届かない。
「よせ魔女よ、無駄だ」「……卑怯者!!」
シモーヌの冷たくことさら諭すような声に、オーリィはさらに激怒して。
「話はお終いよ、私は行くわ!私が行けばあんな鼠どもなんて……」
〈間に合うもんかい〉その場を立ち去ろうとした魔女に、今度はゲゲリの声。
〈道がわからない、だからさっきお前はあんなにドタバタ大騒ぎしてたんじゃないか。だろ?ふん、お前がうろちょろしてる間に、あいつらみんな鼠の餌さ。
……さぁ腹を決めなオーリィ。あたし達の味方になって、あいつらだけは助けてやるか、それとも、ここでみんなおっ死ぬところを見届けるかだ。どっちだい?〉
「……オーリィ?!」
ケイミーが見上げる魔女の顔色、真っ青に固まっている。
皆の行く手を追うアグネス、遅れること歩数にしておよそ五十歩。そして先をゆく仲間たちがあの壁にたどり着くまで、あと百歩。
「もう少し」アグネスは思う、「あともう一度、私が鼠どもを退ければ!」
その隙に皆は壁にたどり着けるだろう。アグネス自身もわかっている、正直そのあと一度が自分の力の限界だ。だがこの距離ならばどうやら、どうにかなる……
だが、その思いまで見透かしたかのように。
「いいや、そうはいかねぇ!小娘ェ、てめぇの相手は、このおれだ!!」
槍斧を振りかざし、猛然とアグネスに襲いかかるゾルグ。
「行け【主】!こいつはほっとけ、おれにまかせろ!!」
シモーヌ自身がその魔の力を存分に注いで育てたという、特別の吸血鼠【穴の主】。とはいえ元はただの鼠に過ぎない。おそらく知恵のようなものはほとんど持ってはいないだろう。にもかかわらず、これが魔のものたちが持つ伝心か、ゾルグの叱咤の声を受け、【主】はあまりにも的確に動き出す。やや後方にトンと跳ね退くと、アグネスを恐れて散り散りになりかけた群れを、【主】はそこに呼び寄せる。そしてアグネスとゾルグの二人を大きく迂回して、再びメネフたちを追い始めた。もはやアグネスの輝きは群獣には届かない!
「しまった……くっ!」「よそ見してんじゃねぇ!!」
焦るアグネスに振り下ろされるゾルグの槍斧。剣で辛くも受け流すアグネス。
「ちっ、小娘てめぇ、槍はどうした?てめぇとやり合うために、わざわざ槍斧なんてこんな仰々しいもんかついで来てやったのに……舐めてンのか?
……おれを舐めてンなてめぇ!」
目を大きく剥き激昂する魔将軍、アグネスは悟る、この男をただ振り切ることは出来ない。疲労とは別の冷たい汗のしずくが、聖騎士の額に流れていく。
「見事だ魔将軍、その一手はよい……魔女よ、どうやらこれで詰みだ。どうする?」
〈さぁどうするね、オーリィ?〉
「私は……」一瞬固く食いしばった唇を、魔女は薄く開いて。
「私はいつも、誰も救えない……あの時も、今も……私は救えない!
そう、それが私の定め、私の罪の定めならば……
シモーヌ!ゲゲリ!それでも、私はお前たちに屈しはしない!私はここで見届ける!そして今から起きる全てを、私は自分で背負う!
みんなが倒されたら……その責めを背負った私が、お前達を必ず、必ず!」
〈ぬぬぬ……せっかくあたしが……この天邪鬼の頑固者め!〉
歯噛みする古い神。シモーヌはむしろそれを嘲笑うように。
「よい覚悟だ魔女よ。聞いたかゲゲリ?魔女はお前の言うことは聞かぬそうだ。
……安心したぞ。魔女オーリィよ、それでこそ私が見込んだお前、お前は、そうでなければならぬ」
「でも!!」だが魔女は、したり顔の妖魔の言葉をも覆す。
「お前たち……見ていらっしゃい!私の仲間たちは強い……私よりもずっとずっと強い、きっとあいつらを倒してみせるわ!
——シモーヌ!私が見届けると言ったのは、そのことよ!!」
(続)




