第38話 リンデルの魔女(その1)
ノーデル侯国の南の隣国、教会直轄領・リンデル聖教国。
だが八年前はまだリンデルは「公国」であった。
そしてさらに歴史を遡れば、元々リンデルはノーデルの宗主国であった。代々のリンデル公の統治の元、その冊封を受けたノーデル侯が異民族であるノーデル人の地を代わって治めていたのである。だが時代が下るにつれ本国リンデルは衰え威を失い、属国ノーデルは堅調に栄え力を増していく。そこには後世から見れば様々な理由やきっかけとなる事件があったのだが、ここではそれらをすべてつまびらかにする紙幅を持たない。
今記すべきはただ一つ。ある時ついに、リンデルの統治のくびきから逃れようと、ノーデルが乱を起こしたこと。以後長きにわたる両国の戦乱時代が幕を開けたこと。
そしてその趨勢には小さな波はあったものの、大方は常にノーデルのもの。ついにある時、ノーデルが逆にリンデルを程なく併呑してしまえるまでに至った。
だが。追い詰められたリンデルはやむなく教会を頼りにした。いよいよ心もとなくなった領地のさらに一部を戦後に教会に献上すると約し、助力を求めたのである。これによってリンデルは盛り返したとはいえる。事実それ以来、ノーデルに奪われた領地はかなり取り戻した。
ただし最早ノーデルの優勢は覆らない。ついにリンデルは、乱が起こる前よりはるかに後退(ノーデルにとっては大きく前進)した国境によって、ノーデルの完全なる独立を認めるしかなくなったのだった。
結局、リンデルとして見れば豊かな友好的隣国を永遠に失っただけでなく、その国土を教会にも一部無駄に簒奪されたことになる。
それだけではない。リンデル公国の後世にとってより深刻な禍根となったのは、その統治に教会の入り込む隙が出来てしまったことである。戦で大きな貸しを与えた教会は、以来、リンデルに対して様々に意見し要求するようになる。その後もリンデルの国力の衰えは続き(その大きな原因が教会による国家経営への干渉と国富の収奪にあることは疑いを入れないが)、しかしそれでも、一個の独立国としての面体をかろうじて保っていたのが、八年前まで。
そう。そして八年前、その事件が起こったのだ。
リンデルに一人の魔女が出現したのである——
その朝も。クロエはとある貴人との夜の悪戯を終えて、伯爵家の邸宅に馬車で戻ってきた。
「いつもの」
迎えた彼女専任のメイドに、ただ一言そう言いつける。別のメイドに手伝わせながら夜会服を寝間着に着替えて待っていると、やがて運ばれて来たのは申し訳程度の軽い食事と茶。
「出てって」
またもやただの一言でメイド達を去らせ、一人寝台の上でそれをガツガツと貪り食べかすをまき散らす。今は何より眠りたい、だがそれには空腹が邪魔。礼儀作法など知った事か。万事自分勝手で横紙破りな彼女の生活は、他の家族とはすっかり別。同じ館に暮らしていても、もう何年も食卓を共に囲んだことなどない。空になった食膳の盆を寝台脇のチェストにガチャンと投げ出し、さてようやくと朝寝の床に倒れ込んだ、その時。
「クロエ様」「……何?」「アンリ様が」
ドアの向こうから召使の声。不機嫌を隠さず要件を問うと、どうやら兄、すなわち伯爵家嫡子アンリが自分に何か言いたいことがあるらしい。
(相変わらず……)クロエは思う、影の薄い方だこと。ドアの向こうに召使と共にいるはずなのに、存在感がまるでないではないか。まるで幽霊だ。
「どうぞ。お話って何ですの、お兄様?」
不機嫌はさりながら、それでもたちまちクロエは寝台から立ち上がり、手づからドアを開け兄を招き入れる。今まさに仮眠を貪ろうとしていた彼女はしどけない寝間着のまま。実の兄とはいえ男の前だが、そんなことは一向に気にしない。腰に手を当て仁王立ちだ。
むしろ、入ってきたクロエの兄、アンリという青年の方が戸惑っている。大切な用談があると取り継がせておきながら、まず妹のはしたない様子に目の置き所を失う。そして伏し目がちに何やらぐずぐずと言葉を選んでいる。そのおどおどとした態度。
(いつものことでしょうに……)
無論、クロエも分かってはいる。ただの寝間着姿が悪いわけではない。今自分がまとっているのは、一晩男に遊びで体を許した悪徳の空気であり、兄という人間はそれに対して極端に耐性が無いということを。
(ほんとうに、わたしと違う。ああ、この方はどうして……)
どうしてこんなに清い方なのか。兄の言葉を待ち構えながら、クロエはため息を隠さない。
アルケーノ伯爵家。国で一、二を争う古い伝統ある名門だが、リンデルの貴族としては家産は中の上といったところ。つまり落ち目だ。今のリンデルでは上の上でなければ、あとは名ばかりの貧乏貴族。なぜ落ちぶれたのか?代々の当主と同じく、クロエ達の父アルケーノ伯も、その伝統ある家柄の故に、教会に媚が売れなかったから。
(だからぽっと出がのさばるのに)
クロエの思いは矛盾している。金の力で身分を買い、そして教会に取り入って、今や領主リンデル公すらなにするものぞと大きな顔の新興貴族達。そのがさつさ、下品さ、ずうずうしさには吐き気がする。だがさりとて。古めかしい伝統格式とやらに縛られて無為無策、年々歳々縮こまるばかりの己が一族は、彼女にはただうすのろの愚か者ばかりとしか思えない。
そしていみじくも。その心中唾棄して已まない成り上がり者たちから、クロエは何度も言われたことがある。陰口でも、時には面と向かっても。
「アルケーノ家の兄妹は、反対であったらよかったのに」と。
アンリがクロエほどに豪胆で大胆不敵で、そして恥知らずであったなら。クロエがアンリほどに……なよやかに貞淑であったなら!お家は安泰だったろうに、と。そして兄に対するその類の侮辱に、その手が届くならいつも、クロエは平手打ちで報いていた。
そう、矛盾している。クロエは兄に失望しながら、なお彼を大切な兄として慕っているのだ。
「お兄様、お話って?」
用があるといって朝から押しかけて来ておきながら。いつまでももじもじするばかりのアンリに、クロエはもう一度水を向ける。
するとようやく。
「クロエ……落ち着いて、そして僕の言葉を信じて欲しい。大変なんだ。母上と……その……叔父上が」
(ああその話、なぁんだ)
半ばあきれ、半ば拍子抜けするクロエ。
(今頃気がついたなんて……おっとりしていらっしゃること!この方らしいけれど)
伯爵家の人々。当代アルケーノ伯、その妻。二人の間に生まれたのがアンリとクロエ。そしてこの家にはもう一人。伯爵の弟、兄妹にとっては叔父のギュスターヴ。その人物はと言えば。
(道楽にばかり現を抜かす、この家の無能な寄生虫……!)
クロエはほんの子供の頃から、この叔父なる人物を軽蔑しきっていた。だがその気持ちを少しでもあらわにすれば、伯爵にも母にも、責められたのはいつも自分。クロエが家族に反発し孤立していったのは、様々にきっかけや理由はあった。どれが決定的であったかはもはやクロエ自身にも定かではない。が、もし人に一番の原因は叔父の存在ではと言われたなら、クロエはたちまち首肯しただろう。
だが。クロエは知っていた、こともあろうにその叔父がどうやら今、母と不倫な関係にあるらしいのだ。確たる証拠は無かったが。
(あればこの私が黙っているものですか!でもわかる。お母様は叔父と……ああ!)
クロエがそれに勘づいてからだいぶ経つ。もうここ一月ほどはずっと怪しかったのだから。同じ館に居ながら一人家族と疎遠に暮らしているクロエ、だからこそ、探りを入れていることに気づかれにくい。そしてわがままなクロエは、しかしそのわがままを通すために、普段から使用人たちには気前よくチップをはずみ鼻薬を効かせてある。だから放っておいても、彼らは母と叔父の怪しからぬ様子をクロエにご注進ご注進だ。加えてクロエには社交界という噂の狩場もある。あの忌々しい下品な成り上がり者たちがその事を囁き合うのは、クロエにとっては胸の煮えたぎる思いだったが、こればかりは歯を食いしばりながら耳を澄ませたもの。
(そうね、お兄様には)クロエは思い直す。
(ずっとお気づきにならないでほしかったわ、こんなこと……)
だが、かくなる上は仕方がない。
「お兄様。私から申し上げても信じてはいただけないかと、今までずっと黙っておりましたけれど。私、お母様と叔父様が男女の仲になっていることは、とうに……」
「いや違う、違うんだクロエ!それはそう、そうなんだが……でもそれだけじゃないんだ、そんな簡単な話じゃない!大変なんだ!叔父上は……」
「お兄様?」
思いもよらず、およそ今までクロエが見たことも無いような必死な顔で訴える兄。
「叔父上は……ギギッ?!イニャアァァ……ニャァァァァ!!」
さらに何かを言いかけた、その時。アンリの喉からほとばしったその声は。
声真似などではない、完全な猫の鳴き声だ!
そしてさらに何事かを伝えようとするも、アンリのその喉からはどうやら、人の言葉が出てこない。
「お兄様?!お兄様如何なさって?!」
そして喉を掻きむしりながら悶え苦しむアンリに、クロエが間を詰めようとした、その時。
「おっと失礼!初めまして、お嬢さん」
その姿は、いきなり眼前に現れた。何も、誰もいなかった二人の間の空間に!
「君がギュスターヴの姪御さんだね?」
その姿はまるで道化師。白と茶の横縞の奇妙な形の帽子に、全身白のタイツ。首から肩にたっぷりと巻いている、これも白と茶の縞の毛皮のマフラー。
そして驚き固まったクロエの顔を指して突き付ける指には、獣のような長い爪。
「さて……ギュスターヴ!あとは君から説明してやりたまえよ」
はっとしてクロエが振り向くと。今度は彼女の寝台の上に忽然と。
……叔父ギュスターヴが腰かけている!
(そんな?!)
いったいどこから?いつの間に?部屋のドアは、最前入って来たアンリが後ろ手に締めて閂をかけたのをクロエも確認してあったのに!
「かしこまりましたわが主、猫の悪魔、ケット・シーのロイズ様」
悪魔。その言葉に弾かれたように、クロエが再び振り向くと。
「ハハハハハハハハハハハ!おやおやお嬢さん?大分あばずれだってギュスターヴからは聞いてたんだけど、悪魔に会うのは初めてかい?だったら初心なものだね!」
道化師の装いをそのままに、だが男の顔は今、大きな猫そのもの。
まさか、と愕然とするクロエの背中に、叔父ギュスターヴが嘲りを含んで。
「そうだクロエ。私は魔女になったんだ。この方と契約してね」
悪魔と契りを交わした者は、男も女も区別なく、魔女。そう呼ばれる。
「お前にだけは大分てこずらされたものだったが、これでわがままは終わりだ。この家のものはすべてこの私のもの。伯爵の地位も、財産もこの館も、お前の母も……」
背筋が凍る。振り返れないクロエに、ギュスターヴはさらに、下卑た響きで重ねて言う。
「そしてもちろん、お前もだよ、クロエ!」
(続)




