狼少年と三日月少女
雲一つ無い満点の夜空に無数の星が瞬いている。
だが、今宵の主役は細々と散る砂粒達ではない。
満天の夜空に誇らしく佇む女帝だ。
一度彼女に目を奪われた者はもはや、周りを取り巻く有象無象の存在など、気に留める事も無いだろう。
広げたドレスの引き裾は大きく正円を描き、白く、白く、輝いていた。
己一人でただ完璧であると。
これが私の見る最後の景色。
悪くないわ。
満足気に空を眺め、その完璧な姿に思わず溜息を吐いた少女は視線を下げ、眼前に伏せる一人の少年を見た。
少年は膝と両手をつき、腰を曲げ、その頭を減り込まさんばかりに大地に突き立てていた。
月明かりのもと、手入れの行き届いた広い洋庭の土の上に照らし出されるその姿は少女とは対照的に、この世の全ての不満を集めたかのように感じさせる。
「ねぇ、いつまでそうしてるの? 謝る必要なんてない。何度もそう言ったはずよ」
涼やかな少女の声は風に運ばれて、少年へ届く。
ピクリと長く尖った耳が跳ね、おずおずと少年は顔を上げた。
無光沢な銀色の髪に、無光沢な白い肌。
鋭く野性味を感じさせる眼光と、口元から覗く長い犬歯。
一振りの刀を思わせるその見た目は、燻んで艶が無く、今にも折れてしまいそうな印象を受ける。
「だけどっ! 僕はっ!」
鋭い瞳は、今にも溢れてしまいそうに歪んでいる。
少年は長い犬歯を剥き出しに慟哭する。
少女はその慟哭に苦し気な表情を一瞬見せるも、凛とした声で被せるように甘く誘惑した。
「いいの。これでいいの。私とあなたは一つになれる。一つになって、それでやっと完璧になれる。あのお月様みたいに」
少女の視線は少年を導くようにゆっくりと空を目指した。
躊躇って、躊躇って、ついに誘惑に負けた少年は空を見た。
見ずとも知っている。
今日は満月。
一年で一番大きく、明るく月が輝く夜だ。
だが、欠け一つないその姿を一目見てしまえば、もはや少年は己を止める術を持たない。
「う、ゔぅうううっ」
呻き声と共に銀色の髪が輝きだし、その輝きはゾワゾワと首筋、頬、腕、指先へ伸びていく。
「ガァッ! ぐぁぁっ、ぁぁ」
喉から搾り上げるような苦悶を漏らしながら、吠えるように開かれた口元で犬歯がグイグイと長く、太く伸びていく。
少年は輝く銀色を纏う一匹の狼へと変貌していく。
元の茶色から血のような赤に染まった瞳をじっと見つめて、少女は口を開いた。
「わたしを見て」
目の前には一糸纏わぬ白い少女がいた。
その身体はあちこちが欠損している。
両足は腰の付け根から先が無く、右腕は肘から先が無い。
本来のあるべき場所の付け根にはうねった皮膚が盛り上がっている。
左の乳房は丸みを帯びて存在を主張しているのに、右には抉れた傷跡があるだけだ。
庭に敷かれた石舞台の上で、残った右腕を大きく広げて、その全てを晒していた。
緩くウェーブのかかった金色の長髪は月明かりを仄かに反射し、湖面のように夜空を映す。
身体の向こうが透けていると錯覚する程に肌は白く、その頬だけを薄桃色に染めていた。
この屋敷に連れて来られた当初の彼女はまだ不足無く手足の全てを揃え、代わりに瞳に怯えを讃えていた。
一年経つごとに肘から先が消え、膝から下が消え、腿が消え、彼女の身体は小さくなっていった。
月日と共にその身を欠けさせ、欠ける程に輝きを増す少女の姿は、夜空に浮かぶ三日月を思わせた。
少女と少年の間にどんなやりとりがあったのか。
小さくなる毎に少女の瞳から怯えは消え、憐れみ、そして慈しみへと変わっていった。
「どう? 美味しそう?」
少女の慈愛に満ちた声は少年には届かない。
それでも涙を流し、牙を剥き、溢れるままに涎を垂れ流す少年の姿は、その返事となっただろうか。
少年は駆け出し、勢いのままにその柔らかな首筋に牙を突き立てた。
肉を噛みちぎり、身体から引き千切る。
少女の絶叫が甘美に味を彩る。
痛みに苦しむ苦悶の叫びか、快楽に悦ぶ愉悦の叫びか、喉から溢れる振動が夜空を響かせた。
少女が唯一望んだもの。
それは、左腕だけは最後にして欲しい。
それだけだった。
少女が望んだ最後の一本が弧を描き、己を貪り続ける銀色に触れた。
サラサラと銀色の合間を抜けて、たおやかな指がその一本一本の感触を確かめていく。
ゆらゆらと少年の頭を優しく摩り、
やがて、動きを止めた。
空には満月が輝いている。