エーミールに寄せて
『そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな』
学校の教科書にはたくさんの小説が載っていたけれど、これほど印象深い一文はなかなかないのではないかと思う。ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』。しかし残念なことに、私にとって印象深かったのは、この作品そのものよりも、この作品をどう教わったか、ということだった。
エーミールは、『厭味ったらしい鼻に突く優等生』と言う風に、中学時代、授業で読まされた。読まされたというよりも、先生によって思考を誘導された、と言う方が正しいかもしれない。とにかく授業の中では、エーミールは『嫌な奴』だった。
それから随分後、大学時代、現代文学研究の講義で泉鏡花を読むことになった。私は、『夜行巡査』について、読解することになった。そうして60点くらいのC評価を貰った。その鬱憤もあったのか、私は無遠慮に、所属していたサークルの現代文学を専攻している先輩に「現代文学研究なんて、独りよがりに読み方を他人に押し付けて、他人のふんどしで相撲を取ってるだけじゃないか」というようなことを言った。すると先輩は、やはり怒って「勉強してない人がそういう事を言うんだ」というようなことを言った。後輩の私にとても良くしてくれた先輩で、その後関係が悪くなるようなことは無かったが、後にも先にも、この先輩が怒ったのはこれきりだった。
結局私は、現代文学研究の講義を、講義中その教授と喧嘩して教室を出てゆき、単位を取れずに終わった。その時に思い出したのが、『少年の日の思い出』だった。あれを習っていた時と、同じような気持ちになった。
以来私はずっと苦々しく、そしてまた、不思議に思っている。どうして「読み方」を強要されなければならないのだろう、と。確かに、「浅い読み」と「深い読み」はあるとは思う。読む才能のある人は、その読める深度がものすごい。根拠を示しながら、「こう読むべし」という方法でなければ学問としては成り立たないのもわかる。
しかし、エーミールは本当に『嫌な奴』だったのだろうか。
そう思って私は今、もう一度、あの頃、教科書に載っていた作品を「おさらい」している。