3 ジャスミンside
―――昔は良かったなぁ…。
と思いっきり言えるほど長く生きているわけではないが、少なくとも、ジャスミンにとって一番幸せな時期は子どもの頃、何も考えずに領地に帰ると毎年遊びに来るブライアンと遊べていたあの時期だった。
初めて屋敷にブライアンがやってきた年、ジャスミンはヒールのついた靴を履く練習を始めた頃だった。とにかくすぐに転けて、靴を替えてもこける理由が分からなかった。
ブライアンの家族とお茶会をして、少しブライアンに庭を案内してあげなさい、と母に言われた時、ジャスミンは青ざめた。母からすればブライアンにエスコートさせれば多少つんのめってもこけるほどではないだろうと課題を出した気分だったのだろう。
ブライアンが差し出した手をとって、十歩も歩かぬうちにジャスミンが二回もつんのめって、それを見ていたブライアンが「失礼」と手を離した時、ジャスミンは自分の不出来に泣きそうになった。
しかし、ブライアンはジャスミンの肩と膝裏に手を入れて、お姫様抱っこで元の椅子まで戻って座らせた。その後、一緒に居た自分の母親である子爵夫人に小声で何事か伝えてから、自分の兄弟と父達に外へ出ようと誘い、ジャスミンの母に謝った。
「すみません、私のエスコートがあまりに下手だったようです。再びの機会を頂けるよう先達にコツを伺うので、退室の許可をください」
そう言ってブライアンが男性陣を全員連れて去ると同時に、子爵夫人がジャスミンの母に願って人払いさせた。
そして子爵夫人はジャスミンに近寄り、しゃがんでドレスの裾をめくると、靴を触った。
あまりにこけるのでジャスミンは編み上げのブーツを履いていたのだが、子爵夫人はその靴紐を解いて全て抜き去った。靴を大きく開け広げると、木の型とぎゅうぎゅうに詰められた足を出した。母が悲鳴を上げ、そこでジャスミンは初めて、これが普通でないと知ったのだった。
後に解雇された侍女達は、上司に怒られる鬱憤を晴らしていたらしい。『古いやり方でやった』という言い訳をしたそうだが、建国前の、しかも他国の風習など理由にもならなかっただろう。
ブライアンは歩き方より、ジャスミンが歩くのを嫌がった事が気になって、靴が合っていないのではないかと子爵夫人に見るようにお願いしていたそうだ。
この時から、ブライアンはジャスミンの中で王子様になった。
***
その翌年には、遊んでいた時にどうしても我慢できずにブライアンに愚痴をこぼした事があった。
「私がどの勉強をしていても、必ず父母のどちらかから『そんな事をしなくていいのに』と不満そうな顔で言われるの。私は何をすべきなのか分からなくなってしまって…。騎士と侍女のどちらになるべきなのかしら?」
初めての娘だったジャスミンに、父母は多大で自分勝手な期待をかけていた。
父は、文官一家で大人しい子どもばかりだった中で走り回っていたジャスミンを見て、自分がなれなかった騎士にさせて王族女性の護衛をさせる事を夢見た。筋肉が付きにくい家系だろうと男ほどは差も出ないはずと、父はジャスミンに武芸の教師をつけていた。
元伯爵令嬢で王妃に憧れていた母は、自分がなれなかった王妃の侍女にさせる事を夢見た。ジャスミンは母と違い侯爵令嬢なので、王太子妃の友人ぐらいがちょうど良いはずだ。しかし、何故か『もっと近い距離で王妃にお仕えしてほしい』と自分の夢を子どもで果たそうと必死だった。
両親は何度も話し合ったがいつも結論は出ず、結局ジャスミンは何もかも頑張る羽目になった。ジャスミンは忙しい日々の中で、肯定と否定をいつも同時に受けて、何をしなければいけないのか段々分からなくなって疲れ切っていた。
ブライアンはしばらく黙った後、考えながらゆっくりと話し出した。
「よその教育方針に口は出すものではないと怒られそうですが、ジャスミン嬢はご両親とは違う存在なのですから、親の夢を叶える必要はないと俺は思います。文官の道だって、他の道だってあるかもしれないし。
…けれど、それと貴女が何をすべきかは別の話だと思います。これはうちの父がよく言う事なのだけれど…、何が役立つかなんて分からないから、小さいうちは何でもやっておけと。だから、何をやらなくていいなんて簡単には言えないし、何をやっても正しいと私は思いますよ。よく頑張りましたね」
騎士だって所作が綺麗なら高貴な場に連れて行きやすいし、事務作業が出来れば重宝される。他の仕事だって一つだけしていればいいものなどほとんどないだろう。
「私、貴方のおうちに生まれてみたかったわ…」
「でも、たくさんの教育は侯爵家だからこそ受けられるでしょう?それに、ご両親の事が好きなくせにそんな事仰ってはいけませんよ」
不貞腐れたジャスミンに苦笑して頭を撫でてくるブライアンは、たった一つ上と思えないほど大人びていた。だから、ジャスミンの目にブライアンしか入らなくなったのは仕方がないと思う。
そんな風に毎年惚れ直すような出来事があって子爵家三男にどんどん夢中になっていく娘を見て、両親は危機感を抱いたようだった。
十二歳になった年に、『ジャスミンの外聞の為に』と母はブライアンの女家族だけを呼んだ。ジャスミンはブライアンが好きなのだから、外聞など気にする必要も無かったし、そもそも領地内では王都へ外聞など伝わるはずもないのに。
そして領地から戻ってすぐ、伯爵家次男のマイケルとの婚約が結ばれた。ジャスミンが望んだ訳でもないのに、契約に『結婚してもそれまでのジャスミンの仕事を続けさせる事』という条項を見た時、両親はともにジャスミンを使って夢を叶える事を諦めていないのかと思わず乾いた笑い声を上げてしまった。
***
初めてマイケルに会った時、マイケルは人払いして土下座した。
「すまないジャスミン嬢、俺には愛し合う人がいる。どうしてもその女性と一緒になりたいが、父が格上との縁を喜んでいてこちらから解消は出来ない。どうかジャスミン嬢から解消を願い出てくれないか?」
「どうか顔を上げてこちらに座ってくださいまし。そのような事情ならば私は交渉がしたいですわ」
そうして、ジャスミンにも片思い相手がいるが、諦めさせる為にこの婚約が結ばれたので、今ジャスミンが解消を願い出ても受け入れられないだろう事を説明した。
「けれど、契約のこの条項を使えば、将来的に解消は可能だと思うのです」
ジャスミンは、『二人に幸福な生活を築けないと確信を得る相応の理由があり、いずれにも有責事項がない場合、双方の了解の下この婚約を円満に解消できる』という事項を指し示した。
「双方に落ち度が無いけれど、解消をしたい場合の為のものです。性格の不一致をこの『相応の理由』にするには、それなりの期間の努力を示す必要がございます。
『愛し合う人を忘れて、私を愛そうとする努力をしたが、どうしても出来なかった』振りと、そちらの有責とならぬ為に、公の場以外での直接の連絡を断つ事。貴女の恋人を待たせて、しかも彼女を悪女と呼ばせるかもしれない事。これらを遂行くださるなら、私は喜んで協力いたしますわ」
正直なところ、このまま放置してマイケルと恋人が付き合い続けていると証明すればマイケル側の有責だが婚約は解消出来るし、マイケルは好きな人と結ばれるだろう。だが家の意向に従う意向も見せずに自分の我儘を通すだけという態度では醜聞となり、将来は暗いはずだ。
ジャスミンはこの企みが上手くいって、かつブライアンがフリーなら、ブライアンに婚約を申し込む可能性という夢が見られる。ブライアンに恋人が出来たなら、諦めて仕事に生きても、他の女の子の方を向いていない新しい人を探してもいい。途中でマイケル達が挫けたとしても、何もせず婚約した時よりもお互い諦めがつくから、マイケルとは前向きな関係を築けるだろう。
「普通の手段では得られない、愛と立場の両方を欲するのですから、困難があって当然でしょう?けれど、貴方の恋人に、ある時期までそちらの情が続くなら必ず解消します、とでも手紙を書くぐらいはしますわ」
マイケルはしばらく俯いた後、ジャスミンをまっすぐ見つめた。
「その提案を呑もう。そもそも貴女との婚約を解消する為に悪女と呼ばれるかもしれない事は彼女も承知だ。それに婚約解消して放逐ならばまだ良いが、新たな婚約を結ばれる可能性もある。彼女は説得してみせる」
「では交渉成立ですわね。彼女に私的に会うのは次の機会のみ、手紙の遣り取りは私を介してにしてくださいな」
そうして、ジャスミンはまず、友人に「婚約者と自分にはそれぞれ好きな人が居た。自分の方は叶わぬ恋だったので、両思いだったという婚約者達を応援してみたかった」と話して噂にした。あくまで過去の話としたし、実際接触が無いはずなので、親達が動く事はない。
マイケルの彼女である子爵令嬢のキャロルとは友人になって、定期的にマイケルの手紙と、ジャスミンからの解消を約束する手紙を一緒に渡し続けた。ただし手紙は証拠として残らないよう、マイケルにもキャロルにも読んだらその場で焼かせた。年に数回は全てジャスミンからという名目で互いの小さな贈り物を届けたし、ジャスミンはお茶会では恋人達が互いに何と言っていたかという話をした。しかし、公的な場では顔を見られるとはいえ、それだけで五年も保たせたのはやはり本当に愛し合っていたのだろう。
キャロルには、少しでも結婚する価値を上げる為に、勉強と社交を強いて人脈を広げさせた。マイケルは、キャロルにしたかっただろう事の一部をジャスミンにするよう強いたので、周囲からは仲睦まじく見えていただろう。だが実態としては、ジャスミンは贈り物はなるべく花束のような残らないものを望み、一緒にお出掛けに行けばキャロルとの逢瀬の下見だと思って厳しくチェックした。
ジャスミンは武芸の師匠に頼んで、稽古のはずの時間を増やした上で平民の店で働き始めた。ジャスミンは武芸は不向きで早々に父に内緒で剣から暗器に持ち替えて自衛の為と目標を変えてある程度頭打ちになっていたし、師匠は潜入などの方向に伸ばしたいのなら、と勘違いして協力してくれた。妄想するならとことんやり抜く方が楽しいはず、と思って始めた仕事は大変な事もあったが、概ね人にも恵まれたし、食堂や理髪店など様々な所で働いたので、それなりに毎回目新しく楽しめた。
そしてジャスミンが二年生の頃からダイエットを始め、三年生でマイケルと示し合わせて解消を決意したと親に伝えた。仲を良く見せていた為、親達には晴天の霹靂だったらしい。ジャスミンの次の婚約を探すのが困難だと特に母が説得に必死だった。
「今まで仲が悪かったとしても、少なくとも取り繕える程度だったじゃない?これからも出来るのではなくて?」
「いいえ、これまで辛いながらも何とかごまかしてきたのです。五年で限界に達したのですから、これからの人生を共に歩むのは無理です。
それに、共同事業は軌道に乗った所ですが、マイケル様のお兄様がご夫婦二人で努力くださったからですわよね?結婚後、後釜が卒業したばかりのマイケル様と、他で働きながら片手間に手伝う私では力不足です。既に初期投資を回収するほど我が家にも利益はあるのですから、マイケル様が他の専従出来る妻を娶られて、我が家は出資に専念するという形の方が理にかなっているでしょう」
何とか継続させようと両家の親達があれこれ説得する時間で引き伸ばされたが、お互いに婚約者としての責務を放棄した姿を見て、半年後にようやく解消が成立したのだった。
両親は少し冷却期間を置けばまた元に戻ると思ったのか、解消した事を広めないようにと口止めしてきた。しかし、それでは意味がないので言いつけを簡単に破って、ジャスミンは校内で親しい友人に婚約解消をこぼしておいた。
「マイケル様の心の中にはずっと一番好きな人がいて、隠そうとしても比較されているのが分かりますの。そうすると、こちらも愛がある訳ではないから腹が立つでしょう?彼女と別れて、気持ちを隠そうとする努力がある分誠実でいらっしゃったから、私も向き合う努力をしたけれど、やっぱり無理やり向き合う努力より好き合った人達をくっつける努力の方が前向きで皆幸せだと思ったのです」
しかし友人は友情を大事にしてくれていたのか広まる事はなく、半年後、マイケルとキャロルが伯爵達の説得に成功して婚約して初めて広まった。キャロルが婚約を解消させた悪女という噂も、ジャスミンが恋人達を引き裂いた悪女だという噂も出回ったが、ジャスミンがキャロル達を祝福し、二人が笑顔で受けていたし、以後も仲良くするうちに徐々に噂は消えていった。




