9,
オリヴィアが私の手を振り払った。同時に、ばんと机をたたき、立ち上がる。
「いい加減にして。あなたにだって、婚約者ぐらいいるでしょ。私に触れていいものではないわ」
婚約者? それはあなたでしょうと脳裏をよぎる。
まくし立てる彼女の言葉を追うだけで精いっぱいだ。
「婚約者がいる身で、見ず知らずの女の家に二人きりなんて、言い訳できないのではないかしら」
彼女からして見たら、今の自分はオリヴィアではないと言いたいのか。
私にとって、始めからあなたはオリヴィアでしかないというのに……。
「さっさと馬車が来たら、帰りなさい」
オリヴィアの肩がわなわなと小刻みに動く。これ以上声も出ないと唇も震えている。
しまったと思うも、もう遅い。私はしくじった。怒りに震える彼女から目を離せない。
「……あなた……、あなたにだって……」
感情が高ぶり、頬が紅色する彼女を見て、私は過去を思い起こす。彼女との関係を洗いざらい絞り出し、どこに間違いがあったかと思案する。
その間も、何かを言おうと唇を震わせる彼女の喉は、息を通すばかりで、言葉を紡ぐ気配はなかった。
彼女の目に涙が浮かび上がってくる。
腕がのびて、両手でぐっとスカートを握る。
見開かれていた両目がぐっと閉じられた、涙がまつ毛を濡らしそのまま、頬を伝い落ちた。
私は絶望の奈落へと追い落とされる。
「オリヴィア」
いてもたってもいられず、私は彼女の名を叫び、立ち上がるなり、彼女の元へ駆け寄っていた。
オリヴィアがはっと顔をあげる。閉じられた目が開く。
彼女の前で立ち止まった私の視線と彼女の視線が絡む。
「オリヴィア」
「……なんで……」
彼女の打ちひしがられながらも怒りをたたえた表情に私は強い衝撃を受けると同時に、すとんと私のなかに一つの答えが落ちた。
そもそも彼女は、歌姫とオリヴィアが同一人物であると私が知らないと思っているのだ。
「なんで、私の名を……」
「婚約者だ。あなたのことを見間違うわけないだろう」
「だって、私のこと、母の娘だと思って……」
「表向きは、隠しているのは知っている。合わせるのがあなたのためだと思った」
「では、歌い手の母の娘と伯爵家の長女が同じ人物であることを知ってて、婚約を申し込んで……」
「もちろんです」
意志を込め肯定すると、オリヴィアがへなへなと座り込んだ。
「大丈夫ですか」
腰砕け地面に手をつく彼女の目の前に私も座り込む。
「どこから、知ってたの」
「最初から」
「最初って……」
「私は、あなたがステージで歌っている姿を見れるだけで満足していました。そこに、あなたの母が現れて、耳打ちしたのです。
伯爵家の長女が、私の娘だと。
私はいてもたってもいられず、伯爵家に行き、婚約を申し出ました。そうして、あれよあれよと、今にいたるのです」
「……グレアム様は、私のことをお嫌いではなかったのですか……」
「……まさか、ステージの上にいるはずの月の女神が現れて、正気でいられるほど、私は肝がすわっていないのです……」
彼女が縋り付くように私を見つめ、伸ばした手で私の袖をつかんだ。
「私のことを嫌っていたわけではないのですか」
念を押すようにもう一度尋ねられる。
「まさか、あなたと共にいて、私は緊張のあまり、声がでなくなってしまうぐらいでした」
「……そんな……」
彼女は言葉を失った。
その時、カタンと小さな音が立った。オリヴィアの視線が私の肩を飛び越える。すぐさま立ち上がり、駆け出した。
「父さん、なんでここに!」
「なんで気づくんだ!」
重なった二つの声に私も驚き、目をむける。
台所の入り口の縁にこそっと隠れるように、伯爵が立っていた。
「父さん、どうして」
「母さんの、忘れ物を取りにきたんだ」
「だからってこんな時に……」
「寝る時のハーブティーを忘れたから、取ってきてとお願いされたのだ」
「それ……、本当……」
「ほっ、本当だよ」
恨みがましく睨む娘に、伯爵は斜め上を見上げ、口笛を吹くかのような口で、ごまかしわらいを浮かべている……ように私には見えた。
「しかし、もう少しで、チューでも見れたかと、父さんは肩に力が入ってしまったよ」
はははと笑う伯爵に、オリヴィアの肩が震えだす。
「父さん……、白状してください……。様子、見に来たんでしょ……」
「いや、偶然……かな」
「ここまできて、しらを切ると……」
「いや、そんなつもりは、なあ、グレアム君」
娘には形無しなのか、情けなく慌てふためく伯爵が、私に助けを求めてきた。
「はい、伯爵が与えてくださいましたミッション通り、オリヴィアをこんなにも近くに感じられるひと時を得られ、私は感謝の念に堪えません」
「グレアム君、そうではなくてな」
「父さん……。様子を見に来たうえに、けしかけたのも、あなたですか」
「いや、私だけじゃないぞ。母さんも心配しててな……」
「心配とは……」
伯爵はおどおどし、オリヴィアの方はふるえ、拳を握りしめている。まるでこれから、そのグーで父へと殴り掛かりそうな勢いだ。
「君たちがあまりにうまくいってなくて、みんな心配していたんだよ」
「みんなって何ですか」
「グレアム君と会ってきたら、陰鬱としていたじゃないか、その気を晴らすために、彼の屋敷から戻ってきてすぐに母のところで歌わせてもらっていたのだろう」
「それは……」
伯爵の言葉に、オリヴィアがうつむいた。
なんと、それは私にも責任の一端があると言われているに等しいことだった。
「……伯爵。それは本当の話ですか……」
親子の会話であっても、私もかかわると知り、黙ってみているわけにもいかない。
「私が、オリヴィアを苦しめていたと……」
「……まあ、そうだな」
伯爵は肯定する。
オリヴィアは沈黙を守ったまま。
「私が、彼女にきちんと伝えていなかった。それが悪かったのですね」
「そうだな。黙っていても、伝わることはない。伝えられることは、つたない言葉でも伝える努力をしないと、不安になる。
そうだな、オリヴィア」
沈黙の中で、彼女は小さくうなづいた。
「私が、もう少し、あなたの前で、緊張していなければ良かった……」
「朴訥でもいいんです。少しだけでも、小さな一言でもいいから……」
小さな彼女のつぶやき。私の胸のなかに、深い深い謝罪の念が広がる。
「すまない、オリヴィア。
私にとって、あなたは……」
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