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最悪だわ。やっぱりただの浮気男じゃない。
オリヴィアを婚約者に選んだことも、実は母の娘の歌姫を身代わりにしただけなのね。同一人物ですもの、背格好は似てて当たり前よ。雰囲気が違うだけで、手の届かない歌姫ではなく、似ている伯爵令嬢を狙っていたのね。
偶然、階段で助けて、馬車に乗り込んで……。そりゃあ、ここであなたが不貞らしき素振りを見せたら、私から婚約破棄を申し出る根拠ができると、狙ったのは私よ。半分は自業自得だわ。
私はグレアムの手を振り払った。同時に、ばんと机をたたき、立ち上がる。
「いい加減にして。あなたにだって、婚約者ぐらいいるでしょ。私に触れていいものではないわ」
さすがの無表情を誇るグレアムも、青ざめるような変化が見られた。しまった、やばいともとれる顔に、してやったりと私も笑む。
「婚約者がいる身で、見ず知らずの女の家で、二人きりなんて、言い訳できないのではないかしら」
普段、どれだけあなたに冷たくされているか。私の気なんて知らないでしょう。婚約者にはあれだけ、冷ややかなくせに、こんなところで親切を押し売りするなんて、最低だわ。
「さっさと馬車が来たら、帰りなさい」
腹が立つわ。
こんな男に、振り回される私に腹が立つ。
婚約者だと紹介されて、一瞬でも時がとまったかのように喜んだ私が愚かだったのよ。こんな人が、表に出ていない伯爵令嬢に下心もなく近づくわけがない。
初めてこの人の屋敷に呼ばれた日には、何を着て行こうかとか、夜の装いみたいに派手なのより清楚な方がいいわねなどと、余計な気を回しすぎた自分が嫌になるわ。
なのに、しょっぱなから、笑いかけても、反応なし。話しかけても、なしのつぶて。時間だけ重く、鉛のようにのしかかってくる。二回目までは、こちらも頑張ったけど、三回目からは、ああこの人の心は私にはないんだとはっきり分かったわよ。
思い出すだけでも、どれだけ私が空回りしていたか、痛感する。何もかも、無駄だったのね。
挙句の果てに、本命は別人かと思わせるこの態度。
婚約者に見せる素振りの違いに、腹が立つわ。
しかも、これも私なのよ。
私が、私に嫉妬して、バカみたいだわ。
わなわなと肩が振れる。唇がわなないて、次の言葉が出てこない。
グレアムが目を見開いて私を直視する。
針のむしろだ。こんなこと知りたくもなかった。知らないで、あと数か月進展がなければ、父に婚約はないものにできないかと相談して、心安らかにさよならできたろうに……。
こんなところでばれて、ご愁傷様。グレアム・ベイクウェル。ここで、私はあなたとの婚約破棄を申し出てやるわ。
「……あなた……、あなたにだって……」
婚約者がいるでしょう!
高ぶった気持ちとは裏腹に言葉が出ない。
『婚約者がいるでしょう。婚約者がいるくせに、こんなところで、初対面な女に親切にして、家に上がり込んで、何をしているの』
頭の中に言葉がとめどなく流れるのに、声にうつりこませられない。
『私こそ、オリヴィア・ジェンキンス本人よ。こんなところに、のこのこやってきて、婚約なんて、破棄してやる』
気持ちだけからまわって、唇が震えて、声が出ない。
代わりに涙が、あふれてきた。
こらえた涙が、喉を伝っていく。
ボロボロだ。
私が私に敗北して、どっちも自分なだけに、嫌になる。自分の身代わりに、自分が選ばれて、両方同じ人物ですなんて言っても、うれしいことは一つもない。
おろした両手でぐっとスカートを握った。
思うように声が出なくて、悔しくて、見開いていた両目をぐっと閉じたら、涙がにじんで零れ落ちた。
「オリヴィア」
グレアムが叫んだ。
私がはっと見上げると、彼が目の前に立っていた。
「オリヴィア」
もう一度、私を呼んだ。
「……なんで……」
この人は、私を知らなかったのではないの。
「なんで、私の名を……」
「婚約者だ。あなたのことを見間違うわけないだろう」
「だって、私のこと、母の娘だと思って……」
「表向きは、隠しているのは知っている。合わせるのがあなたのためだと思った」
まさか。
「では、歌い手の母の娘と伯爵家の長女が同じ人物であることを知ってて、婚約を申し込んで……」
「もちろんです」
グレアムの力強い肯定に私は、腰が砕け落ちた。
「大丈夫ですか」
彼が私の前に座り込む。
「どこから、知ってたの」
「最初から」
「最初って……」
「私は、あなたがステージで歌っている姿を見れるだけで満足していました。そこに、あなたの母が現れて、耳打ちしたのです。
伯爵家の長女が、私の娘だと。
私はいてもたってもいられず、伯爵家に行き、婚約を申し出ました。そうして、あなたと婚約し、今にいたるのです」
拍子抜けする。動けなくなった。私はいったい、今まで何を、悩んでいたのだろう。
「……グレアム様は、私のことをお嫌いではなかったのですか……」
無反応、無感情な彼は、義務として私と会うだけで、私自身に感心は一つもないと思っていた。
「……まさか、ステージの上にいるはずの月の女神が現れて、正気でいられるほど、私は肝がすわっていないのです……」
グレアムの一言に、私は、ぐあんと頭が殴られる。
座り込んだまま、彼と見つめ合う。
手を伸ばし、袖をつかんだ。
「私のことを嫌っていたわけではないのですか」
念を押すようにもう一度聞く。
「まさか、あなたと共にいて、私は緊張のあまり、声がでなくなってしまうぐらいでした」
黙っていたのも、無表情でいたのも、私と一緒にいることに緊張しているせいだったというの。
「……そんな……」
言葉もない。最初から知っていたとは……、しかもこの婚約の発端は母だとしたら、父も承知しているはず……。
カタンと小さな音が立った。私は、音の方へ目をむける。
そこには、壁に隠れ、目だけ私たち二人に向ける父が、タコのように口をすぼめて、立っていた。




