7,
目の前にいるは、歌姫の姿をしたオリヴィアは、ハーブティーに口をつける。
私は彼女のぬくもりを感じる空間に、じんわりと感動を覚えながら、伯爵から与えられ今に至るまでの経緯に想いを馳せる。
彼女の父にミッションを与えられ、私は言われるまま階段の踊り場で待っていた。一段高いところで待ち、出てきた彼女に声をかけようと構える。
ほどなくオリヴィアはステージ衣装のまま裏手にある外階段に出てきた。
声をかければいいのに、私は躊躇する。
重い荷物を持っているのだ。持ちましょうか、などと気の利いた一言を告げればいいのに、それができない。伯爵に課題を与えられた時の高揚感は、彼女を目にし、吹き飛ばされてしまった。
そのまま言葉一つかけれず、後ろから音を立てずに忍び歩き、彼女の様子をうかがいながら追いかけた。
荷物が負担になっているのか、彼女の足取りが徐々に重くなる。私は、声をかけるタイミングを迷う。
その時、彼女が階段でバランスを崩した。私は慌てて駆け下り、彼女の胴に腕を回し、ころげ落ちそうになる彼女の鞄の持ち手を掴んだ。
なんということだ。
やればできたという感慨に、むせび泣きそうになる。
振り向いた彼女と目が合い、気を引き締めた。
「ケガはないか」
やっと出た一言に、彼女は身を固くした。足に痛みを覚え、美しい顔を歪ませる。足を痛めた彼女をほっておけない。
「私の首に腕を回しなさい」
平静を装いながら、彼女の体を支えた。密着するぬくもりは、まるで洗い立ての毛布のようであった。いざとなれば、できるものなのだと、自身を褒めたたえたくもなる。
彼女を支え、階段を降りる。気遣いながらおりた、つもりだ。
声をかけ、優しくしようと思えばできる。声さえかけれなかった私が、彼女を助けて、寄り添って歩いている。なんという進歩であろうか。これぞまさに、一歩を踏み出したと言っても過言ではないだろう。
やればできるという達成感が全身に満ちていく。
階段をおり切って、私は腕をそっと離した。
「歩けますか」
優し気な声だった。私自身驚くほどの甘い声音に、耳を疑った。
彼女が私の胴を手のひらで押した。なにをと目を丸くする。弱々しい力でも半歩後ろに退いてしまった。
よろめいても、か弱い女性の仕草に驚いただけで、態勢はすぐにととのえられる。
オリヴィアはふんと鼻をならした。その小さな仕草も父親に似てて、私だけが知る彼女の一面がまた増えたと、心の中で拳を作った。
歩けると言い、荷物を奪おうとする彼女を見ても、足をかばっていることは一目瞭然だ。簡素な馬車まで送っていくと、私は荷物を持ち彼女を支えて歩いた。
途中、近寄っていく私たちに気づいた御者が荷物を受けとりに来た。私は彼女の荷物を預け、オリヴィアのエスコートに徹した。
御者が荷物をつみ、馬車の扉を開ける。彼女が自力で馬車に乗ろうとするところを止めた。まだ痛い足を引きずって帰すのは忍びなかった。
段差をのぼるのもつらいだろう。彼女を抱き上げ、馬車に乗せ、私も一緒に乗り込んだ。
何とも言えない会話を交わし、沈黙する。途中彼女に名前を聞かれた。
歌姫である自分と、伯爵令嬢オリヴィアでは別人と通しているための、カモフラージュかもしれない。私が婚約者であると気づきつつ、彼女なりに立場を隠そうとしている可能性も高い。
彼女にとって、歌姫の自分と伯爵令嬢の自分を分けてもらいたいなら、望むままに沿おうと決意した。
馬車から降りた彼女を送り、戻る馬車に乗せてもらい、帰ろうと思っていた。正直、これ以上彼女といるには、私のキャパシティが持たない。
隣に彼女の体温を感じ、馬車で揺られる。狭い空間に二人きりだ。伯爵の与えてえくれた時間の甘さは、砂糖菓子を口いっぱいに頬張ったかのような愉悦を私に十二分に与えてくれた。
これ以上は今の私には過ぎたるものだ。
にもかかわらず、彼女は私を誘ったのだ。
家に招き、お茶をご馳走すると……。
親切が、まわり巡って帰ってきた歓喜。
私は流れに任せ、彼女の母の自宅に足を踏み入れた。
問題が一つあるとすれば、彼女が自身を歌姫と認識し、伯爵令嬢オリヴィアとは別人だと私が思っていると認識していることぐらいだろうか。
そんな小さな誤解はまあいい。
小さな空間で、彼女の息遣いを感じながら、小さなテーブルをはさんで椅子に座り、向かい合っているひと時。このなんと素晴らしいことか。
天国はこの世にあると私に指し示し、神の水瓶から注がれた橙色の液体が、この手の中で輝いている。私の脳内で、教会の鐘が高らかと鳴り響くようだ。
夜であることを慮って、用意してくれたハーブティーである。
生きてて良かった。
天にも昇る気持ち。
ありきたりの言葉で表現されうるありとあらゆる悦びが、一度に押し寄せ、その渦に飲まれそうなまま、私は現実に留まることがやっとな状態であった。
この麗しい時間を砂糖漬けにしてしまいたいと願わずにいられなかった。
「早く馬車がくればいいのに……」
ぽつりとつぶやいた彼女の言葉に耳を疑う。
そんな寂しいことを言わないでほしいと胸が痛んだ。
思わず伸ばした手が彼女の手を握った。
「そんなこと、言わないでください」
寂しさのあまりに、切なくも、息つくようにつぶやいていた。