6,
セイレーンの異名を持つ歌姫こと、わが婚約者のオリヴィアにハーブティーを淹れてもらった。
震える手をもって彼女が触れたカップに指先を寄せる。炎とランプの明かりが交差し、薄暗い室内で、カップ内の液体はそそと振れ、黄金の玉雫を空に放ち私を惑わすようである。
彼女は自身の分を注ぐと、私の目の前に座る。伏し目がちに、私と視線を合わすことを避け、静かにカップに鮮やかに紅を差した唇を添えている。
かしいだ顔に橙の明かりが落ち、影が斜に差せば、その陰りが彼女を妖姫のように魅せる。闇と炎にランプの光とはなんと幻惑的に、幻の歌姫を演出するものか。触れれば、闇に溶けてしまいそうだ。
貴族の令嬢としての彼女も愛らしいが、歌姫と化した彼女もまた麗しい。
女性が化粧や衣装でこれほど雰囲気が変わるかと驚くが、昼と夜で二つ違う顔を持つというのも、なんともなまめかしく感じてしまう。
このような場を提供してくれた彼女の父たる伯爵に私は心から感謝したい。
今より小一時間ほどの前、店を出た矢先に、頭部が薄くなりかけた小柄な男性に腕をつかまれ、私は隅の廊下に連れ去られた。
心地よい気分のまま屋敷に帰ろうとした矢先の出来事に、浮かれていた私は抵抗する間もなかった。
壁に背を勢いよくぶつけられた。痛みで、目じりが歪む。私は怒りを覚え、目の前の男を睨む。貴族である私にこんなことをして許されることはないのだ。
私を壁際に追い詰めた男がどすのきいた声を発した。
「グレアム君」
聞き覚えがある声に驚愕する。脳裏をよぎった人物の面に、私は萎える。街商人風の軽い衣装を身に纏っているものの、正体はおそらく私にとって頭のあがらない人物だ。
「伯爵こそ、そのような恰好で……」
私を追い詰めるのは、オリヴィアの父、伯爵自身。
「なぜ、そのような恰好で、この場に……」
伯爵は私の背後の壁を平手でドンと叩いた。その体勢のまま、私より背の低き小男がぎりっと睨み上げた。
そんな体勢であっても私の脳裏をかすめるのは、婚約者だった。彼女の小柄さは父譲りかと納得する。最愛の女性のルーツ一つ発見し、胸にしまう美しい彼女との思い出の小箱に、また一つ麗しい宝石が零れ落ちた。
「グレアム君」
伯爵の低く響く声に我に返る。
「君、娘とはうまくいってないね」
いや、そんなことは……などと言い訳できる根拠がなく、私は伯爵を見つめたまま、押し黙るしかなかった。
「君は、ここに娘の歌を聞きにきていることも黙っているね」
彼女の父は、追い打ちをかけるように痛いところをついてくる。確かに、彼女をここで見染め、伯爵令嬢と歌姫が同一人物であると知り、婚約を申し込んでいる。
彼女の父にも、彼女の母が私に耳打ちした件は承知済みだ。
「この数か月、君に会うごとに娘は憂鬱な顔で帰ってくる。いったい、君は、娘と会う時間に何をしているのだ」
ぐうの音も出ない。何をしてるもなにも、私は彼女を前にすると、言葉も出なくなってしまうのだから……。
「このままでは、娘は君との婚約を破棄してほしいと言い出しかねない。事の重大さを君は分かっているのか」
伯爵の言葉に私は愕然とする。立場上それは難しいとは思って甘えていた。それにも期限があると伯爵は言いたいのだろうか。煮え切らない私に、伯爵自身が、娘の代わりに破棄をするぞと脅しにきているのか。
私は焦りを覚え、背に冷たい汗が伝い降りる感触を覚えた。
「面目なく、私は、彼女が、目の前にいると……どうにも、声も出なくなってしまうのです」
伯爵は呆れた顔して、頭部を左右に振った。壁に添えていた手を離し、腕を組み、私に冷ややかな笑みをむける。
「そんなことだろうと思ったよ。彼女の母からも、芳しい話を聞かない。せっかく、娘の正体を明かしたのに、みすみすチャンスを棒に振る男だと思わなかったとまでこぼしているよ」
なんということか。私の煮え切らない態度に、彼女ばかりではなく、伯爵ひいては彼女の母さえも、呆れていたということか。
「……もうしわけないことに……」
私はありありと苦悶の表情を浮かべていることを自覚しつつ、謝罪するしかなかった。
「もういい。すぎたことは仕方ない。
私も妻も、彼女の母も、オリヴィアに平民になって結婚するより、真に彼女を愛してくれる貴族の男性と結婚し幸せになってほしいと思っているのだ。
彼女の母は数多の貴族と接している。誘惑する者も後を絶たない。私という伴侶がいることを知りながら、声をかけるとは図々しいと思っても、男とはそんなものだ」
伯爵の毅然とした態度に瞠目する。小柄で頭部も薄くなった男性の勇壮とした弁に、男らしさとはこういう姿かと息を呑む。
「娘は、母の娘であるという自覚が足りない。私や妻という後ろ盾を失えば、母の娘という肩書がどれほど自身に牙をむくのか、予想できないほど、幼いのだよ。
さすれば、娘が平民になり、幸せになれるはずもない。
平民になり、安穏と暮らせると夢見るのはいいが、傷ついてからでは遅いのだ」
伯爵の娘への思慮深さに私は驚嘆する。そして、何ゆえ私に、彼女の母が声をかけたかと疑問がわいてくる。
「……なぜ……」
ふんと伯爵は鼻をならした。それさえも分からないか若造めと、言われている気がした。
「娘の母の目は節穴ではない。
ステージに立たせた娘を、貴族の男がどんな思いで何を考え見ているのか、観察している。男心を熟知し、それらを手玉に取って生きる側面を持つ女だ。
さすれば、男が、娘を狙うものか、愛するものかぐらいの区別をつくのだよ」
「では……、私は、彼女の母に選ばれたということですか!」
真実は私を驚かせ、この世に神が存在することを証明した。
伯爵は腕を組んだまま、私を正面から見据える。
「今日のステージから、私と彼女の母は長期休暇で旅行に行く。その間、娘は、母の家で一人暮らしだ。
繰り返す、グレアム君。
娘は、家で一人でいるのだ。わかるな。
君は、これから、帰宅する娘に声をかけよ」
伯爵は、私に、竜退治にも匹敵する、驚愕のミッションを叩きつけた。
こうして私は、竜退治の末に手に入れた、オリヴィアのハーブティーという秘宝を手にしえたのである。
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